軍による性暴力

地域別・北朝鮮
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最終更新日:2014/05/05 10:45

1991年1月、平壌で開かれた第1回日朝国交正常化会談で、

北朝鮮から強制連行などの人的被害の一部として慰安婦問題が提起され、

補償が要求されました。

1992年5月3日には、平安南道に住んでいる李京生さんが、1929年12歳の時に日本軍に連行され、

慶尚南道の軍需工場で慰安婦生活を強いられたと、始めて名乗り出ました。

その年5月24日に北朝鮮に「朝鮮占領被害調査委員会」が出来、調査が始まりました。

そして1993年、平壌で「日本の戦後処理に関するピョンヤン国際シンポジウム」が開かれました。

2000年の女性法廷に向けて、朝鮮民主主義人民共和国の

従軍慰安婦・太平洋戦争被害者補償対策委員会」がまとめた報告書を中心に書きます。

* 今までに名乗り出た被害女性    生存者       218人

                     公開の場で証言した人 36人

* 連行時の年齢         12歳~15歳  34人(未婚者)

               16歳~19歳  92人(既婚者6人)

               20歳~24歳  54人(既婚者7人)

               25歳~29歳   9人(未婚者1人)

               30歳以上     2人(既婚者)

               その他12人は死亡、記憶喪失により確認不能

* 連行年数  (注:1993時点での統計です)

              1929年~1940年   43人

              1941年~1945年   73人

* 連行方法     ・ 居住地又は旅行中に拉致    96人

             ・ 良い働き口を斡旋すると言って 74人

             ・ 借金の変わりに業者に売られた。

             ・ 女子挺身隊の名目で募集された。

   * 運営        ・ 軍の直営管理と民間業者管理と2種類あった。

               ・ 性病検査は1週間ないし10非に1度ほど行なわれた。

                 治療しても治らない慰安婦は軍人が夜中にどこかへ連れて行った。

   * 慰安所の生活

       ・ 連れて行かれたときは「新品は将校用」ということで、数日間将校専用にされた。

       ・ 容貌の優れた女性は、全期間将校用にされた。

       ・ 拒否する女性には暴行が加えられた。

           軍刀で首を切られたり、性器に銃を撃ち込まれ殺害されたケ-ス。

           93人が残虐行為を目撃したり、自分も傷を残している。

       ・ 日本名或いは部屋の番号で呼ばれた。

       ・ 朝鮮語の使用や慰安婦同士の会話は禁止された。

       ・ 食事と便所以外は部屋から出ることは禁止され、24時間歩哨の監視下にあった。

         食事も部屋でとったケ-もある。

       ・ コンド-ムを洗って何度も使用させられた。

       ・ 1日に20人から25人、日曜日には40人以上の相手をさせられた。

       ・ 妊娠した時は注射で強制的に流産させられ、1週間もたたない内に仕事を強要された。

       ・ お金や軍票を手にしなかった女性がほとんど、料金制度を知らなかった女性もいる。

       ・ 1日ごとに受け取った「入場券」を経営者に渡した。その枚数によって食事の内容が変わった。

       ・ 帰郷するときにお金を支払うという約束だったが受け取っていない

 

北朝鮮の慰安所に関しては国交の問題もあり調査が遅れていましたが、

このところ咸鏡北道清津市で羅南にあった日本軍部隊の慰安所の調査が進んできました。

北朝鮮労働日報の2001年3月11の金徳鎬氏の論文を要約します

* 1998年に清津市青岩区域芳津洞で2ケ所の海軍専用慰安所が発見された。

                  (1998年5月7日朝鮮労働党機関紙・労働新聞)

   慰安所の名前は「銀月楼」と「豊海楼」

* 1999年から2000年にかけて、羅南第19師団に関する調査が進んだ。

* 羅南第19師団は1916年5月に15,000人で羅南を占領した後、

    1917年に99部屋の遊郭「フミモダ」を建設した。

    しかし一般人も入る遊郭だったため1928年に「軍人慰安所」という名称で新たに開設した。

    設立したのは、道知事(日本人)、羅南第19師団長、羅南憲兵隊長といわれている。

* 咸鏡北道清津市羅南区城豊谷道(当時は生駒町)に、

   平屋の木造建物が30余棟で、建物は1号棟、2号棟と続いていた。

   現在は4つの建物が残っている。

  5つの食堂があった。慰安婦の数は約300人だった。

* その他第19師団が駐屯していた会寧、恵山、咸鏡にも慰安所があった。

会寧には騎兵隊の第7489部隊の慰安所もあった。

慰安所の名前は、一富士(将校用)、大吉(下士官、兵士用)等

 

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