防疫給水部(細菌戦部隊)

敗戦時の731部隊の処理
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最終更新日:2014/08/22 16:34

1945年8月15日敗戦の日、昭和天皇の玉音放送が行われた日ですが、

その日の午前中に軍の秘密な部分の証拠隠滅する処置がとられました。

陸軍省軍務局軍事課の新妻清一中佐は朝から国内外の関係部署に電話をかけ始めました。

*新妻清一

1932年7月陸軍士官学校本科卒業、

1932年3月東京帝国大学理学部物理学科卒業。

技術畑を歩き1944年には多摩陸軍技術研究所で電波誘導兵器の研究をする。

敗戦時は、大本営陸軍参謀、多摩陸軍技術研究所研究員。

まずは登戸の陸軍第九技術研究所です。

これは「ふ」号(風船爆弾)を中心とした秘密戦・謀略戦をこの研究所がしていたからです。

次に関東軍に連絡し第731と第100部隊の処理を命じました。

最後に陸軍省糧秣本廠へ連絡し、「糧秣本廠1号」という暗号で呼ばれた特殊兵器の証拠処分を命じました。

*新妻清一のメモ  (原文カナ)

特殊研究処理要領  20.8.15  軍事課

一. 方針

敵に証拠を得らるる事を不利とする特殊研究は全て証拠を隠滅する如く至急処置す

二.実施要領

1.ふ号、及び登戸関係は兵本草刈中佐に要旨を伝達後直ちに処置す

(15日8時30分)

2.関東軍、731部隊及び100部隊の件関東軍藤井参謀に電話にて連絡処置す(本川参謀不在)

           以下省略

しかし731部隊では、日本の敗戦が明らかになり、

またソ連が「日ソ中立条約」を延長しないと通告してきたことから、

1945年の3月頃から部隊を縮小し、いち早く部隊員たちは日本への帰国をし始めました。

日本の敗戦が確定してきたため軍の参謀本部は終戦工作を急ぐようになります。

軍を温存し日本再建を目指すため

大陸命(大本営陸軍部から出る天皇の命令)1378号及び大陸指(参謀総長命令)が出ました。

この命令書の現物は敗戦時の焼却処理で残っていません。

大本営作戦参謀朝枝繁春中佐の手記(回想録)から記憶で大陸指の要旨を引用します。

*朝枝繁春手記「追憶」から

大陸命1374号に基づき、関東軍総指令官に対し、その作戦遂行上指示するところ左の如し、

1.関東軍総指令官は、米ソ対立抗争の国際情勢を作為するため、

  なるべくソ連をして、速やかに、朝鮮海峡まで進出せしむる如く作戦を指導すべし。

2.戦後将来の、帝国の復興再建を考慮して、

  関東軍総司令官はなるべく多くの日本人を、大陸の一角に残置すること。

  日本人の国籍は、いかようにも変更するも可なり。

注:ソ連の進攻に対して関東軍は逃げ出し、

  民間人を置き去りにしたことは日本の国策だったことが分かります。


そして生物兵器や生体実験などジュネ-ブ条約に違反した行為を完全に世界の目から隠す必要がありました。
8月9日のソ連参戦で関東軍参謀部が命令を出し山田司令官が署名をして、

部隊破壊と撤退命令が各部隊に出され徹底した証拠隠滅が図られました。
さらに10日には朝枝中佐は満州国の首都新京に飛び、

新京軍用飛行場に石井四郎を呼び参謀総長命令を伝えました。

*朝枝繁春破手記「追憶」から

1.貴部隊は速やかに全面的に壊し、職員は一刻も早く日本本土に帰国させて

  一切の証拠物件は、永久にこの地球上より雲散霧消すること
2.このためハルピンの工兵一個中隊と爆薬5トンを貴部隊に配属するようすでに手配済みにつき、

  貴部隊の諸設備を爆破してください。
3.建物の丸太(捕虜のこと)、之また、処理した上、貴部隊のボイラ-で焼いた上、

  の灰はすべて松花江に流し捨てること
4.貴部隊の細菌学の博士号をもった医官53名は、貴部隊の軍用機で直路日本へ送還すること。

  その他の職員は、婦女子、子供達に至るまで、南満洲鉄道で大連にまず輸送の上、内地に送還すること。

  このため、大連所在の満鉄本社に対しては関東軍交通課長より指令の打電済みであり、

  平房店駅には大連直通の特急(2500輸送可能)が待機させられています。

 

敗戦直前に、独立混成第131旅団の工兵隊長だった「I」氏は、

ソ連参戦の翌日8月10日の昼過ぎに第4軍司令部の命令を受け、

731部隊破壊作業のため、2個小隊を率いて平房に向かいました。

I氏の証言です。   (西野留美子氏論文から 1994.11.4 週間金曜日)

*I氏の証言

40トンの黄色爆弾を持っていきました。

部隊に着くと石井隊長から、まず監獄の7,8棟から形跡が残らないように壊すように命令されました。

続いて実験棟や倉庫なども壊し、最後には細菌の入ったボンベを何十本と爆破しました。

なかなか壊れず、2日2晩かかったように記憶しています

破壊作業は数日かかり、最後に実験用の捕虜(マルタ)404人が殺害焼却されました。

*溝淵俊美伍長の回想

彼(焼却担当伍長)はマスクをせずに素面で入っていったから、

青酸ガスではないだろう。

メタンガスの放射だと思う。

*同上 溝淵伍長が焼却担当の西山整爾伍長から聞いた話

私らは「丸太小屋」といっとりましたがね、

ロ号棟にはパイプで空気を送っていたわけですが、そのパイプからガスを送って、

密閉されていますから、すぐにガスは満杯になります。

それでみんな殺した。

死体は2階の窓から放り出して、ガソリンをかけて焼いた

兵隊は4個分隊ですからだいたい100人入っていますからね。

それに少年隊がだいたい100人、それに佐官級から上の将校はみんなロ号棟に集合したんですね。

* 篠原 鶴男 731部隊教育部  1926年生れ(1994年の731部隊展報告書)

8月9日早朝、点呼をしていたときです。

白馬に乗った野口少佐が部隊の中を走り回って、「本日午前零時に、ソ連が進攻した。

これから指揮に従って行動せよ」と指示していました。

まず私たちは、731部隊員であるという身分わからないように、身のまわりの物を処分しました。

10日、7,8棟の2階の12号室に私は他の2人と一緒に入っていきました。

今までは絶対に入れない場所へ入ったのです。

廊下には3名程の“マルタ”の死体が転がっておりましたが、

もうほとんどのマルタの死体はロ号棟の外に運び出されておりました。

外には穴が掘られており、穴の中に薪とマルタが交互に積み上げられ、

あとは火をつけるだけになっていました。

上層の幹部たちは、飛行場から重要書類などを持って撤退していました。

私たちは監獄を破壊せよと命令されました。

監獄は1号から12号まであり、私は12号室に爆薬を仕掛けました。

「14日の18時に731部隊を爆破する」という命令が下りまして、マルタを処分し、

13日の夜から14日の朝方にかけて、研究器材や薬品、標本を入れてあった容器などを

松花江という川へ何度もトラックで運んで捨てました。

18時爆破のスイッチを入れ、爆破音の中、私たちは汽車に乗込みました。

釜山に到着したのは20日のことでした。

 

部隊で最大の懸案事項だったマルタの処理が終わった後大田澄大佐は次のように語ったと言われている。

*「ほぼ処理の目的が達成された。これで天皇は縛り首にならずにすむ。ありがとう

平房で家族脱出の列車が出るときの石井四郎の最後の命令と演説が越定男の回想にあります。

*「日の丸は紅い泪に」 731部隊運輸班  越定男

三つの命令

1.郷里に帰ったのちも、731に在籍していた事実を秘匿し、軍歴をかくすこと

2.あらゆる公職には就かぬこと。
3.隊員相互の連絡は厳禁する。

演説

第731部隊の秘密はどこまでも守り通してもらいたい。

もし軍事機密を漏らした者がいれば、この石井がどこまでもしゃべった人間をおいかけるぞ

注:越はこの言葉が戦後長い間耳から消えることがなかったといいます


そのせいもあって戦後秘密が保たれた面もあります。

また石井は「秘密がばれては困るから家族を殺せ」と主張しましたが、

第一部隊長の菊池少将に説得されて家族を特別仕立ての汽車で避難させたと言われています。
中国の戦犯収容所での証言を見てみます。

*榊原秀夫  (731部隊林口支部長)

私は8月9日軍属兵5名に命じ部隊で飼育しておりました白鼠5,000匹、捕えた鼠
1,000匹、蚤約1.3キロを細菌戦証拠隠滅と第731部隊のペスト細菌戦に対する

材料補給の目的をもって第731部隊に送附せしめ翌日、

本部機密書類係り奥村軍属に兵2名を附し第731部隊に派遣、機秘密書類を処置せしめました。

機秘密書類は暗号解説書、関東軍動員計画、林口東案方面の兵要衛星地誌、

関東軍防疫給水部支部勤務規定、

及び1943年7月第731部隊の支部長、師団防疫給水部長に対する

「特殊防疫」教育時の配布書類「細菌戦の概念」、人事書類であります。

8月10日ソ連軍戦車部隊が八面通に迫ったとの駐屯地司令部の通報により

部隊建物に藁を積み石油を準備し建物の焼却準備を実施し、

更に部隊専用の水源地の給水ポンプの破壊を命じました。

間所少尉以下25名(自動車5車両)を後発隊とし、

私は人員200名、自動車50車両(濾水車1、消毒車1を含みます)をもって

8月10日牡丹江に出発いたしました。

*秦正氏 (731部隊総務部翻訳課勤務) 1954年9月7日

翻訳班の中に短波無線ラジオを設置し、海外情報を聞いた。

また、米軍の日本語による日本向け放送も聞いた。

その内容は沖縄島の戦況や、日本海軍の敗戦状況、日本兵への降伏勧告などであった。

このほか、特務機関から海外情報やソ連の国内・国境情報を写してきて、課長に伝えた。

1945年8月9日から13日までの5日間、企画課長である二木技師の命令により、

ソ連の進軍状況、日本の無条件降伏の海外ニュ-スを課長に伝えた。

こうした情況によって、石井四郎は事前に逃亡の準備を整えていた。

1.ソ連軍との開戦のさい、石井は部隊に指示して吉林省の山の中に退却させ、抵抗の計画を策定した。

  重要機材を梱包させ、さらに第1部の吉村班に山地で抗戦する場合の栄養問題を検討させた。
2.ペスト菌兵器の大規模生産を命じた

  このため石井は部隊員に鼠の捕獲と飼育を命じた。

  7月下旬には、部隊内で飼育されている鼠が数千匹に達していた。
3.1945年6月下旬、まず部隊員の家族の中の老人と子供約200名を日本に逃がした。
4.日本降伏の5日前、私は「日本の無条件降伏はすでに定まった」との情報を示して、

  部隊が事前に証拠隠滅して逃亡するのを促した。

  警備班が部隊内において監禁中のソ連と中国の愛国者30名をピストルで射殺し、

  工兵部隊が建築物をすべて爆破した。
5.書類を焼却し、鼠を始末し、ハルピン市南崗廟街の石井式濾水器製造工場を爆破した。
6.石井四郎は8月13日、部隊員2500名を部隊の引込み線から汽車に乗せて逃走させた。

  石井本人は飛行機で逃走した。

*千田謙三 1954年10月9日

1945年8月13日、私は独立混成131旅団79大隊中尉大隊長であったが、

ハルピンの大直街に集まり、旅団参謀、高級副官、各大隊長とともに、

旅団長宇部少将の招集した会議に出席して、平房の細菌工場を爆破する問題について検討した。....
口頭で伝達された命令の要点はつぎのとおりであった。

情報によれば、ソ連軍はすでに牡丹江を突破し、阿城付近では落下傘兵が降下している。

旅団ではハルピン市内での市街戦を準備しているので、

各大隊とも配置につくべし、工兵部隊はただちに石井部隊の平房における建物を全て爆破すべし。

会議後、石原工兵大隊長が直接部下を指揮し、13,14の両日、平房の建物をすべて爆破した。

これはすべて細菌部隊の罪状の証拠を隠滅するためにやったことである。
731部隊の破壊の影響で、ペストに感染した鼠が逃げ出し周辺ではその後ペストが流行していました。

*ハルピン市人民政府公安局の第731部隊の状況に関する調査資料

1954年3月15日

1945年の降伏のさい、日本軍(注:原文では日冠)が細菌工場を爆破したため、

大量の保菌鼠が逃げ出して付近の村に散らばった

このために、1946年6月から10月まで、平房地区ではあいついでペストが発生し、市内まで侵入した。

大東井子屯で38人、後ニ道溝屯で42人、義発源屯で38人が死亡した。

市内でも14人が発病し、死亡及び発病を合わせると132人であった。


*ハルピン市香坊区平房村義発源屯被害者告発書  1950年3月18日

日本降伏のさい、日本軍が平房の細菌工場を爆破したため、菌を持った鼠が飛び出した。
1946年の夏になると、日本軍の放ったペスト菌が、わたしたちの村に伝染してきて、

沢山の人が病気になった。

病状は特別重く、吐血や下痢がつづいて、3日もしないうちに亡くなる人もあり、

そのありさまはまったく恐るべきものであった。

私たちの屯だけでもいく人もの人が死んだ。

日本軍は、こうした悪らつな手段でわが国の人民を虐殺したのである。

思い出すと痛憤に耐えない。これらの犯罪を犯した者を厳罰に処すべきである。

 

敗戦時の部隊の処理を731部隊で見てきましたが、他の部隊ではどうだったのでしょうか?

南京の栄1644部隊の敗戦時の状況を石田甚太郎氏の手記から見てみます。


*石田甚太郎手記 1911年生まれ

絵描きだったため軍画兵として南京の栄1644部隊第1科に勤務。

生体実験を絵として記録した。

8月15日緊急サイレンが鳴り、営庭に部隊全員が集合したが、

私は一人、1科事務所から玄関まで出て、終戦の玉音放送を聞いた。

それから機密書類の管理を木村准尉から任されて、

鍵も保管していた私に、極秘書類の抹消は、石田の全責任によって行うこと、との命令が下ったのである。

1科の北出口事務所のすぐ窓外に防空壕が造られていた。

私はその壕の中で焼却する事にして、まず壕の奥の天井の縦穴をあけ、

書庫の書類を全部持ち出して、紙に点火した。

焼却に当たっては一紙片の散逸や不燃も許されなかった。

3年の間、描いて整理整頓した書類、日本軍の恐るべき生物化学兵器其の物の記録を、

日本軍人として只一人この手によって火炎の中に壊滅させたのである。

地底の作業は真夏の暑さに加えて炎の火熱で、自然地獄に置かれ、40余時間計3日間も続いた。

・・・18日の朝に焼却は終わり防空壕の天井を地に落し土埋した。

重慶(注:国民政府)から1週間後に、

部隊受領の将官が来る、と報告があってから、部隊は騒然となった。・・・・

1科の者は全員早急に建物及び部内その他一切を処置せよ、との命令である。

それは極秘作戦、細菌生物兵器、生体実験の証拠抹消であった。

細菌を持つものは、蚤や鼠などの小動物からマルタまで、すべて人体焼却場で焼却処分した。

それはそれは凄い光景だった。私が書類焼却している間、

3階のロツはバ-ナ-で切断され、部屋の周囲にあった蚤防止用の溝もきれいに取り除かれていた。

室内は解体して娯楽室に見せた。

マルタは青酸カリで殺してから焼いたという。

それよりも驚いた事に、1科の敷地内を、兵隊たちが彼処も此処も土を掘り返していて、

其処から異様な臭いが起こって来るではないか。

兵隊が3,4名で臭いの物をリヤカ-に積んで運んでくる。

飛行場の一部分に、1科で薬草栽培の農地を管理していた。

そこをも掘り返して、死体を処理すべく1科の中庭まで運んできた。

山積にされた数は数10体に及んでいる。

綿製の支那服と頭髪はまだそのままであるが、体骸はほとんどが白骨になってはいるものの、

肉体は腐敗し水溶化して着衣に吸収し、真夏の太陽熱にあたり異様な悪臭を発散し、

蝿の群衆の襲来で真っ黒となってる。

これを何日もかけて焼いて、そのあとで揚子江に遺棄したという。

今日でもあの臭いだけは思い出したくないのである。


日本国内、新潟や山形に隠してあった重要文書も若松陸軍次官の命令で焼却されました。

東京の陸軍軍医学校は空襲で炎上し、残された資料は焼かれたり埋められたりしました。

1989年に発掘された多数の人骨はその時埋められたものだと思われます。

新潟や山形と書きましたが、新潟には陸軍軍医学校防疫研究室の新潟出張所がありました。

敗戦が近くなり空襲が激しくなってきたため防疫研究室の設備や資料を地方に疎開させたのです。

シンガポ-ルの岡9420部隊の総務部長だった内藤良一は、この新潟出張所の1945年3代目に就任しました。

そして8月15日を過ぎてから多くの細菌爆弾を含む証拠品が海に投下されました。

(新潟日報 1986年の連載)

 このようにして731部隊の証拠書類はすべて処分されたはずでした。

しかし実際には主要幹部の研究デ-タ-は処分されずに日本に持ち込まれていました。

国内では一旦金沢陸軍病院の倉庫に隠され、その後東京に運ばれました。

運んだのは菊池斉少将、増田知貞少将、太田澄大佐です。

東京では杉並のオリエンタル写真工業、新宿の石井四郎の自宅、千葉の増田少将の自宅と言われています。

 

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