防疫給水部(細菌戦部隊)

安達野外実験場
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最終更新日:2014/06/15 11:44

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アンダ-(安達実験場)はハルビンから北へ260Kmの所にあった野外の731部隊特設実験場です。

実験ではテスト用の色々なタイプの細菌爆弾にペストやコレラを始めとした多くの微生物を充填し、

空から爆弾を落とし、どの様に拡散するか感染するかの実験を捕虜を使って行ないました。

また捕虜を使っての毒ガス実験も行ないました

捕虜は数十人が実験場に建てられた木の杭に縛られて

爆弾による細菌、昆虫、毒ガスに晒されて風気圧天候の変化による人体データ-を取られました。

これらの実験は細菌戦や毒ガス戦に備えての実験でした。
現在は人口50万人の安達市になっていて、実験場は市の特別歴史遺跡として保存されています

*1954年、黒龍江省公安庁が行ったと思われる調査から

1.飛行場の設備状況

1942年9月、日本軍は2ケ月ほどかけてこの荒地に滑走路のない飛行場を建設した。

飛行場の面積は東西約1.5キロ、南北約2.5キロで

その周囲の東西12キロ、南北17キロは誰も立ち入りを許されなかった。

飛行場内には100メ-トルにわたって小さな丘があり、その丘に沿って家屋が造られた。

(丘に溝を掘って上に覆いをかけた地下室で、20から30あった)

飛行場の地上には、

東西に1棟5部屋の倉庫、北側に3部屋の浴場、西南の角には2部屋のバラックがあり、

その東西4,5キロのところに背の高い大きな櫓が4つ組まれていた。

場内にはほかに馬、牛、羊、豚の小屋があり、

東西には死んだ馬、牛、羊、豚の骨を捨てる大きな穴があった。

2.内部の仕事の状況

この飛行場に作られた地下室は細菌実験を行う場所であった。

地上に造られた小屋の中に鼠、ガチョウ、ハトを入れた檻が多数あり、

また場内で沢山の馬、牛、羊、豚を飼っていた。

だが日本人は自分で飼っている豚の肉は食べず、すべて外の農民から豚肉を買って食べていた。

目撃によれば、解放後焼け落ちた家屋のそばに鼠、ハタリス、雀を入れた鉄の檻があり、

地下室には沢山の割れたガラス瓶が残され、中には黄色や白の粉薬が入っていた。

このような状況から見て、日本人はここでさかんに細菌実験をおこなっていたとおもわれる。

3.付近住民への被害

1943年の春、富本村(注:安達のすぐそば)で伝染病が流行したことがある。

当時、全村の戸数は100あまりで、1回の伝染病で70人あまりが死亡した。

* 証言 倉島壽亀 1911年生まれ 731部隊で石井四郎の専属運転手

(西野留美子論文 1994.11.18週間金曜日)

・・・・たびたび飛行機で安達実験場に行ったよ。

実験に使う「マルタ」を飛行機やトラックで運んだこともあった。

安達で細菌の投下実験をするときは、

逃げないように何メ-トル間隔かで「マルタ」を杭に縛り付けて立たせ、

その頭上から細菌ネズミが入っている細菌弾を落下したわけだ。

飛行機には操縦していたわしの他に、

整備士、観測士、通信士が乗っており、連携して作業にあたった。

例えば「高度1000メ-トル」と言うと、スイッチを押す。

そうすると飛行機の胴腹から爆弾が落ちるわけだ。

ヒュッヒュッヒュって落ちていく。

たいてい1個の爆弾に25匹から30匹の細菌ネズミが入っておって、それを4,5個落とした。

早くて4,5日おきに、1週間、10日と間を開けてやったこともある。

通常の実験で使ったのは、3人か5人位のマルタだ。

高度によって落下範囲はどのくらいで、どれだけのネズミが落下後も生存し、

どの位置に縛られていたマルタにどの程度の感染があるか、そういうことを調べたわけだ。

実験に使ったマルタは、必ずしも平房に送り返して調べたわけじゃない。

安達実験場にも研究室があってね。

そこで感染後の経過を調べたり解剖したこともあったな。

爆弾による傷口が何ミリかに始まって、その症状を内臓の変化に至るまで、

4日から1週間かけて丹念に調べる。

解剖は生きているのを割ってね。・・・・

 

尚、野外実験場はここ以外にも、城子溝、陶頼昭にもあったと言われています。

 

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