上海事変の拡大

次は南京事件と言うものはどのようにして起きてきたのかについてお話します。

実は南京事件は第二次上海事変が拡大していったものです。

1937年8月9日上海で

日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が中国保安隊員に射殺されたことから、

中国軍と日本海軍陸戦隊が衝突しました。

当時上海にいた日本軍は海軍特別陸戦隊が5000人で、

これに対して中国軍は5万人以上といわれ、

在留邦人を守るために日本は大量の陸軍を派遣することになりました。

 

その後の経緯を時間を追って整理してみましょう。

8月12日 国民党中央執行委員会は戦争状態に突入することを秘密決定しました。

8月13日 朝9時からの閣議では派兵に消極的だった石原作戦部長の意見は抑えられ、

      内地から2個師団の派兵が決定された。

8月13日 夕方中国軍は先制攻撃を開始し、

     中国空軍も第3艦隊旗艦「出雲」や陸戦隊本部を攻撃しました。

8月14日 消極的だった米内光政海相も「出雲」を攻撃されたことから

      臨時閣議では強硬な意見へと変わり

     「不拡大方針」の放棄を主張し、南京占領の提言を始めました。

8月15日 近衛内閣は政府声明を発表し、

    杉山陸相の意見で「不拡大方針」はそのままで、

     「暴戻支那軍」を「膺懲」すると言う、「南京政府断固膺懲声明

      いわゆる暴支膺懲声明を発表しました。

      これが上海事変の始まりです。

注:暴戻-ぼうれい、ぼうるい・・・残酷で人道に外れている事

  膺懲-打ち懲らしめる事

8月15日 上海派遣軍が編成され、予備役の松井石根大将を指揮官として

      その任務の範囲は「海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し上海並びにその北方地区の

      要線を占領し帝国臣民を保護すべし」という限定されたものでした。

8月17日 日本は閣議で従来からの「不拡大方針」を放棄する事を決定した。

 

このようにして第二次上海事変は始まったのです。

 

この時に軍部に追従した近衛首相の様子を批判している外交官がいました。

日記を見てみます。

 

●外交官石射猪太郎 外務省東亜局長の日記から

8月31日 近衛首相の議会草稿を見る。

  軍部に強いられた案であるに相違ない。

  支那を膺懲とある。

  排日抗日をやめさせるには最後までブッたたかねばならぬとある。

  彼は日本をどこへ持って行くというのか。

  アキレはてた非常時首相だ。

  彼はダメダ

 

余談になりますが、避難する在南京の日本大使館館員や日本人居留民を

保護する中国政府に関する資料があります。

それによると引き上げる日本人に対して、

中国人から危害が加えられないようにと国民政府は特別列車を用意し、

40名の護衛用の憲兵や2人の外交部の係官まで随行させて丁重に扱っています。

青島に着くまでの停車駅でも厳重な保護を与えています。

注:もし立場が逆で日本だったら、またその後の南京での日本軍の暴行を考えると、

  国民党政府がきちんとした紳士的な政権だった事が分かります。

 

●庄司得二「南京日本居留民誌」から 1940年

 停車場構内の柵外には黒山のような人集まり、

 列車をさして何事か語り合いおるもホ-ム内には人影なし。

 停車すると同時に護衛の憲兵ただちに列車の外側に並列し

 柵内を警戒しおる巡捕にて二重の警戒線を張り、

 列車付近に一人として群集を寄せつけず、厳重警戒をしおれり。

 その後停車のたびごとに注意しおりたるに、

 いかなる小駅にても同様にて、実に行き届きあれり・・・・