日本の毒ガス戦

毒ガスの実戦使用
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最終更新日:2015/06/20 10:34

侵略戦争初期の1937年8月から、毒ガスの筒や弾丸、爆弾を使用してはいましたが、

当初は主として催涙ガスやくしゃみ性ガスを使用していました。

* 1937年9月、北支那方面軍第一野戦化学実験部の要報

・・・・支那軍に対するあか剤の使用は極めて有効なり・・・

しかし9月になると早くも猛毒のきい弾(イペリット)を使用し始め、

その後は徐州、山西、武漢と、どんどん毒ガス戦をエスカレートさせてきました。

特に武漢作戦では大量に使用するように大本営から命令が出されました。

中支那派遣軍の資料によれば、

そのために準備された毒ガス弾は30万発(充填された毒ガスは約300トンで、

実際に使用したのは53,000発でした。

* 中支那派遣軍の総括報告

・・・・武漢会戦では実施総回数は375回を下らず、その8割は成功し・・・・

1938年の終り頃になると戦線が拡大し過ぎ、補給が追い付かず、

悪天候、病気、栄養不良等の為、日本軍はかなり弱体化しました。

それに中国軍の抵抗も重なってかなり苦戦を強いられ、

負ける戦闘も多くなります。

そのためますます毒ガスに頼るようになってきました。

使用する毒ガスの種類も増えました。

* 1939年5月13日 大陸指第452号

・・・・きい剤等の特種資材を使用し・・・・

それ以降は「きい」のイペリットやルイサイトをどんどん使用するようになり、

戦闘にかろうじて勝つようになります。

*  歩兵第65連隊第11中隊と第12中隊の陣中日誌から1939年の襄東会戦での部分です

「戦闘要報」

江口隊命令 7月26日14時於漢川

1    密偵報に依れば脈旺嘴付近に在る128師大隊長周幹臣は

  部下主力(約7百 砲2門)を以て近時盛んに跳梁を試みつつあるものの如し。

2 大隊は一部を以て該敵情捜索し、要すれば敵を求めて攻撃し之を捕捉殲滅せんとす。

3    第11中隊は中隊の主力、今井少尉の率いる機関銃1箇中隊、擲弾筒1箇分隊(3筒)、

  小行李より、赤筒1駄を併せ指揮し、本26日24時漢川出発

  先ず分水嘴に至り当地警備隊を其の指揮下入れ

  脈旺嘴官山付近の敵情並びに地形を偵察すべし。

「日誌」から

14時より下士官集合教育西南門外において矢吹少尉教官、夜間より払暁にわたり陣地攻撃。

対抗部隊第12中隊、個人空砲30発防毒面携行、赤筒および緑筒を使用す。(8月17日)

 

毒ガスの使用は圧倒的に中国で行われていますが、

東南アジアでも使用されたことがアメリカ軍の押収資料にあります。

吉見義明教授が確認したものです。

*  守備隊参考綴  アドミラリティ諸島のロスネグロス島で押収(原文カナ)

住民からの情報を得る方法について

・・・・検索は恫喝的手段にして赤筒又はみどり筒を使用し

或いは部落の焼却、住民の鏖殺を宣言し

又空包実包を使用する等各種の手段あり・・・・

赤筒の使用に関しては全住民(壮年の男子のみ老人婦女子を除く)を

適当なる一室に入れ赤筒を炊き適当なる時期に扉を開放し

全住民(男子)を室外に出し新鮮なる空気を吸入せしむべし 

量及び時間を誤りては犠牲者を出す怖あるが故なり 

(6~8坪の室に於て赤筒1本にて夏季3分間 其の他約4分間迄は可なり) 

之を3~4回(3~4回以上の赤筒使用は危険)反復す・・・・

 

 

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