防疫給水部(細菌戦部隊)

東郷部隊又は加茂部隊
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最終更新日:2014/05/24 10:45

1932年(昭和7年)4月、石井の努力の結果、

牛込区戸山町(現新宿区)の軍医学校の中に研究施設「防疫研究室」が梶塚隆二を仮の主幹として発足し、

細菌部隊は事実上スタ-トしました。

* 陸軍軍医学校50年史より・・・・

事変前における世界の情勢と本邦医学界における現況に鑑み、

学校においては戦疫予防に関する研究の一日もゆるがせにすべからざるを痛感し・・・・・・

昭和7年4月防疫部地下室の一部を改造し

応急的に防疫研究室(主幹二等軍医正梶塚隆二)の新設を見るに至れり

そして実際には8月に石井を主幹としてスタ-トしました。

* 同上50年史より

小泉教官の絶大なる支援の下に上司の認むるところとなり、

軍医学校内に石井軍医正を首班とする研究室の新設を見るに至りしものなり。・・・・

8月・・・・石井軍医正以下5名の軍医を新たに配属せられ防疫研究室を開設す

 

発足当初のメンバ-は下記の通りです。

* 防疫研究室職員表 昭和8年8月1日現在  より

主幹 教官陸軍一等軍医正  梶塚隆二
部員 陸軍三等軍医正    石井四郎
同  陸軍一等軍医     西村英二
同   同         北川正隆       
同   同         渡辺廉
同   同           北条円了
同   同         白川初太郎
嘱託            小嘉晴雄
雇員            菅原敏 石山金三 古本広文 鳥井敏信 川畑豊
その他(30名傭人、臨時当)

 

防疫部の地下に間借りしていた防疫研究室は早くも

翌1933年には2万平方メ-トルの敷地に約30棟を持つ巨大研究室になりました。
防疫研究室が出来る以前から石井は満州に赴き、

背陰河(ハルビンの南東70キロ)に防疫特務機関を作り、東京の研究室と満洲を行き来していました。

* 満洲への出張日程表  先前述50年史から

出張先     出張期間          官      氏名
満洲    32・8・11~9・19    三等軍医正  石井四郎
  同     33・9・30~34・3・31   同     同
  同     32・8・9~9・6        一等軍医   増田知貞
  以下省略(部員の全メンバ-が交代で行っています)

* 証言 韓暁 侵華日軍第731部隊罪証陳列館館長 「731部隊の犯罪」から

・・・・背蔭河駅の東部に20~30戸の民家や商店があった。

黒田大尉は村長に命じて告示を出させた。

「店舗と民家は3日以内に明け渡して出て行け。

従わなければ捕えて家を焼く」というものだった。

当地の百姓たちはしかたなく引越していった。

黒田は雑貨店の100余りの部屋を占拠して臨時の事務所として、

その他の店舗や民家はみな火を放って焼いてしまった・・・・

当時は1000名近い「労工」と馬車が工場建設に強制連行された・・・・

工場はあたかも要塞のようだったことから、人々は中馬城と呼んだ・・・・

2棟の監獄は、それぞれ30余りの監房があり・・・・

500-600人の捕虜が常時収容されていたと思われるが、多いときには1000人にも達した。

*呉沢民の証言

堀を掘るために、近くの村から大勢の中国人が駆り出されました。

建物の建設にあたった中国人は村の者ではなく、どこからか連れてこられた。

工事が完了すると、全員殺されたようです。

堀や塀を造る為に、私たちの村からも安い賃金で半強制的に徴用されました。

もちろん私も行きましたよ。

全部で1000人はいたのではないでしょうか・・・・

 

1932年末石井四郎が東京の上官に送った手紙には次の様に書かれています。

*  御尽力のお陰で,我々は細菌研究面ですでに多大の成果を挙げております。

   そろそろ実験を開始する時期となりました。

   新兵器を開発すべく我々研究者全体を満州国に派遣下さいますよう嘆願いたします。

 

正式に部隊がスタ-トしたのが1932年なのか1933年なのか意見が分かれますが、

1932に準備が完了して1933年に正式にスタ-トしたのでしょう。

* 関東軍参謀副長(当時)岡村寧次の回想  岡村大将記録から

石井機関の創設については、

本省では、大臣、次官、軍務局長、医務局長ぐらい、

関東軍では小磯参謀長と私だけが知っているという極秘中の極秘事項とし、

私だけが直接石井と密会して中央と連絡するということになっていた・・・・

ときは昭和8年のある月ある日であったと思う。

石井研究機関は、ハルビン東南方背陰河に設置された。

 

この特務機関の名称は背陰河守備隊でしたが、通称中馬城(隊長の中馬大尉の名前)と言われ、

600メートル平方の土塀と高圧電線に囲まれた、中国人を使った人体実験場でした。

この時点ではまだ731部隊とは呼ばれず、秘密保持のために偽名を使って

東郷部隊(尊敬していた東郷元帥)或いは加茂部隊(石井の郷里の地名)と呼んでいました。

また為幹部は偽名で働いていました。

その後石井が前面に出るようになっても、

石井四郎が東郷大佐、北条圓了が大山大佐、太田澄が大島少佐・・・・等と呼ばれていました。

* 北条円了の手記から  東郷会誌1986年3月刊より

(注:東郷会は731部隊の戦友会)

・・・・陸軍省や参謀本部の当事者を説得して、

遂に満洲ハルピンの東方の背陰河に細菌兵器の防疫研究所(石井部隊)の設立を見るに至ったのでした。

背陰河は匪賊の根拠地であったとかでほんとに寂しい所で十数軒の満洲家屋のある小部落でした。

関東軍司令部の選んでくれたここに石井大佐を始め軍医学校防疫研究室附の

軍医数名、雇員若干名と共に満洲出張の形で背陰河に行き

ここの住民を隣村に立ち退かせ部落の中で大きな数軒を選んで家屋を改造し、

軍医学校の防疫研究室に似た研究室に改造したのでした。

この当時石井部隊は機密保持上皆氏名を変更して石井さんは東郷大佐、私は大山少佐でした。・・・・

昭和15年夏頃でしたが、この研究室は余りにも不便で非常に狭くて充分な研究が出来ないので、

石井部隊長は陸軍省に意見具申してもっと大きな研究所に改装することになった。・・・・


この段階ではすでに細菌の効力試験や水だけで(普通の水或いは蒸留水)で何日生きられるかなどの実験をしています。
ここでの実験の成果について、遠藤三郎日記(陸軍中将、関東軍参謀)から見てみます。

* 1933年11月16日(木)快晴

・・・・第2班の担当は毒ガス、毒液の試験、第1班、電気の試験等にわかれ各OO匪賊につき実験す。

ホスゲンによる5分間のガス室試験の者は肺炎を起こし重体なるも昨日よりなお、生存しあり。

青酸15ミリ注射の者は約20分間にて意識を失いたり。

2万ボルト電流による電圧は数回実施せるも死に至らず、最後に注射により殺し

第2人目は5千ボルト電流による試験をまた数回に及ぶも死に至らず。

最後に連続数分間の電流通過により焼け死せしむ・・・・

夜、塚田大佐と午後11時半まで話し床につきしも安眠し得ず。

  1933年12月8日(金、降雪)

午前10時15分拉林着。

石井及び伊達氏に迎えられ、背陰河の細菌試験所を視察す。

600メータ-平方の大兵営にして一見要塞を見るが如し。
一同の努力の跡歴然たり。20数万円の経費亦止むを得ざりしか。

遠藤三郎はこの時の視察の様子を40年後に次のように書いています。

* 日中15年戦争と私

被験者を一人一人厳重な檻に監禁し各種病原菌を生体に植えつけて病勢の変化を検査しておりました。

如何に死刑囚とはいえまた国防のためとは申せ見るに忍びない残酷なものでありました。

死亡した者は高圧の電気炉で痕跡も残さないように焼くとのことでありました。


背陰河の東郷部隊ではかなりの生体実験が行なわれたようです。

研究者が脳の研究をしたい場合、衛兵が監獄から適当の捕虜を選び、

斧で頭を割り脳は研究者に、死体は病理学者に運ばれました。

用の済んだ死体は証拠が残らないように焼却炉で処分されました。

ここでの研究はかなりの成果を挙げたようです。

* 岡村寧次大将 の回顧録から

・・・・着々と成果を挙げたがその内容は固より私はよく知らないが、

終戦後石井の直接漏したところによれば、専売特許的の成果件数は200種に上るという・・・・


一体どの位の捕虜が犠牲になったのかはよく分かっていません。

1000人位の捕虜が収容できる施設に、通常500人から600人の捕虜が収容されていたと言う証言があります。

1932年から1934(36年の説もある)まで2年から4年背陰河の部隊が存続した事を考えると

犠牲者は相当の数になると思われます。
よく731部隊の犠牲者の数が3000人とか4000人とか言われますが、

これはハバロフスクの軍事裁判での川島清の証言や中国での吉房虎雄の供述の数字です。

あくまでも正式に731部隊になってから憲兵が特移扱として連行した人数ですから、

背陰河の東郷部隊の犠牲者数は含まれていません。

又、他に4つあった細菌部隊の犠牲者の数は含まれていません。

* 栗原義雄の回想から

1934年5月に研究補助者として背陰河に行った。

1936年帰国

・・・・背陰河の施設は、敷地が300坪程度で、荒野の中にありました。

守備隊の人員は20人で、その他に憲兵が2人いました。

正面の塀は高く、そこに銃眼がついていました。

この土塀の上には電線が張ってあり電流が流されていました。・・・・

部隊から200メ-タ-位離れたところに背陰河駅がありました。

被験者は当時すでに丸太と呼ばれていました。

彼らは貨車で駅まで連れてこられ、その200メ-タ-ほどを車で運ばれました。

部隊には被験者となる人が常時100人程収容されていました。

被験者はペスト班では沢山死んでいましたが、それ以外ではそう多くなかった。

コレラ腸・チフス・炭疽班では、細菌をマント-(饅頭)に入れて、

経口感染の実験をしていましたがあまり感染しませんでした。

マント-に入れる細菌の数は軍医が決め、自分たち傭人は被験者に食べさせるだけでした。

私は太田さんの下で、炭疽菌を入れたマント-を食べさせる仕事をしました。

堀の中の建物は土で出来ていました。

大きさは間口約5間から10間程のものでした。・・・・

自分は軍属の菅原敏さんの下で水だけで何日生きられるかという実験をやらされた。

その実験では、普通の水だと45日、蒸留水だと33日生きました。

蒸留水を飲まされ続けた人は死が近くなると「大人味のある水を飲ませてくれ」と訴えました。

45日間生きた人は「左光亜」という名前の医者でした。

彼は本当にインテリで、匪賊ではなかったですね。

 

1934年9月、部隊員たちが酒宴で泥酔したところを見計って捕虜の「李」が扇動して、

囚人40人が脱走し、大部分は殺害されたものの、

王子揚ら12人が東北抗日連軍(日本の侵略に抵抗した人民軍)第3軍第1師に保護され、

第3軍は東郷部隊を襲撃しました。
その為ここで行なわれていた事が中国人にばれたということで、背陰河の施設は閉鎖になり、

全てを爆破し、捕虜は全員殺害し証拠は消されました。

 * 証言        呉沢民の証言 脱走した人を助けた  

1993年 山辺悠喜子の取材

深夜ジャラジャラという重い鉄の触れ合う音がした。

土匪だとばかり兄と旧式の鉄砲を握り締めた時、「自分たちは中馬城から逃げて来た者だ。

済まないけどわれわれの足かせを外してもらえまいか」と押殺したような声がしたので、

外を覗くと全部で30人ほどもいるようだった・・・・

「われわれは抗日地下工作員だったが、何人かの者が捕えられて血液をしぼり取られて死んだ。

いちかばちか我々は暴動を起こしてやっと逃げてきた」と言う・・・・

兄と一緒に斧で足かせを叩き壊した。

全部は取ることができず、何人かは外したが、後の人は鎖だけ切って逃した・・・・

 

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