防疫給水部(細菌戦部隊)

関東軍防疫給水部
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最終更新日:2014/05/31 10:41

トラブルがあった為、背陰河の施設はいったん閉鎖されましたが、

1936年(昭和11年)8月に関東軍の在満州兵備の一環として、関東軍参謀長板垣征四郎中将の要望で、

天皇の名により正式に「関東軍防疫部」として再編成されました。

同時に100部隊も増強されました。
そして中佐に昇進していた石井四郎が部隊長に任命されました。

* 在満兵備充実に対する意見 「陸満密大日記から」

1936年4月23日、関東軍参謀長板垣征四郎から陸軍次官梅津美次郎への要望書

第23、関東軍防疫部の新設増強

予定計画の如く昭和11年度に於て急性伝染病の防疫対策実施及流行する

不明疾患其他特種の調査研究並びに細菌戦争準備の為

関東軍防疫給水部を新設す

又在満部隊の増加に伴い昭和13年度以降其一部を拡充す

関東軍防疫部の駐屯地はハルビン付近とす

この件に関して天皇は上奏文を受けています。

* 陸軍省軍事課「予算成立に伴う兵備改善上聞の件」

昭和11年密大日記より

防疫に関する部隊  人、馬の防疫に関する部隊各1個を新設す

   注:人とは731部隊、馬とは100部隊のこと


そして天皇の命令「軍令陸甲第7号」によって関東軍防疫部は正式発足になりました。
関東軍では防疫部で働く人員の確保に関して軍医学校に依頼しています。

* 関東軍防疫部傭人補充に関する件 昭和11年8月7日

関東軍板垣参謀長から梅津陸軍次官へ  陸満密綴より

軍令陸甲第7号に基き新たに編成せし関東軍防疫部の傭人は特種の技術を要する為

現地に於いて雇傭困難なるを以て陸軍軍医学校より左記の通補充方至急詮議相成度

追て本件に関しては陸軍軍医学校長とは協議済みに付申添す

左記1.傭人 50名 8月中に補充せられ度
  2.傭人 38名 12月迄に補充せられ度


1982年に国が公表した部隊の記録によると、

「12月5日ハルビンで第2次編成改正完結」となっているので、軍令陸甲7号によって命じられた編成、

つまり臨時の東郷部隊から正式な第731部隊になることが

12月5日に完了した事を意味していると思われます。

* 満洲防疫機関設立        陸軍軍医学校50年史より

防疫研究の基礎進むに際し、防疫の実地応用に関し石井軍医正は万難を排し挺身満洲に赴き、

防疫機関の設立に関して尽瘁せり。

而して該研究の実績挙がるや、内地と不可分の関係に在る在満各部隊の防疫上

皇軍作戦の要求を満たす必要上、

昭和11年遂に防疫機関の設立を見るに至れり。

同機関は内地防疫研究室と相呼応して皇軍防疫の中枢となるは勿論、

防疫に関し駐屯地作戦上重要なる使命を達せん事に邁進しつつあり

 

この防疫機関が通称第731部隊といわれるものです。

石井は第731部隊を中心にして中国から東南アジアにかけて

最終的には20以上の同じような部隊や支部を作りました。

全ての部隊や支部は石井の支配下でしたから、日本の細菌戦の総元締めはやはり石井四郎という事になります。

 

今度の場所は平房でハルビンから南へ24キロの所です。

1938年6月に平房の広大な敷地を特別軍事地域に設定し、

村の住民を強制的に立ち退かせた8キロ四方の広大な土地に、巨大な建物が次々と作られました。

建築は1938年から39年にかけて行われたと言われます。

* 1700戸の建物が接収され、600人以上が家を失ったといわれます
* 建物の中心はロ号棟と呼ばれる約400メ-トル四方の三階建ての巨大なものでした

壮大な軍事基地は建物だけでも76棟あり、飛行場、鉄道、学校、神社、農園、プール等の娯楽施設まであり、

死体を焼く焼却炉は3つありました。
関東軍はここを「特別軍事地域」として特別許可なしには日本人でさえも立入禁止とし、

空域の30キロの境界線に入った民間機は警告なしに砲撃され、

平房を通過する列車はカ-テンで窓を遮断する事を義務付けられました。

警備は厳重をきわめ、警察、軍隊、憲兵隊が担当していました。

部隊建設の工事は短期間だった事もあって、中国人労働者は虐待に近い強制労働を強いられ、

何千人もの人が死亡したそうです。
いわゆる731部隊での犠牲者統計にはこの数字は含まれていません

 

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