防疫給水部(細菌戦部隊)

ハバロフスク軍事裁判
記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2014/09/07 12:29

さて東京裁判ではアメリカに調査を妨害されたソ連ですが、

敗戦時満州に攻め込んだ際多くの日本軍人を捕虜にしています。

そしてアメリカとは別個に捕虜の中から731に関連した関係者1001名以上から12人を起訴して裁判を開きました

裁判は1949年12月25日から30日までハバロフスクで行われました。

実は戦後日本政府とアメリカの隠蔽政策で多くの日本人は731部隊の事を知りませんでした。

しかしこのハバロフスクの軍事裁判の資料が公開され、

その資料を基にして作家の森村誠一氏によって「悪魔の飽食」が書かれ始めて日本人は事実を知ったのです。

少し長くなりますがこの裁判について参考に書いてみます。

* 12人の被告

1.山田乙三   陸軍大将 関東軍司令官
2.梶塚隆二   軍医中将 関東軍軍医部長 細菌学者 医師
3.川島清    軍医少将 1939年から1943年まで731部隊勤務細菌製造部長
4.高橋隆篤   獣医中将 1941年から1945年まで関東軍獣医部長
5.柄沢十三男  軍医少佐 731部隊細菌製造班長
6.西俊英    軍医中佐 731部隊でノミの繁殖、ネズミやモルモットの大量飼育を担当
7.尾上正男   軍少佐  731部隊で実験動物の飼育と助手の教育を担当
8.佐藤俊二   軍医少将 広東8604部隊と南京1644部隊の部隊長を務めた
9.平桜全作   獣医中尉 細菌学者第100部隊で細菌や毒物の製造を行った
10.三友一男  軍曹 炭疽菌、鼻疽菌、牛疫菌の背映像などを担当
11.菊池則光  上等兵牡丹江支部衛生兵見習い
12.久留島祐司 731部隊牡丹江支部衛生兵実験手

* 証人

1.田村正
2.村松知勝
3.飯島良雄
4.山岸健二
5.古都

起訴された12人はそれぞれが責任のある立場の役職です。

戦後アメリカの情報しか入らなかったためハバロフスク裁判のことはあまり知られていないので、少し詳しく書きます。
膨大な裁判資料ですから、被告の名前と供述したことを箇条書きにします。

尋問の質問は省略します。


「被告川島の訊問」 1949年12月25日午後の公判から

* 第731部隊は、1936年天皇の軍令によって編成されました。

  これには又、部隊員の総数及び造営物の建築についても指示してありました。
* (部隊員は)私の記憶するところでは、天皇の命令によって、

  この部隊の勤務人員は支部を含めて3000人に定められていました。
* 第731部隊は、主として、細菌戦準備に関する科学研究業務に従事していました。
* 実験室の条件において、生きた人間を使用する実験を行っていたのは、第1部であります。

  被実験者が収容されていた部隊の監獄も第1部に所属していました。
* 部隊の第2部は、第1部で製造された殺人細菌を野外の条件において実験していました。
* (安達)実験場における実験は、生きた人間を使用して行われるのが通例でありました。
* 第4部の主要任務は細菌の繁殖、培養の外、ワクチン及び免疫性血清の製造でありました。
* 1941年夏、石井部隊長は部隊の部長全員を会議に招集し、

  そこで、日本軍参謀総長の指令を受けた旨我々に通達しましたが、その指令の内容は次の通りです。

  即ち、第731部隊は、細菌戦準備分野、特にペスト蚤の大量繁殖において、ある程度の成果を収めた。

  ペスト蚤は、戦略・作戦上大きな意義を有するものである。

  従ってこの方面における研究業務の強化を命ずると言うのであります。

  この際部隊長は部隊の業務で最大の弱点のひとつは蚤の大量繁殖の見地からして可能性が乏しい事である。

  あらゆる注意を蚤の大量繁殖に集中する事が必要である旨我々に指摘しました。
* 第4部にあった生産能力及び全設備を最大限に利用すれば、

  この部が1か月に、ペスト菌300キログラム、或いは、チフス菌800から900キログラム、

  炭疽病菌500から700キログラム、コレラ菌1トン製造出来たのであると言わねばなりません。
* 蚤の大量繁殖の為、第2部には特別室が4つありました。

  室温は一定温度、即ち摂氏30度に保持されていました。

  蚤の繁殖には高さ30センチ、巾50センチの金属製の缶が使用され、

  蚤の居場所として、この缶にモミガラを撒きました。

  この様な準備が終わりますと、まず缶に若干の蚤を入れ、

  飼料として白鼠を入れ、この白鼠は蚤に危害を加えない様に縛り付けられていました。
* (1つの培養器で1製造周期に)10グラムから15グラムの蚤が取れました
* 1製造周期は2から3か月です。培養器は4000から4500ありました。
* (細菌兵器として使用するとき、ペストで汚染された)蚤を飛行機から投下する方法が最も有効な方法である
* 部隊は生きた人間をハルピンの憲兵隊から受け取っていました
* 第731部隊構内の監獄に監禁されていた囚人が、

  細菌戦準備の諸目的における、色々な研究を行うために使用されていました。

  研究は次の様な部門、即ち種々なる伝染病の殺人細菌の毒力増強のため、

  これ等細菌の生きた人間に対する使用方法研究の為でありました。
* (実験は)監獄で行われました。監獄の外に特別実験室があって、

  そこでも生きた人間を使用する実験が行われました。
* (監獄は一度に)200名から300名いました。

  400名でも収容することが出来ました。

  1年間に400名から600名の囚人が届けられました。
*(生きた人間が感染した後)治療しました。

  (治療した後)他の実験に使用するのが常でした。

  死ぬまで行われました。

* 監獄のあった全期間を通じて私の承知しているところでは

  監獄から生きて出て来た者は一人もいませんでした。
* (実験に使用されたのは)主として中国人、満洲人、それからロシア人が少しであります。

  乳飲み子を抱えたロシア人の婦人もいました。
* (1941年夏の安達駅の野外特別実験場での)実験に使用された場所は入念に警備され、

  ここを通過することは禁止されていました。

  その周囲には特別な歩哨が立ち、局外者が誰もここに行けない様に警備していました。

  この実験に使用された15名の被実験者は部隊構内の監獄から届けられ、

  実験が行われていた地域で特別に地中に埋めた柱に縛り付けられていました。

  飛行機が容易に方位を定め、

  容易に特別実験場を認め得るために特別実験所には旗が掲揚され、煙を昇らせました。

  平房駅から特別飛行機が飛来しました。

  飛行機は実験地域上空を飛行し、実験場の上空に来た時20個ばかりの爆弾を投下しました。

  爆弾は地上100から200メ-トルの所に達せぬ内に炸裂し、

  中から爆弾に充填されていたペスト蚤が飛び出しました。

  これらペスト蚤は全地域に蔓延しました。

  爆弾投下が行われた後、蚤が蔓延し、被実験者を感染させることが出来るため、相当の時間待ちました。

  その後これ等の人間を消毒して、飛行機で平房駅の部隊構内監獄に送り、

  そこでこれ等の人間がペストに感染したかどうかを明らかにするため彼らに監視が付けられました。


「被告柄沢の訊問」12月26日午前の公判

* (生体実験を行った目的について)これは細菌の研究及び細菌戦へのその使用のために行われていました。

  即ち、研究されていましたのは、細菌の効力、細菌の繁殖方法及びその使用方法、

  細菌の大量生産方法並びにこれら細菌の保存方法であります。
* (生体実験を行っていたのは)第1部であります。

  実験は二様に行われました。

  即ち、監獄と特設実験場であります。特設実験場では実験は第2部が行いました。
* 私は、安達駅の特設実験場で野外の条件下における人間の感染実験に2度参加しました。

  第1の実験は、1943年末、炭疽菌で行われました。

  この実験のために、特設実験場に連れてこられた10名の被実験者が使用されました。

  これらの人々は、5メ-トル間隔で特殊な柱に縛り付けられていました。

  これらの人々の感染のためには、被実験者から50メ-トルの所にあったりゅう散爆弾が使用されました。

  この爆弾は電流によって爆発せしめられました。

  彼らに対してある措置が施された後、彼らは部隊に連れて行かれましたが、

  その後、罹炭疽した被実験者が死亡したことを報告から知りました。

  2度目は、1944年の春でした。これは、ペスト菌の使用実験でありました。

  方法は呼吸器を通じての感染でありました。被実験者は、炭疽菌の実験の際と同じように扱われました。

* (731部隊の監獄から自由の身になって帰ってきた者がいたかとの質問に対して)

  私の知ってい限りでは、誰も帰ってきませんでした。

  全部虐殺されたのであります。

 

「被告山田の訊問」

* 1944年7月から1945年8月まで、私は関東軍司令官の職にありました。
* 関東軍には第731部隊、第100部隊という2つの細菌戦部隊があり、これは関東軍司令官直轄でありました。
* 梶塚中将は、関東軍司令部軍医部が管掌していた業務に関して私に報告し、

  特に731部隊が細菌戦準備問題を取り扱っていることを報告しました。

  特に、彼は第731部隊では細菌兵器の研究及び

  細菌兵器の製造に関する業務が行われていることを報告しました。
* (細菌兵器の使用目的はソ連以外はどこかとの質問に)特にアメリカと大英帝国でありました。

  これらの国に対しても、細菌兵器を使用することが考慮されていました。
* (質問)満州国に配置されていた第731部隊は、一連の国々に対する細菌戦準備の中心拠点であった。

      その通りか?
  (答え)そうであります
* (質問)細菌戦準備及び細菌兵器の製造を目指す第731部隊の業務を1944年7月以降統括したのは誰か?
  (答え)関東軍司令官として私はこれを統括しました。

* (質問)第731部隊及び第100部隊の業務の統括における関東軍司令部作戦部の役割はいかなる点にあるか?

  (答え)細菌戦準備関係の細菌戦諸部隊の作戦指導にありました。
* 1944年10月でありました。第731部隊長北野少将は私に対して、

  飛行機からの投下による細菌兵器としての、ペスト蚤使用の実験と研究の結果に関する報告を行いました。

  この報告は上映の映画と共に行われました。
* これに立ち会ったのは、関東軍参謀長笠原中将、

  作戦部長松村大佐及び参謀宮田中佐(皇室天皇の従兄弟)であります。
* (国家検事)90名を殺戮のため「特移扱」として送致することに関する関憲作命第224号の写し

        読み上げることを裁判官に要請する。

        被告山田、この命令は関東軍司令官直轄の憲兵隊司令部によって出されたものであるか?
  (答え)これは、私が関東軍司令官の地位に任命されるまで、憲兵隊司令官であった白倉少将の命令であります。
* (細菌兵器の使用方法について)私は3方法あると思います。

  すなわち、まず爆弾投下による方法、次に飛行機から直接散布する方法、最後に地上散布法であります。
* (質問)第731部隊と第100部隊解消に関する命令に、貴方はいつ署名したか?
  (答え)1945年8月9日-10日頃でありました。

  関東軍司令官は、これら部隊の業務を中止せしめ、部隊を解散せしめる全権を持っていませんでした。

 

「被告西の訊問」12月26日午後の公判

* (太田大佐が作った菓子について)

  ごく普通のチョコレ-トで細菌を充填した後包装紙に包まれるべきものでした。

  このチョコレ-トの形は円形の筈でありました。

  彼は、自分が作ったチョコレ-トの内10個くらい見せてくれました。

  太田大佐はチョコレ-トの中には炭疽菌が入っていると語りました。
* 私は、1940年中国に対して細菌兵器が使用されたことを聞きました。

  1940年8月或いは9月私は北京の防疫給水本部におり、

  そこで中国中部の寧波市付近で細菌兵器が使用されたことを耳にしました。
* 私は1940年の中国中部への第731部隊派遣隊の活動に関する記録映画を見ました。

  まず映画には、ペストで感染された蚤の特殊容器が飛行機の胴体に装着されている場面がありました。

  ついで飛行機の翼に散布器が取付けられている場面が映され、

  さらに特別容器にはペスト蚤が入れられてあるという説明があって、

  それから4人或いは5人が飛行機に乗りますが、誰が乗るのか判りません。

  それから飛行機が上昇し、飛行機は敵方に向かって飛んでいるという説明があり、

  次いで飛行機は敵の上空に現れます。

  次いで飛行機、中国軍部隊の移動、中国の農村などを示す場面が現れ、

  飛行機の翼から出る煙が見えます。

  次に出てくる説明からこの煙が敵に対して散布されるペスト蚤であることが判ってきます。

  飛行機は飛行場に帰ってきます。スクリ-ンに「作戦完了」という文字が現れます。・・・・・・

  この後「結果」という文字が現れ、中国の新聞及びその日本語翻訳文が上映されます。

  説明の中で、寧波付近で突然ペストが猛烈な勢いで流行し始めたと述べられています。

  最後に終わりの場面で中国の衛生兵が白い作業衣を着て

  ペスト流行地区で消毒を行っている様子が上映されています。

* 吉村研究員から聞いたところによりますと、

  酷寒(零下20度以下とのことです)に部隊の監獄から人々を引出し、

  素手にさせ、人工風によって手を凍らせていました。

  それから、ちいさな棒をもって凍傷にかかった手を、小板を叩く様な音が出るまで叩き続けました。

  この外、私は実験に関する吉村の報告を読みました。映画も撮影されました。
* 第731部隊長の命令で、1945年1月私は安達駅に赴きました。

  ここで私は第2部長と二木研究員の指導下に、ガス壊疽菌による感染実験がいかに行われているかを見ました。

  このために囚人が10人使用されました。

  これ等の人々は柱に面と向かって縛り付けられ、相互に間隔は5-10メ-トルでした。

  囚人の頭は鉄帽で胴体は楯でそれぞれ覆われていました。

  身体は全部覆い隠され、ただ臀部だけが露出されていました。

  感染のために約100メ-トルの所で電流によって榴散爆弾が爆発せしめられました。

  10人共全部露出部分に負傷しました。・・・・・

  後で私は碇及び二木研究員に聞いたところ、

  彼らは10人全部負傷し、ガス壊疽に感染されて死亡したと語りました。

「被告梶塚の訊問」12月27日午前の公判

* 第731部隊は1935年或いは1936年の始め、

  正確には記憶して居りませんが、天皇の軍令によって編成されました。
* ヨーロッパへの海外出張から帰国した後、

  石井四郎は1931年東京陸軍軍医学校の教官として勤務していました。

  彼は、最強諸国が細菌戦の準備を行って居り、もし日本がかかる準備を行わないならば、

  将来戦において日本は大きな困難に遭遇するであろうということを語り始めました。

  日本陸軍省及び参謀本部の幹部たちの間で

  石井が細菌兵器は作戦的観点から攻撃兵器として非常に有効であると語ったことを私は聞きました。

* 私の知っている限り、後に陸軍省軍務局長になった永田中将が最も積極的に彼を支持しました。
* 平房駅の石井の実験室にある事務所には、永田中将の石膏半身像が据置しており、

  石井は自分の所に半身像を置く程永田に感謝していたのであります。
* 第3部が給水関係の業務を行い、他のすべての部は給水には何の関係も持っていませんでした。
* 「731部隊の秘密中の秘密」-これは細菌戦準備に研究及びその他の業務、

  この業務の結果、生きた人間を使用する実験でありました。
* 石井は私に、細菌戦の為には各種の方法がある。

  その方法というのは、第1.謀略による方法、第2.砲弾の使用、第3.爆弾の使用であると語りました。

  更に石井四郎は、私に普通砲弾・爆弾は金属製であるが、

  これ等の爆弾、砲弾に細菌を充填するならば、

  金属の炸裂に際して、大弾筒の爆発によって起こる高熱の結果、細菌が死滅する。

  従って石井部隊では陶器製爆弾に注意を払い、その研究が続けられていると語りました。・・・・

  また石井は飲料水、食料の汚染による病原菌の使用は細菌兵器使用の効果的方法であると語っていました。
* 既に当時彼はペスト蚤が最も適当であると理解していました
* 私は吉村の研究論文を見ましたが、この論文の論旨は、

  最も効果的な凍傷治療法が凍傷にかかったた手足を37度の温水に浸すことだというのであります。

  このことから私は吉村が凍傷の研究に従事していたことを承知しています。

 

「被告佐藤俊二」の訊問

* 私が広東「波」第8604部隊長に任ぜられたのは、1940年12月から1943年2月まででありました。

  それから1944年2月までは南京「栄」1644部隊長に転任しました。 
* (「栄」1644部隊には)12支部ありました。人数は約1500名であります
* (南京では)細菌大量生産用設備の中、5米・5米・2米半の大きさの細菌培養室、

  直径1米半、長さ2米半の円筒形の2つの自閉缶、そ

  の他石井式培養器約200がありました。

  コッホ式釜は50ありさらに10ありました。
* 全設備を使用せる場合、細菌製造量は1製造周期に10キログラムでありました
* 私は栄第1644部隊にいた時、太田大佐及び小野寺中佐から

  1940年に寧波市、1941年に常徳市、

  1942年にセッカン作戦でそれぞれ細菌兵器が実用されたことを聞きました。

  尚飛行機から散布されるペスト菌が利用されました。

  セッカン作戦中栄第1644部隊の一部の人員は、この作戦の実施を援助しました。

  この外、常時第731部隊から非常に多数の軍人が出張して来ました。
  具体的に、作戦がいかに行われたか私は知りませんが、

  栄第1644部隊本部では特に蚤の繁殖によって、この作戦の実施を促進しました。


「被告平桜全作」の訊問

* 私は1942年7月から100部隊勤務員として勤務してきました。
* 第100部隊は外面はその公式名称によって関東軍軍馬防疫廠でありましたが、

  実際は細菌戦の準備に従事していました。
* この部隊は関東軍統帥部の直轄でありました。
* (指導は)元関東軍司令部獣医部長高橋中将であります。
* 1944年私は業務報告を行うためハイラルから部隊に到着しました。

  松井研究員に会いました。松井研究員は、何か植物性食料の入った食器を手に持っていました。

  私の質問に彼は生きた人間を使用する実験を行うため隔離所に持っていくのだと答えました。
* 1942年7月から8月まで私は夏期演習に参加しました。

  この演習を指揮したのは村本少佐であります。

  この隊には若干の研究員、将校、技術員等総数30名の人間がいました。

  所要の器材は長春に送られ、資材部分品の発送には金田少尉が当たりました。

  実験は、北興安省三河付近のソビエト国境近くを流れているデンプル河畔で野外の条件下で行われました。

  この実験の目的は、実践における細菌使用の可能性を研究することでありました。
* ソヴィエト国境から程遠くないデンプル河であります。

  この際、延長約1キロメ-トルにいたる地域が汚染されました。

  汚染は、約100メ-トル宛の一定の間隔を置いて行われ、

  三田及び井田研究員がゴム製のボ-トに乗って汚染を行いました。

 

「被告三友一男」の訊問

* 私は100部隊第2部に勤務していました。最初は第1課で勤務し、第6課創設後同課で勤務しました。
* 第6課の主要な任務は、細菌戦及び謀略の方法の研究並びに細菌の大量生産でありました。

  この研究はソヴィエト同盟に対する戦争準備のために行われていました。
* 主として鼻疽菌、牛疫菌、羊痘菌が研究されていました。
* 私は主として鼻疽菌の培養に従事し、同時に生きた人間を使用する実験に参加しています
* 第100部隊勤務中、私は人体実験に1度参加しました。
* 人体実験を行っていたのは4人であります。

  即ち全業務を指導していたのは井田研究員、これに参加したのは中島中尉、松井実験手、それから私であります。
* 被実験者は部隊衛兵所の隔離室に監禁されていました。
* 生きた人間を使用する実験は1944年8月~9月に行われました。

  これら実験の内容は、被実験者に気づかれないように彼らに催眠剤及び毒を与えたことでありました。

  被実験者は7~8名の中国人とロシア人でありました。

  実験に使用された薬品の中には朝鮮朝顔、ヘロイン、ヒナシ油の種がありました。

  これ等の毒剤は食物に混入されました。

  2週間にわたって各被実験者に毒剤を盛ったこのような食事が5~6回支給されました。

  汁には主として朝鮮朝顔を混入し、粥にはヘロイン、煙草にはヘロインとバクタルを混入したと思います。

  朝鮮朝顔を混入した汁を与えられた被実験者は30分~1時間後には眠りに落ち5時間眠り続けました。

  被実験者は2週間後には衰弱し、実験の役にはたたなくなりました。
* 機密保持のため、被実験者は皆殺されました。
* あるロシア人の被実験者は、松井研究員の命令で青酸カリを10分の1注射されて殺されました。

  私が注射をしました。
* 私は部隊にあった家畜墓地で死体を解剖しました。
* 部隊裏の家畜墓地に穴を掘って埋めました。

  家畜の死体を埋めていた所と同じですが、穴は違います。(注:場内、うごめき憤激の声満る
* この被実験者に青酸カリを注射するため、松井の指示によって下痢を起こさせました。

  これが青酸カリを注射する口実になりました。
* 中国人の被実験者が1人、私が毒を混入した粥を食べ、数時間意識不明の状態を続けた後死亡しました。

  毒はヘロイン1グラムであります。
* この死体もロシア人と同じ家畜墓地に埋められました。
* 他には、ロシア人の被実験者が2人と中国人が1人同じ家畜墓地で憲兵に射殺されました
* 実験用として第100部隊に送致された人々は皆殺されました。


「被告高橋隆篤」の訊問


* 私は1941年3月から関東軍司令部獣医部長として勤務していました。

* 1941年3月私が任命された時、

  この軍馬防疫廠(100部隊)は主として馬のワクチン、血清の製造及び伝染病の研究を任務としていました。

  1941年9月部隊には細菌戦及び謀略の準備、コレラ等の問題の研究、

  手段の究明という任務が課せられました。

  主としてソヴィエト同盟が目標とされました。
* (100部隊で培養した細菌は)鼻疽と炭疽菌が先ず第一、

  次いで赤穂菌、モザイク、それから牛疫菌、羊痘菌であります。

  最も是認できたのは炭疽菌、牛疫菌及び羊痘菌であります
* 細菌戦の積極的準備に関する命令は関東軍司令官の梅津大将の命令を

  私が第100部隊の若松獣医少将に伝えました。
* この様な部隊の創立は参謀本部の第一作戦部であります。
* 第100部隊の1年間生産能力は-炭疽菌1000キログラム、鼻疽菌500キログラム、

  赤穂菌100キログラムであると司令官に報告しました。

  この様な数字は十分な設備の下に可能でありました。

  その後、設備は1943年12月から到着し始め、第2部第6課で据え付けられ始めました。

  しかし、この計画を遂行することは出来ず、

  1944年3月末、私は炭疽菌200キログラム、鼻疽菌100キログラム、

  赤穂菌が20~30キログラムを製造されていることについて司令官に報告しました。


被告の訊問内容はこの位にして次に証人の尋問内容を記載します。

 

「証人田村」の訊問

* 当時私は長春市に居りまして、関東軍司令部人事部長でありました。大佐であります。
* (視察で)石井部隊に到着した私は、

  部隊のすべての業務用建物、即ち実験室及びこの部隊の囚人が収容されていた監獄を巡視しました。

  製造部の作業場を巡視したとき、私は細菌兵器の大量生産用の設備を見ました。

  更に私は蚤の繁殖に利用するため飼育していたげっ歯類を見ました。

  部隊内で私は、細菌砲弾及び見本を見、

  又石井の私室で私は細菌兵器の効力を説明する一連の要図と設計図を見ました。

  更に構内監獄を巡視して、監房の一部を見ました。

  そこで私は、約40~50名の囚人を見ましたが、

  その民族別は中国人とロシア人で、それらロシア人の中には1人の婦人が交ざっているのを私は見ました。

* 廊下から監房の扉の小さな監視窓越に私は、若干の囚人が足錠を嵌められているのを見ました。

  ある者は動いていましたが、大部分は床に横になっていました。
* 石井中将は、これ等の囚人が細菌の効力試験のため、被実験者として利用されている旨私に語りました。

  私は、被実験者であった囚人の中2-3人の者が非常に衰弱しているのを見ました。
* 石井の言により私が承知しているところでは、

  これ等の人間は、日本の憲兵隊及び陸軍特務機関が拘引し、

  死刑宣告を受けるべき犯罪人とみなした者の中から送致していたのであります。
* 石井は、細菌の効力が実験室の条件及び野外の条件下に生きた人間を使用する実験によって検査され、

  細菌兵器こそ、関東軍が持っている最も威力ある兵器であることを私に語りました。

  彼は、第731部隊が完全な戦闘態勢にあり、戦争が始まっていざと言う場合には、

  部隊が敵軍に莫大な量の殺人細菌を直接浴びせかけ得る状態あり、

  また部隊が飛行機によって敵の後方において、その都市に対し細菌戦上の作戦を実施し得る旨私に説明しました。

 

「証人 古都の訊問」 12月28日午後の公判

* 私は第163支部(注:731部隊牡丹江支部)衛生兵で病原菌研究班で勤務していました。
* 私は1942年に中国中部派遣隊に参加しました。
* 7月に、120名の将校及び軍属からなる第731部隊別班が汽車でハルビン市を出発しました。

  我々は、日本の中国中部派遣軍防疫給水部が所在した南京市に到着しました。

  そこの防疫給水部(注:栄1644部隊)から将校、兵の一団が加わりました。

  我々の派遣隊の人員は結局150~160名でありました。
* 派遣隊は石井少将が指揮しました。
* 派遣隊の業務は、

  貯水池、河川、井戸、建物をチフス菌及びパラチフス菌によって汚染する方法による細菌攻撃でありました。

  第731部隊は第4部で大量製造した前述細菌をこの派遣隊のために送りました。

  細菌はペプトン用壜に詰められていました。
* 南京部隊に到着次第、壜に詰められていた細菌の一部は、

  飲料水用の金属製水筒に入れ替え、残りは壜の中に残しました。

  これらを飛行機で攻撃予定地に送りました。

  攻撃は水筒及び壜を井戸、湿地、村落の民家に投げ込む方法によって行われました。
  ペプトン用壜の一部は、特製の肉汁で細菌を繁殖するのに利用されました。
* 常時そこには総数3000人からなる中国軍の俘虜の収容所が2つありましたが、

  3000個の特製の饅頭が製造されました。

  これ等の饅頭には、注射器で細菌が注入されました。

  チフス菌とパラチフス菌が使用されました。

* 饅頭は収容所で中国語を知っている通訳の春日が中国軍俘虜に配布しました。
* 細菌で汚染した饅頭を食べさせた後、流行させるため、収容所から全員を出してやりました。
* (ビスケットについて)卵形のものと細長い形の2種のビスケットでありました。

  小麦で作られ、饅頭同様細菌で汚染されました。

  ビスケットは日本軍兵士に引き渡され、垣根の下、木の下、休憩地等に、撒きました。

  その数は300-400個ありました。
* 婦人も居りました。彼女等は、黴毒(注:梅毒の事)の予防手段の研究の為に黴毒に感染せしめられました。

 

「証人 橘の訊問」

* (階級は)憲兵大佐であります。(法廷内、ざわめく)
* 1940年、私は佳木斯市の憲兵隊長の地位にありました。

  その時、私は初めて、第731部隊の存在とその業務の性格を知るようになりました。

  私は関東軍防疫給水部と称されていた第731部隊が、

  実際には細菌戦の準備、

  更に生きた人間を使用する実験の実施によってこれを行っている事を知るようになりました。

  …..私が佳木斯の憲兵隊で勤務していました当時、

  何らかの犯罪の嫌疑で憲兵隊が拘引し検挙した者の一定の部類を、

  我々は実験材料として第731部隊に送致していました。

  我々はこれ等の者を予備的な部分的取調べの後、

  裁判に附さず、事故送致をせずに、憲兵隊司令部より受領した指令によって第731部隊に送っていました。

  これは特殊の措置でありましたので、かかる取り扱いは「特移扱」と呼ばれていました。

  「特移扱」にされた者は、次の如き部類のものでありました。

  即ち他国家を利する諜報行為の罪を負わされる者、

  或いは外国諜報機関の関係者の嫌疑をかけられた者、並びにいわゆる匪賊、即ち中国のパルチザン、

  それから抗日分子の部類、改悛の見込みなき刑事犯、即ち常習犯がそれであります。

  これ等の部類の者を、我々は「特移扱」として第731部隊に送致していました。

  佳木斯憲兵隊長在職中、私の隷下憲兵隊本部によって少なくとも6人が第731部隊に送られ、

  これ等の者はそこから戻らず、実験に使用された結果死亡しました。
* 特移扱に該当する人物は、憲兵隊本部の留置場に留置され、

  しかる後、彼らの尋問調書の抜粋及び特移扱許可申請書を憲兵隊本部に送りました。

  そこではこの書類を検討し、問題を決定して、申請してきた当該憲兵隊の

  これ等の人物を「特移扱」の名目で第731部隊に送致するべき事に関する命令が発せられました。

  かかる書類が地方の本部から憲兵隊司令部に入りますと、

  庶務部を経て、これ等は刑事部に引き渡され、それから私が長でありました防諜班に渡されました。

  私はこれを承認して更に刑事部長に送りました。

  刑事部長は関東憲兵隊司令官の決裁を得た後、

  憲兵隊司令官の名をもって該当書類を提出した憲兵隊本部に命令を発しました。
* 私の在職中、100名以上の者が送致された事を記憶しております。
* 勿論関東憲兵隊は、関東軍司令官の指令によってこれを行っていました。

  通常、憲兵隊は事犯者の事件を裁判所或いは軍事裁判所に送致していましたが、

  これ等の場合には、特別命令が法律に代わり、人間は裁判なしで送致されていました。
* ・・・憲兵隊司令部から「特移扱」の正式決済があった後、

  申請書一部が戻され、囚人は憲兵隊本部に留置されていました。

  その後、第731部隊から実験材料即ち「特移扱」に運命づけられた人間の送致要求があった後、

  囚人は調書の一部と共にハルビンに送られ、ハルビン駅で憲兵隊員に引き渡されていました。

 

「証人 倉員の訊問」

* 私はハルビン憲兵隊本部に勤務しておりました。
  憲兵隊本部特高課の班長でありました。憲兵曹長であります。
* 私は1940年3月以降1年間部隊附憲兵班の憲兵として第731部隊に勤務しました。
* ハルビンから第731部隊に送致される囚人の護送が私の職務でありました。

  部隊ではこれ等の囚人を「丸太」と称し、被実験者に利用していました。
* 我々は特別の護送車に便乗してハルビン駅に向かい、

  そこで駅の憲兵隊分遣所に立ち寄り、駅詰めの憲兵長立会いの下に、

  林口、佳木斯等の他の都市の憲兵隊員から第731部隊向け移送用人員を受領しました。
* 我々はこれ等の囚人を受領してから護送車に乗せて、

  第731部隊に引き渡すため平房に向い、そこで表門の所で自動車を止め、

  衛兵所に立ち寄り衛兵は構内監獄の当直に電話をし当直が受領のため人をよこしました。
* 生きた人間を使用する実験を私が初めて見たのは、1940年12月のことであります。

  第1部員である吉村研究員がこの実験を私に見せてくれました。

  実験室に立ち寄りました時、そこには長椅子に5人の中国人の被実験者が座っていましたが、

  これ等の中国人の中2人には、指が全く欠け、

  彼らの手は黒くなっていましたし、3人の手には骨が見えていました。

  指はあるにはありましたが、骨だけが残っていました。

  私が吉村の話から知ったところによりますと、これは彼らに対して凍傷実験をした結果でありました。
* 一度この監獄に投げ込まれた人間は、そこから戻りませんでした。
  (問い)男子でも、婦女子でも、監獄に入れられた者はすべて、殺されねばならなかった訳だね?
  その通りであります。

 

「証人 桑原の訊問」

* 私は第100部隊第2630支部の軍属として勤務しました。技術員でした。
* 1945年8月20日、支部の厩舎に行きましたところ、勤務員が6名おりました。
  窪田、池田、矢田、木村、石井及び長谷川でありました。

  そこの厩舎には部隊で飼っていた60頭の馬がいました。

  彼らは鼻疽菌を燕麦を介して馬を鼻疽菌に感染させているからと私に注意しました。
* 罹鼻疽された馬は柵を壊して四方八方に放してやりました。馬は付近の村落に駆け出しました。 
  (日本の降伏命令の後にか?)
  はい


まだ沢山の証人が証言をしていますが、スペ-スの関係でこの位にします。

この裁判で731部隊に関することが全てわかる訳でも、証言が正しいかどうかも判りません。

この裁判はソ連が意図的に行った軍事裁判だとして否定する人もいます。

また被告や証人も自分の立場をよくするために全てを正直に言っているかどうかもわかりません。

それにしても最近の調査でかなり信憑性があることはわかってきました。

重要な参考資料になると思います。

そして判決ですが全被告に対する判決は下記の通りです。

1.山田乙三   1943年4月19日付のソ同盟最高ソヴィエト常任委員会法令第1条により、

         25年間を期限として、矯正労働収容所に収容すべし
2.梶塚隆二      同上
3.高橋隆篤      同上
4.川島清       同上
5.柄沢十三夫  20年間を期限として、矯正労働収容所に収容すべし
6.佐藤俊二     同上
7.西俊英    18年間を期限として、矯正労働収容所に収容すべし
8.三友一男   15年間を期限として、矯正労働収容所に収容すべし
9.尾上正男   12年間を期限として、矯正労働収容所に収容すべし
10.平桜全作  10年間を期限として、矯正労働収容所に収容すべし
11.久留島祐司 3年間を期限として、矯正労働収容所に収容すべし
12.菊池則光  1年間を期限として、矯正労働収容所に収容すべし
以上

判決は、その写文を受刑者に手交したる日より72時間以内に上告手続きによって、

ソ同盟最高裁判所軍法会議に上訴され得る。


議長法務少将 デ・チェルトコフ
委員法務大佐 エム・イリニツキ-
委員法務中佐 イ・ヴォロビヨン
  12名の被告たちは収監されましたが、1956年12月までに死亡した2名を除いて帰国しました。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ご意見・ご感想はこちらへ ※個人情報の取り扱いについて

お名前 (必須)

メールアドレス ※返信をご希望の方はご記入ください

メッセージ本文