毒ガスの実戦使用

侵略戦争初期の1937年8月から、

毒ガスの筒や弾丸、

爆弾を使用してはいましたが、

当初は主として催涙ガスや

くしゃみ性ガスを使用していました。

 

北支那方面軍第一野戦化学実験部の要報 1937年9月

 ・・・・支那軍に対するあか剤の使用は

 極めて有効なり・・・

 

しかし9月になると早くも

猛毒のきい弾(イペリット)を使用し始め、

その後は徐州、山西、武漢と、

どんどん毒ガス戦をエスカレートさせてきました。

特に武漢作戦では大量に使用するように

大本営から命令が出されました。

中支那派遣軍の資料によれば、

そのために準備された毒ガス弾は

30万発(充填された毒ガスは約300トン)で、

実際に使用したのは53,000発でした。

 

●中支那派遣軍の総括報告

 ・・・・武漢会戦では実施総回数は

 375回を下らず、その8割は成功し・・・・

 

1938年の終り頃になると戦線が拡大し過ぎ、

補給が追い付かず、悪天候、病気、栄養不良等の為、

日本軍はかなり弱体化しました。

それに中国軍の抵抗も重なってかなり苦戦を強いられ、

負ける戦闘も多くなります。

そのためますます毒ガスに頼るようになってきました。

使用する毒ガスの種類も増えました。

 

●1939年5月13日 大陸指第452号

 ・・・・きい剤等の特種資材を使用し・・・・

 

それ以降は「きい」のイペリットや

ルイサイトをどんどん使用するようになり、

戦闘にかろうじて勝つようになります。

 

● 歩兵第65連隊第11中隊と第12中隊の陣中日誌から

 1939年の襄東会戦での部分です

「戦闘要報」

  江口隊命令 7月26日14時於漢川

 1    密偵報に依れば脈旺嘴付近に在る

    128師大隊長周幹臣は

    部下主力(約7百、砲2門)を以て

    近時盛んに跳梁を試みつつあるものの如し。

 2 大隊は一部を以て該敵情捜索し、

    要すれば敵を求めて攻撃し之を捕捉殲滅せんとす。

 3    第11中隊は中隊の主力、

    今井少尉の率いる機関銃1箇中隊、擲弾筒1箇分隊(3筒)

    小行李より、赤筒1駄を併せ指揮し

    本26日24時漢川出発

    先ず分水嘴に至り当地警備隊を其の指揮下入れ

    脈旺嘴官山付近の敵情並びに地形を偵察すべし。

「日誌」から

 14時より下士官集合教育西南門外において

 矢吹少尉教官、夜間より払暁にわたり陣地攻撃。

 対抗部隊第12中隊、

 個人空砲30発防毒面携行

 赤筒および緑筒を使用す。(8月17日)

 

毒ガスの使用は圧倒的に中国で行われていますが、

東南アジアでも使用されたことが

アメリカ軍の押収資料にあります。

吉見義明教授が確認したものです。

 

● 守備隊参考綴  

   アドミラリティ諸島のロスネグロス島で押収(原文カナ)

 住民からの情報を得る方法について

 ・・・・検索は恫喝的手段にして

 赤筒又はみどり筒を使用し

 或いは部落の焼却、住民の鏖殺を宣言し

 又空包実包を使用する等各種の手段あり・・・・

 赤筒の使用に関しては全住民

 (壮年の男子のみ老人婦女子を除く)を

 適当なる一室に入れ赤筒を炊き

 適当なる時期に扉を開放し

 全住民(男子)を室外に出し

 新鮮なる空気を吸入せしむべし 

 量及び時間を誤りては犠牲者を出す怖あるが故なり 

 (6~8坪の室に於て赤筒1本にて夏季3分間 

 其の他約4分間迄は可なり) 

 之を3~4回(3~4回以上の赤筒使用は危険)反復す・・・・

  注:住民から情報を得るために

    毒ガスを使って脅迫したのでしょう