防疫給水部(細菌戦部隊)

石井四郎の経歴
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最終更新日:2014/06/12 13:19

この様な秘密部隊は全て満州の731部隊から始っていますので、731部隊の事を中心に話を進めようと思います。
その前に731部隊をはじめとする全細菌戦部隊は常に最高責任者としての石井四郎と共に語られますので,

石井の731部隊を作るまでの略歴を書きます。

1892年6月25日 千葉県の千代田村加茂に、村一番の大地主の四男として生れる。

     母千代の家は上田藩御殿医の娘なので石井は軍医を目指した。

1916年4月     京都帝国大学医学部入学。

              非常に優秀なため教授陣の注目を集める。

1920年12月          卒業後軍医少尉に任官される。
            近衛歩兵第三連隊の見習士官となる。
1921年4月9日   軍医中尉となる。

1922年8月1日   東京第一陸軍病院に転勤。

1924年       京都帝国大学大学院に入り細菌学、血清学、病理学、予防医学の研究をおこなう。

            京都帝国大学総長荒木寅三郎の娘と結婚、医学閥で人脈を持ち出世の道を歩み始める。

1924年8月     軍医大尉になる

1925年6月     ジュネ-ブ軍縮会議(化学戦、細菌戦を禁止したジュネ-ブ議定書が決まった)

   出席者、陸軍省医務局員の原田二等軍医(軍医中尉)の報告書に影響を受け、

   細菌戦の研究を始めたと言われる。

* ジュネ-ブ議定書

   正式には

  「窒息性ガス、毒ガスまたはこれらに類する

   ガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」と言う。

1927年6月     微生物学の分野で博士号を取得。

    テーマは「グラム陽性双球菌ニ就ツイテノ研究」

      この頃たびたび東京に来て陸軍省の幹部に細菌戦の支持を訴えた。

1928年    2年間かけて軍事施設の研究の為海外に派遣される。

  20ケ国以上訪問した。

* 訪問した国

シンガポ-ル、セイロン、エジプト、ギリシャ、トルコ、イタリア、フランス、スイス、

ドイツ、  オ-ストリア、ハンガリ-、チェコスロバキヤ、ベルギ-、オランダ、

デンマ-ク、スェ-デン、ノルウェ-、フィンランド、ポ-ランド、ソ連、

エストニア、ラトビア、カナダ、アメリカ・・・・

 石井がこの視察で学んだことはペスト菌の利用だといわれています。

 14世紀にペストで大変な被害を受けたヨ-ロッパは、神の怒りに触れるとして、

 細菌戦の武器としてペスト菌を除外していたようです。

 しかし石井はそのペストの威力に目を付け、

 日本独自の有力武器とすることを決めたと言われているのです。

1930年    帰国

 東京の陸軍軍医学校防疫部教官に任命され、軍医少佐になる。

 陸軍上層部をバックに細菌部隊の準備を始める。

*石井の言葉に耳を傾けたと思われる陸軍幹部。

     陸軍大臣      荒木貞夫
     軍務局長      永田鉄山(パトロンとして石井を一番応援したとされている)
       作戦課長      鈴木率道
       作戦主任        遠藤三郎
     医務局衛生課長   梶塚隆二
     医務局長      小泉親彦

1931年     石井式濾水機を開発し、

  戦地の汚染された水でも安全な飲料水に出来る事から、日本陸軍が大量に採用した。

   * この濾水機は石井四郎の東京の研究所のそばにあった「日本特殊工業㈱」が

    一手に製造販売の権利を与えられ、会社は莫大な利益を挙げ、

    石井は高額な顧問料を受取ったといわれています。

        またこの年、細菌の大量生産を可能にする「石井式細菌培養缶」を発明した。

1932年    東京の軍医学校内に防疫研究所が設立され石井が責任者になる。

 これには軍事医学界の実力者である

 小泉親彦(軍医総監、厚生大臣)の力が大きかったと言われています。

 また各方面にも働きかけたようです。
  * 陸軍軍医学校50年史 より   1936年刊

防疫研究室は国軍防疫上作戦業務に関する研究機関として

陸軍軍医学校内に新設せられたるものなり。

この新設に関しては昭和3年海外研究員として滞欧中なりし

陸軍一等軍医石井四郎が、各国の情勢を察知し我国に之が対応施設なく、

国防上一大欠陥ある事を痛感し、

昭和5年欧州視察を終え帰朝するや、

前記国防上の欠陥を指摘し之が研究整備の急を要する件を上司に意見具申せり。

爾来陸軍軍医学校教官として学生指導の傍ら余暇を割き

日夜実験研究を重ねつつありしが、

昭和7年小泉教官の絶大なる支援の下に上司の認むる処となり、

軍医学校内に同軍医正を首班とする研究室の新設を見るに至りしものなり。

昭和7年8月陸軍軍医学校に石井軍医正以下

5名の軍医を新たに配属せられ防疫研究室を開設す。

  * 遠藤三郎日記(関東軍作戦参謀)1932年1月20日

石井軍医正来りて細菌戦準備の必要を説明。

共鳴する点多し。

速やかに実現すべく処置す

          この頃石井四郎はしばしば次のように語っています

「細菌研究にはAとBの2つがある。

Aは攻撃の研究であり、Bは防御の研究である。

ワクチンの製造のようなBは日本国内で出来る。

しかしAは国外でしか行なえない

1932年8月11日   石井四郎と増田知貞は満州に派遣されました。

             この派遣は目的がはっきりしない派遣で、前記軍医学校50年史には

 「・・・・はっきりしない目的の為に陸軍軍医学校が、

 石井と他の4名の科学者に助手を派遣した・・・・」

   とあります。

   目的のはっきりしない・・・・とは

   秘密で細菌部隊の準備を始めたという事でしょう。

1933年      石井の為に満州のハルビンに土地と建物が与えられ、

    数百人の規模で細菌戦研究がスタ-トした。
    ハルビンの約70Km南方の背蔭河に部隊が建設される。
    これが731部隊への実質的スタ-トです。

1945年      帰国、中将で敗戦

1959年10月9日  新宿区若松町の自宅で喉頭がんで死亡

 

石井とは一体どんな人物だったのでしょうか?
    * 松村知勝関東軍参謀副長(終戦時)の回想録「関東軍参謀副長の手記」から

 かって「陸軍には石井という気狂い軍医がいる」といわれた

 豪毅果断で宣伝上手な実行力のある軍医であった。

 彼は若い頃から奇行に富み、軍医学校教官時代、

 筆者(松村)が参謀本部編成班に勤務中の昭和12年頃もおしかけてきて、

 防疫給水関係の予算とか編成とかに強力な要求をしたものである。

 そのためには例えば、人間の小便から作った塩だといってなめてみせたり、

 汚水からとったという清水をのんでみせたりして参謀本部のおえら方を驚かせて、

 防疫給水部の編成の拡大強化をはかった。

 全国の医科大学を巡礼して、優秀な医者の卵を軍医として獲得するのに奔走したり、

 とにかく大変に企画力に富み実行力豊かな人であり、

 その意志の強さは正に辻参謀に匹敵すると評判であった。

 

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