石井四郎の経歴

この様な秘密部隊は

全て満州の731部隊から始っていますので、

731部隊の事を中心に話を進めようと思います。

その前に731部隊をはじめとする全細菌戦部隊は

常に最高責任者としての石井四郎と共に語られますので,

石井の731部隊を作るまでの略歴を書きます。

 

●石井四郎の経歴

1892年6月25日 

 千葉県の千代田村加茂に、

 村一番の大地主の四男として生れる。

 母千代の家は上田藩御殿医の娘なので

 石井は軍医を目指した。

1916年4月    

 京都帝国大学医学部入学。

 非常に優秀なため教授陣の注目を集める。

1920年12月          

 卒業後軍医少尉に任官される。
 近衛歩兵第三連隊の見習士官となる。
1921年4月9日  

 軍医中尉となる。

1922年8月1日  

 東京第一陸軍病院に転勤。

1924年      

 京都帝国大学大学院に入り

 細菌学、血清学、病理学、

 予防医学の研究をおこなう。

 京都帝国大学総長荒木寅三郎の娘と結婚、

 医学閥で人脈を持ち出世の道を歩み始める。

1924年8月     

 軍医大尉になる

1925年6月    

 ジュネ-ブ軍縮会議出席者、

 陸軍省医務局員の原田二等軍医(軍医中尉)の

 報告書に影響を受け、細菌戦の研究を始めたと言われる。

   注:化学戦、細菌戦を禁止したジュネ-ブ議定書が決まった

     ◎ジュネ-ブ議定書

   正式には「窒息性ガス、毒ガスまたはこれらに類する

   ガスおよび細菌学的手段の戦争における

  使用の禁止に関する議定書」と言う。

1927年6月    

 微生物学の分野で博士号を取得。

 テーマは「グラム陽性双球菌ニ就ツイテノ研究」

 この頃たびたび東京に来て陸軍省の幹部に細菌戦の支持を訴えた。

1928年   

 2年間かけて軍事施設の研究の為海外に派遣される。

 20ケ国以上訪問した。

◎ 訪問した国

 シンガポ-ル、セイロン、エジプト、ギリシャ、

 トルコ、イタリア、フランス、スイス、ドイツ、 

 オ-ストリア、ハンガリ-、チェコスロバキヤ、

 ベルギ-、オランダ、デンマ-ク、スェ-デン、

 ノルウェ-、フィンランド、ポ-ランド、ソ連、

 エストニア、ラトビア、カナダ、アメリカ・・・・

  石井がこの視察で学んだことは

 ペスト菌の利用だといわれています。

 14世紀にペストで大変な被害を受けたヨ-ロッパは、

 神の怒りに触れるとして、細菌戦の武器として

 ペスト菌を除外していたようです。 

 しかし石井はそのペストの威力に目を付け

 日本独自の有力武器とすることを決めたと言われているのです

1930年    

 帰国

 東京の陸軍軍医学校防疫部教官に任命され、

 軍医少佐になる。

 陸軍上層部をバックに細菌部隊の準備を始める。

◎石井の言葉に耳を傾けたと思われる陸軍幹部。

    陸軍大臣    荒木貞夫

    軍務局長    永田鉄山

      (パトロンとして石井を一番応援したとされている)

    作戦課長    鈴木率道

    作戦主任    遠藤三郎

    医務局衛生課長 梶塚隆二

    医務局長    小泉親彦

1931年    

 石井式濾水機を開発し、

 戦地の汚染された水でも

 安全な飲料水に出来る事から、

 日本陸軍が大量に採用した。

  ◎この濾水機は石井四郎の東京の

   研究所のそばにあった「日本特殊工業㈱」が

   一手に製造販売の権利を与えられ、

   会社は莫大な利益を挙げ、

   石井は高額な顧問料を受取ったといわれています。

   またこの年、細菌の大量生産を可能にする

   「石井式細菌培養缶」を発明した。

1932年    

 東京の軍医学校内に防疫研究所が設立され

 石井が責任者になる。

 これには軍事医学界の実力者である

 小泉親彦(軍医総監、厚生大臣)の力が

 大きかったと言われています。 

 また各方面にも働きかけたようです。  

 ◎陸軍軍医学校50年史 より 1936年刊

  防疫研究室は国軍防疫上

  作戦業務に関する研究機関として

  陸軍軍医学校内に新設せられたるものなり。

  この新設に関しては昭和3年海外研究員として

  滞欧中なりし陸軍一等軍医石井四郎が、

  各国の情勢を察知し我国に之が対応施設なく、

  国防上一大欠陥ある事を痛感し、

  昭和5年欧州視察を終え帰朝するや、

  前記国防上の欠陥を指摘し

  之が研究整備の急を要する件を

  上司に意見具申せり。

  爾来陸軍軍医学校教官として

  学生指導の傍ら余暇を割き

  日夜実験研究を重ねつつありしが、

  昭和7年小泉教官の絶大なる支援の下に

  上司の認むる処となり、

  軍医学校内に同軍医正を首班とする

  研究室の新設を見るに至りしものなり。

  昭和7年8月陸軍軍医学校に石井軍医正以下

  5名の軍医を新たに配属せられ防疫研究室を開設す。

 ◎遠藤三郎日記(関東軍作戦参謀)1932年1月20日

  石井軍医正来りて細菌戦準備の必要を説明。

  共鳴する点多し。

  速やかに実現すべく処置す

         

この頃石井四郎はしばしば次のように語っています

「細菌研究にはAとBの2つがある。

Aは攻撃の研究であり、Bは防御の研究である。

ワクチンの製造のようなBは日本国内で出来る。

しかしAは国外でしか行なえない」

 

1932年8月11日  

 石井四郎と増田知貞は満州に派遣されました。

 この派遣は目的がはっきりしない派遣で、

 前記軍医学校50年史には

 「・・・・はっきりしない目的の為に

 陸軍軍医学校が石井と他の4名の科学者に助手を派遣した・・・・」

 とあります。

 目的のはっきりしない・・・・とは

 秘密で細菌部隊の準備を始めたと思われます

1933年      

 石井の為に満州のハルビンに土地と建物が与えられ、

 数百人の規模で細菌戦研究がスタ-トした。

 ハルビンの約70km南方の背蔭河に部隊が建設される。   

 これが731部隊への実質的スタ-トです。

1945年      

 帰国、中将で敗戦

1959年10月9日  

 新宿区若松町の自宅で喉頭がんで死亡

 

石井とは一体どんな人物だったのでしょうか?

●松村知勝関東軍参謀副長(終戦時)の回想録

    「関東軍参謀副長の手記」から

 かって「陸軍には石井という気狂い軍医がいる」といわれた

 豪毅果断で宣伝上手な実行力のある軍医であった。

 彼は若い頃から奇行に富み、軍医学校教官時代、

 筆者が参謀本部編成班に勤務中の

 昭和12年頃もおしかけてきて、

 防疫給水関係の予算とか編成とかに

 強力な要求をしたものである。

 そのためには例えば、

 人間の小便から作った塩だといってなめてみせたり、

 汚水からとったという清水を

 飲んでみせたりして参謀本部のおえら方を驚かせて、

 防疫給水部の編成の拡大強化をはかった。

 全国の医科大学を巡礼して、

 優秀な医者の卵を軍医として獲得するのに奔走したり、

 とにかく大変に企画力に富み実行力豊かな人であり、

 その意志の強さは正に辻参謀に匹敵すると評判であった。