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キーワード「インドネシア」を含む投稿一覧

  • 地域別・マレ-シア、シンガポ-ル、インドネシア

    2020/08/30
    11:27

    「マレ-シア」

    1992年10月、

    カトマンズで「日本の戦争犯罪国際調査委員会」が開かれ、

    そこに出席したマレ-シア与党

    「マレ-国民組織」のムスタファ・ヤ-コブは、

    帰国後新聞などを通じて情報提供を呼びかけました。

    その結果3,500人から回答が寄せられ、

    その多くは日本軍による虐殺、

    虐待や強制連行だったといわれています。

    その中から慰安婦にさせられたと

    5人の女性が訴え出ました。

    同じころやはり与党の「マレ-シア華人協会」も

    調査を開始し、

    3人が名乗り出、

    12人の存在が明らかになりました。

    しかしマレ-シアの日本大使館や

    マレ-シア政府からの圧力(?)で調査は中断されました。

    ですからマレ-シアにおいては調査が進んでいないのですが、

     

    訴えた女性からの手紙を入手した

    早稲田大学の中原道子教授の聞き取り調査から

    2人の証言を書きます。

     

    ● Pさん 当時15歳 スランゴ-ル州のスルダンに住んでいた。

     1942年4月、昼食の支度中に

     押し入った日本兵によってつかまった。

     家族は抵抗して怪我をした。

     弟はトラックで連行され2度と戻らなかった。

     Pさんは、台所で両親の目の前で次々と強姦された。

     まだ初潮前だった。

     それからトラックで連行され、

     クアラルンプ-ルのアンパンにあった

     大きな家に連れ込まれた。

     怪我と強姦で頭からも性器からも出血していた。

     そこで1ケ月ほど毎日何人もの兵隊に強姦された。

     その後ジャラン・プ-ドゥの

     タイ・セン・ホテルに移され毎日強姦された。

     さらにゴ・カンと言う、

     日本人は六軒屋と呼んでいた慰安所で

     日本の敗戦まで強姦され続けた。

     戦後村に帰ると「汚らしい裏切り者」と唾をかけられた。

     戦後は何も語らずにそっと養女と暮らしていたが、

     呼びかけで手紙を書いた。

     字を書けないために、

     始めて養女に打ち明けて代筆してもらった。

     

    ● ロザ・リン・ソウさん 

       1994年11月、

       マレ-シアで初めて実名で名乗り出た。

     離婚していて、2人の子どもがいた。

     1人はまだ乳飲み子だった。

     1943年、夜中に日本兵の手で引きずり出された。

     子どもはもぎ取られた。

     トラックでビルマ街の

     トンロック・ホテルに連行された。

     ホテルには日本軍慰安所の看板がかかっていた。

     その慰安所には30人ほどの

     女性が閉じ込められていた。

     女性たちは1日昼と夜の2回食事を与えられた。

     忙しい時は1日30人もの兵隊に強姦された。

     ベッドに横たわったまま、服を着る暇もなかった。

     妊娠した女性はいつの間にか

     姿が見えなくなるので、

     殺されるらしいという噂だった。

     ロザ・リンさんは妊娠したが

     必死に頼み込んで病院に行った。

     女の子を出産した後、

     慰安所には戻らずに終戦を迎えた。

     

    マレ-半島で慰安所の開設、管理、募集を

    担当したのは兵站部でした。

    第25軍兵站に勤務していた「B」氏からの聞き取りです。

     

    ● B氏の証言

     1942年1月2日、マレ-半島の上陸地点

     シンゴラにいた兵站の将校以下3名から

     バンコク出張を命じられた。

     任務の一つは慰安婦募集だった。

     バンコクで日本企業の駐在員に頼んで

     23人の娼婦を集め、

     性病検査で合格した3人を連れて帰り、

     2月始めにハジャイとシンゴラに慰安所を開設した。

     3月31日にペラ州タイピンに入ると、

     先行していた兵站支部が

     将校用と兵士用の慰安所を開設していた。

     5月23日、クアラルンプ-ルに入った。

     「六軒屋(華僑の家6件)」と「つたのや」をはじめてとして

     16軒の慰安所を開設した。

     

    「シンガポ-ル」

    シンガポ-ルでは日本軍による華人虐殺が一段落した後、

      (大東亜共栄圏の泰緬鉄道・マレ-半島シンガポ-ルに

      詳しく書いてあります)

    1942年3月5日の「昭南日報」に慰安婦募集の広告が出ました。

    昭南日報は日本軍が現地新聞を接収して

    1942年2月21日に刊行を始めた中国語の新聞で、

    完全に日本軍の宣伝用新聞です。

    ●  広告

      各民族(各種)の接待婦数百名を募集する。

      年齢17歳から28歳ごろまでの者は皆応募してよい。

      採用された者は、

      毎月の報酬少なくとも150ドル(毎月休息1日)

      このほか応募の時に本人に3ドル、

      その紹介者には2ドルを与える。

      応募受付はビ-チ・ロ-ドのラッフルズ・ホテルに設ける。

      娼婦(暗業)の経験者も応募してよい。

       注:広告主は不明ですが、

         ラッスルズホテルは

         軍が管理する将校用のホテルで、

         しかも新聞が軍の宣伝用ですか ら、

         軍直接の計画と見て良いとおもいます。

     

    シンガポ-ルの慰安所については、

    パン・ミンイエン氏の

    レポ-トが1993年に発表されました。

    (Straits Times 1993.8.30)

    そのレポ-トには下記の5ケ所に

    慰安所があったと書かれています。

     ◎ブクム島  

      インドネシア人慰安婦がいて、

      汚れた身体で故郷に帰るよりは

      外国で死んだほうが良いと言っていた。

       注:ここはシンガポ-ル島から

         南方約5Kmにある島で、   

         海軍が使用していた可能性があります。

     ◎セント-サ島  

      現在は島全体がリゾ-トアイランドになっている。

     ◎ケーンヒル・ロード  

      現在ケーンヒルホテルが建っている一角に 

      有刺鉄線で囲まれた慰安所があった。 

      ここは多くが朝鮮人で、

      日本人のような服を着ていた。

     ◎タンジョン・カトン・ロ-ド

     ◎ブキャット・パソ-  

      現在の晋江会館が慰安所として使われていた。

     

    「インドネシア」

    インドネシアでも慰安所、強姦所・・・・等

    色々なタイプの性暴力が報告されています。

    他の例と同じで、

    慰安婦だった女性がなかなか

    名乗り出ないため長い間はっきりしませんでした。

    1992年7月、地元日刊紙「スワラ・ムルデカ」が、

    元慰安婦「トウミナ」さんの悲惨な経験を

    発表したのが初めてです。

    その後調査研究が進みました。

    1995年8月にマルディエムさんが

    日本の民間団体のフォ-ラムで初めて証言しました。

    地元のインドネシア兵補協会

    (現、ジョグジャカルタ法律扶助協会LBH)が

    全国134支部を通じて

    慰安婦被害者の登録作業をしていましたが、

    1996年3月に終了し、

    22,234人の登録を発表しました。

    もう亡くなった人もいるでしょうし、

    恥ずかしくて名乗り出ない人もいるでしょうから、

    実際には数倍の女性が被害にあったかもしれません。

    英国の都南アジア司令官の

    BC級裁判の犯罪捜査ファイルから少し見てみます。

     

    ● 1943年7月に

     ジャワのカリジャティ飛行場近くに慰安所が開設され、  

     常時15人の少女が日本兵の相手をさせられ、  

     毎週性病検査を受けていたが、

     病気になると新しい少女と入れ替えた。

    ● ジャリのマランで1943年11月に

     17歳から30歳までの沢山のユ-ラシアン、

     メナド、ジャワの女性たちが家から連行され、  

     医師の検査を受けてから

     スプレンディッドホテル、

     プレイスホテルやサマ-ンウェグの

     ヨ-ロッパ人の家に設けられた慰安所に入れられた。

    ● 1944年1月25日、

     マゲラン近くの民間人抑留所から

     16歳から20歳までの少女6人と、

     既婚女性7人が連行され  

     マゲランの慰安所に入れられた。

     

    最近発見された資料もあります。

    吉見義明氏と内海愛子氏が

    アメリカ公文書館や

    オ-ストラリア戦争記念館で収集したものです。

     

    その資料はオランダ軍情報機関・NEFIS

    (本部、オ-ストラリアのブリスベン)が

    作成した「NEFIS訊問報告」です。

    その中から日本軍慰安婦に関する部分を少し転用します。

     

    ● NEFIS訊問報告 1944年10月29日

       業者に地元女性の選別を認める

       許可証を憲兵隊が発行していた例

     1943年に、ソロ(中ジャワ)で、

     徴募された多くの村娘たちが、

     日本軍将校用として、

     ルッシェホテルにいるのが目撃された。

     ソロのある華人は、

     村長たちAssistant Wedanasを通じて村々から

     少女達を選別することを保証する許可証を

     憲兵隊から交付されていたと述べた。

     少女たちはゾロで1日1ギルダ-の仕事だと言われて、

     誘われたが、彼女たちは一旦そこに行くと

     2度と帰ってこなかった。・・・・ 

      (情報源:1944年5月から8月の間に。

      ビアク島、ヌムフォル島、他で米軍により

      解放された20名のジャワ人で、

      全員兵補だった)

    ● NEFIS訊問報告 1944年12月31日

       日本軍が慰安所に直接関与していた例

     50名の日本人女性が日本海軍の軍人、

     軍属専用慰安婦として、

     スバラヤ(東ジャワ)から船で運ばれてきた。

     彼女たちはチュン橋付近の長い低層の建物に

     住まわされていたが、

     この建物は民間人が入るのを阻止し、

     女性たちが逃げるのを防ぐため、

     鉄条網で囲まれ、海軍の警備兵がいた。

      (情報源:ニビシから マレ-人、

      15歳男性、沈没した日本船から生還)

    ● NEFIS訊問報告  1945年5月5日 

        拉致された例            

     1944年11月、テルナタ島占領後間もなく、

     日本人は売春を目的とする若い女性たちの

     集積・配分センタ-を作った。

     2つの大きな売春宿が作られ、

     メナド人、ジャワ人、華人、

     ユ-ラシアンを含む様々な人種の女性たちが、

     ハルマヘラ、アンポンやその他の地域へ送られた。

     地元の若い女性は強制的に徴集された。

     独身の女性だけがふさわしいとされた。

     

    川田文子氏はインドネシアにおける

    慰安所の形態を次の6つに分類しています。

     1. 人口の過密なジャワ島から他の島々に

      連行された女性が監禁された慰安所

     2. 日本軍駐屯地近くに住む女性たちが

      軍人に拉致されるなどして作られた慰安所

     3. 営外居住の将校らが女性を自分の宿舎に囲い、

      その将校官舎を慰安所として兼用した

     4. 日本の植民地であった朝鮮、台湾の

      女性が連行され監禁された慰安所

     5. オランダ人抑留所から

      若い女性が連行され監禁された慰安所

     6. インドネシア女性がフィリピン、ビルマ、

      シンガポ-ルなど他の国に連行され、

      監禁された慰安所

     

    アンポンに配属された将校、坂部康正の記録では、

    戦後インドネシアに残された

    日本人混血児は、

    30,000人と称せらると書かれています。

     

    インドネシアでは珍しくヨ-ロッパ人女性が

    慰安婦にされていますので、

    次の項目で単独に書きます。

     

    つづきを読む

  • 戦後賠償とゼネコン

    2020/07/27
    11:03

    1951年9月にアメリカとイギリスが中心になって

    日本を含む参加49ケ国(連合国)で

    サンフランシスコ講和条約が結ばれ、

    戦争の整理がされました。

    対日講和をめぐってはアメリカとイギリスの意見が

    なかなか一致しませんでした。

    アメリカは日本の戦争責任をあまり追及せず

    (損害賠償の請求権放棄)日本の早期独立を望んでしました。

    東西冷戦を睨んで日本の国力をあまり低下させずに

    アメリカ側に付かせるためでした。

    これに対してイギリスをはじめとする

    他の国は反対しました。

    中国の取扱に関しても

    アメリカは蒋介石の中華民国を支持し、

    イギリスは中華人民共和国を支持しました。

    その結果講和条約には、

    両方の中国、ビルマ、インド、ユ-ゴスラビアは参加せず、

    ソ連、チェコ、ポ-ランドは調印を拒否しました。

    特に一番迷惑を掛けた

    中国が招聘すらされなかった事は大きな問題でした。

    その後アジアの国々は

    日本との個別折衝で賠償交渉が始まりました。

     

    ●賠償等の対外支払い 28ケ国 単位 億円

    国名

    調印年

    賠償

    準賠償

    各種請求権

    合計

    ビルマ

    1955

    720

    612

     

    1,332

    スイス

    1955

      

    12

    12

    平和条約第16条

    1955

      

    45

    45

    タイ

    1955、62

     

    96

    54

    150

    デンマ-ク

    1955、59

      

    7.23

    7.23

    オランダ

    1955

      

    36

    36

    フィリピン

    1956

    1,980

      

    1980

    スペイン

    1957

      

    19.8

    19.8

    フランス

    2957

      

    16.728

    16.728

    スェ-デン

    1957

      

    5.05

    5.05

    インドネシア

    1958

    803.088

    636.876

     

    1,439.964

    ラオス

    1958

     

    10

     

    10

    カンボジア

    1959

     

    15

     

    15

    南ベトナム

    1959

    140.4

      

    140.4

    イタリア

    1959、72

      

    8.3305

    8.3305

    英国

    1960

      

    5

    5

    カナダ

    1961

      

    0.063

    0.063

    インド

    1963

      

    0.09

    0.09

    韓国

    1965

     

    1,080

     

    1,080

    ギリシャ

    1966

      

    0.5823

    0.5823

    オ-ストリア

    1966

      

    0.0601

    0.0601

    マレ-シア

    1967

     

    29.4

     

    29.4

    シンガポ-ル

    1967

     

    29.4

     

    29.4

    ミクロネシア

    1969

     

    18

     

    18

    北ベトナム

    1975

     

    85

     

    85

    ベトナム

    1976

     

    50

     

    50

    アルゼンチン

    1977

      

    0.8316

    0.8316

    モンゴル

    1977

     

    50

     

    50

        合  計

    3,643.488

    2,711.676

    210.7655

    6,565.9295

    注:1   支払いは短いもので4年 

        ミクロネシア、マレ-シア、シンガポ-ル

         長いもので20年 フィリピン

         2 準賠償とは無償資金供与のこと

         3 平和条約第16条とは、

         日本軍による捕虜虐待に関する補償のこと

         4 この他に政府や個人の在外資産の喪失や

         中間賠償(工場の機械撤去)があり、

        全部含めると1兆119億7311万円支払っています。

     

    このように賠償金額が決まりました。

    次にこのお金がどのように支払われたかですが、

    ほとんどが労務と資本財の提供つまり現物支給です。

    ダムや発電所です。

     

    具体的に見てみます。

    ◎ビルマ    バル-チャン発電所建設、

            鉄道計画、ラング-ン港復旧

    ◎フィリピン  マリキナ河多目的開発計画、

            カガアン渓谷鉄道、マニラ通信網整備

    ◎インドネシア 船舶10数隻、カリブランタス河開発計画、

            道路建設、鉄道網整備、通信網整備

    ◎南ベトナム  ダニム発電所建設と送電誠意

    ◎マレ-シア  外航貨物船 2隻

    ◎シンガポ-ル 造船所、通信基地

    ◎ミクロネシア 日本の生産物と役務の提供

      ミクロネシアは戦後アメリカが統治者になりました。

      1969年、日本とアメリカは現地の住民を無視して

      勝手にミクロネシア協定

      (太平洋諸島信託統治地域に関する

      日本国とアメリカ合衆国との間の協定)を

      結んでしまいました。

      日米は共同で見舞金として

      500万ドルを拠出するというものでした。

      それに対してその後アメリカ議会の

      ミクロネシア賠償請求委員会が受け付けた

      実際の請求額は25億ドル以上になりました。

     

    賠償は現物支給ですべて日本にお金は戻り、

    しかも何年にもわたる分割するという事は、

    ゼネコンを始めとする大企業にとっては

    安定した輸出市場が確保されたという事になります。

    朝鮮戦争の特需で高度成長のスタ-トを切った

    日本の大企業が安定成長を続けることが出来たのです。

     

    政官財一体、特に財界は

    国策専門のコンサルタント会社を通じて

    政官に働きかけて長期にわたる

    賠償計画を策定したのです。

    賠償が一段落すると大企業の成長を維持する為に

    ODA(政府開発援助)が計画されました。

    それに続いては

    公共事業と原子力発電事業が目玉になりました。

    日本の場合政官財の癒着がなかなか断ち切れないのは

    歴史的に仕方がないことなのかもしれません。

     

    ●現物支給賠償の工事は日本企業が行なっています。

     結局賠償金は日本の企業と政治家に戻ってきているのです。

     インドネシアと岸信介の賠償をめぐる

     お金の動きはその典型です。

     企業と政治が直接結びつくと

     癒着になるので全てのお金の動きは

     間にコンサルト会社が計画を立てます。

     いわゆる政策コンサルタントですが、

     鈴木宗男疑惑で登場した「日本工営」が

     戦後賠償で重要に位置にあったことは興味深いところです。

    注:日本工営は久保田豊が創立者で、

    水俣病で有名なチッソの創立者の野口遵と共に

    1924年年から朝鮮半島で活躍した政商です。

    当時衆議院外務委員会のベトナム賠償協定の質疑では

    「日本工営は私設賠償庁の観あり」と

    名指しされたくらい力があったそうです。

     

    賠償をアジアの国に対する謝罪だけではなく、

    日本の戦後復興に利用した事は国の公文書からも伺えます。

     

    ●「日本の賠償」  外務省賠償部監修  1963年

     ・・・・通常輸出困難なプラント類や、

     従来輸出されていなかった資本財を

     賠償で供与して「なじみ」を作り、

     将来の進出の基盤を築くことが、

     わが国にとって望ましいことである。

     ・・・・不況産業に対する特別の国内措置を要せずして、

     当該産業に対する救済策が実施されたこととなり、・・・・

     賠償が続いている間に、

     出来るだけこれを利用することが必要である。

     

    ●「昭和財政史-終戦から講和まで」大蔵省財政史室編 1984年

     ・・・・賠償協定の締結時期が遅くなった結果、

     高度成長期に入った日本は、

     大局的に見てさほど苦労せずに

     賠償を支払う事ができたのである。

     加えて、時期の遅れは復興した日本が東南アジアに

     経済的に進出する際の絶好の足がかりとして、

     賠償支払いや無償経済協力を

     利用するという効果をもたらした。

     

    そして現物支給ですから当然のことながら、

    現地政権の権力者の私腹を肥やすことはあっても、

    慰安婦、ロ-ムシャ、軍票・・・・

    犠牲になった個人への補償は一切されていません。

     

    2000年6月に日本政府の

    第15回外交文書公開が行なわれました。

    そこに戦後賠償と財界・政界の癒着の証拠が示されています。

     

    ●1958年に来日したインドネシアのスパンドリオ外相と

         岸信介の会談内容です。

     4月15日 岸信介 

      「・・・・船舶は木下商店が

      インドネシアの海運省と話し合っていると聞いている。

      出来るだけ要望に応じたい・・・・

     

    一国の首相が特定の商社の名前を出すのは異例の事です。

    この結果木下商店は9隻の受注を受け、

    中古の船をあてることで7~8億の利益を上げたとされています。

    恐らくその一部は政治資金として岸信介に戻ったものと思われます。

    注:木下商店は岸信介が戦前の

      商工省時代からの結びつきで、

    岸が戦後巣鴨拘置所に入っていた時には、

    留守家族の面倒を見ていました。

    1965年に三井物産に吸収されました。

     

    戦後賠償は、負けた国が勝った国の戦争費用を

    負担するというやり方が慣例として行なわれてきました。

    では日本が戦争に勝って

    賠償を取る立場の時はどうだったのでしょうか?

    明治時代、

    日清戦争に勝利して清国から取った賠償金は、

    2億3千万両になります。

    内訳は2億両が賠償、

    3千万両は日本が一旦取った遼東半島の返還金です。

    この金額はなんと当時の

    日本の国家予算の5年分だったといわれています。

    さらに、領土としては、

    台湾、沖縄、澎湖諸島を獲得しています。

    払う時にはゼネコン絡みの現物支給で、

    取る時には泥棒のようにむしりとっている事が分かります。

     注:戦後賠償は肝心の中国に対しては、

       中国が請求をしなかったため払っていません。

     

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  • インドネシア占領と大量動員

    2020/07/23
    11:04

    インドネシアは非常に広大な面積です。

    ジャワ島を中心にスマトラ、ボルネオ、セレベス、

    チモ-ルその他多くの島々と民族で成り立っています。

    そのほとんどがオランダ領で

    石油、ボ-キサイト、ニッケル、マンガン等の産地でした。

    日本はこれらの資源を「重要国防資源」として

    獲得するための一環としてインドネシアを占領したのです。

     

    1941年(昭和16年)11月18日、

    岩国にある海軍航空隊で、

    寺内寿一陸軍大臣と山本五十六海軍大臣、

    その他両軍の作戦関係司令官や幕僚が参加して、

    南方作戦に関する陸海軍協定が交わされ、

    協定は「占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定」

    (昭和16年11月26日決定)として同日陸軍大学校にて調印されました。

    まだ開戦前の事です。

     

    1941年12月に攻撃を開始した日本軍は

    次々とインドネシアの各島々を占領していきました。

    オランダ軍は1942年3月4日、

    バタビア(ジャカルタ)から撤退し、

    日本軍は協定によって陸軍がジャワとスマトラ、

    海軍がボルネオと東インドネシア地域の占領地統治を始めました。

     

    第16軍が3月1日に55,000でジャワ島に上陸を開始し、

    軍政が3月7日から始まりました。

     

    ●軍政の簡単な分担

     ・ スマトラは陸軍第25軍

     ・ ジャワは陸軍第16軍

     ・ その他の島は海軍の統治

     ・ 軍政の長官は軍司令官か艦隊司令長官がなり、

       全ての命令を出す権限を持っていました。

       各地の占領地には司令部があり、

       その中に軍政部(後に軍政監部)が置かれました。

       軍政監には軍・艦隊の参謀長がなりました。

     

    1942年12月8日、

    バタビアはジャカルタと改名されました。

    日本軍は侵攻作戦の途中で放送を通じて

    「日本はオランダの支配からインドネシア民族を

    解放するために戦う」と宣伝し、

    オランダ時代には禁止されていた

    民族歌(インドネシアラヤ)を流し

    民族意識を高揚させました。

    また民族旗(現在の国旗)も沢山準備しました。

    そのためオランダの植民地だったインドネシアの人々は、

    最初は日本を解放者として歓迎、信じました。

    日本に期待したインドネシアの人々は

    すぐにでも独立できるものと錯覚し、

    新政府の閣僚名簿まで作成して発表した新聞もありました。

     

    ●チャハヤ・ティム-ル紙 1942年3月13日

    首相   アビクスノ・チョクロスヨソ

    副首相  スカルノ

    外務大臣 スジョノ

     

    しかし日本軍は占領を完了すると次々と布告を出し、

    逆に全ての政党を解散させ、民族旗や民族歌を禁止し、

    日の丸や君が代を強制したため

    住民からの信頼は失われていきました。

     

    ●布告第1号 1942年3月7日 原文カナ

    第1条 

     大日本軍は同族同祖たる東印度民衆の

     福祉増進を図ると共に大東亜共同防衛の原則に準拠し

     現地住民と共に共存共栄を確保せんことを期し、

     差し当たり東印度の治安を確立し

     民衆をして速やかに安住楽業せしめんが為に

     東印度占領地域内に軍政を施行す

    第2条 

     大日本軍司令官は総督の職権を行使す

    第3条 

     占領地に於ける在来の行政諸機関、其職域権限

     及び諸法令の規定は軍政施行のため特に障害たらざる限り、

     差し当たり引き続き有効とす

    第4条 

     官民は大日本軍及び大日本官憲の命令を遵守すべし

     

    黄色線のところをみると、

    布告第1号ではまだ住民を尊重しているように見えますが、

    その後は矢継ぎ早に厳しい布告が出されるようになります。

     

    ●布告第2号  1942年3月8日

     結社・集会の禁止

    ●布告第3号及び布告第4号  1942年3月20日

     政治的な言論・言語・言動示唆・宣伝活動の禁止

     祝日等には日本国旗のみを掲揚する

    ●布告第16号  1942年5月25日

     言論・出版機関の自由な活動の禁止

     

    1943年5月の御前会議で

    ジャワ・スマトラ・セレベス・マライ・ボルネオは

    帝国領土にする事が決定されました。

    結局は独立させる気はなかったのです。

    スマトラから石油が供給され、

    ジャワからは米が日本に供給されるようになりました。

     

    ●米の供給

     米を日本に供給するためには、

     耕作面積の拡大が絶対命令でした。

     その為にジャワの森林が15,000ヘクタ-ルも

     伐採されたといわれています。

     それらの工事に多くの労務者が連行されました。

     1943年から米の強制供出が徹底され、

     30%を日本軍政監部に供出し、残りの30%は備蓄、

     残った米がジャワの人々の生活に回されました。

     しかしこれはあくまでも日本軍が発表した数字で、

     実際には大部分が軍に取られたという証言もあります。

     

    このように日本軍は民衆の活動を厳しく制限した上で、

    戦争協力の為に最大限に動員する政策をとりました。

     

    ●三亜(三A)運動

    占領直後最初の大衆運動で、三亜運動又は三A運動と呼ばれました。

     三亜とは  アジアの光日本!

             アジアの保護者日本!

          アジアの指導者日本!

    この運動はサムスディンというインドネシア人を

    表面的に立てていましたが、

    推進母体は日本陸軍の宣伝部でした。

     ☆宣伝部に所属した日本の文化人たち

      大宅壮一、阿部知二、横山隆一、

      武田麟太郎、松井翠声、北原武夫・・・・

     ☆大宅壮一氏は、大邸宅を接収して

      高級慰安所を2ケ所経営していたそうです。

      白馬会-オランダ系女性を置いた

      黒馬会-インドネシア系女性を置いた

     

    この運動では、凡ての住民に毎朝、

    皇居の方向に向かって身体を90度曲げて最敬礼し、

    天皇に敬意を表す事が義務付けられました。

     

    ●プ-トラ(住民総力結集運動)

    三亜運動は露骨に日本中心過ぎたため

    住民の共感をあまり得られませんでした。

    そのため次にインドネシア人の民族主義者を

    全面に出して大衆運動を組織する事にしました。

    1943年3月9日、

    ジャワ占領1周年記念日にプ-トラは組織されました。

    日本軍に協力させられた民族主義者は

    通称四葉のクロ-バ-と言われました。

    メンバ-はスカルノ、デワントロ、ハッタ、マンス-ルの4人で、

    プ-トラの会長にはスカルノが、

    副会長に他の3人が就任しました。

     

    日本軍は民族主義者をうまく利用しようとし、

    民族主義者は将来の独立のために日本を利用しようとし、

    うまく行く筈でしたが結局は成功しませんでした。

     

    ●ジャワ奉公会

    今度は日本人、混血民族、華僑、

    その他全住民を対象にした組織が出来ました。

    日本の大政翼賛会、満州の協和会、

    中国の新民会を真似して作った組織です。

    軍政監が総裁に、スカルノが中央本部長に就任し、

    日本からは大政翼賛会、国防婦人会、

    新民会等の指導者が職員に任命されました。

     ☆ジャワ奉公会の規約

    1  軍政奉仕の率先実施

    2  万民親和による軍政奉仕の指導

    3  防衛強化

    4  戦時生活態度強化

    5  人民救護補導

    6  他

     

    日本軍はジャワ奉公会を中心に

    「隣組」「婦人会」「青年道場」「青年団」「警防団」等を

    組織して大量動員を行ないました。

    その後、1943年10月には兵補(後述)、

    さらにより軍事的なペタ(ジャワ防衛義勇軍)が作られました。

    このペタは純然たる軍事組織で、

    終戦までに38,000人以上の人数になったといわれています。

    これらの組織の中でペタのような軍事的組織が

    戦後すぐのインドネシア独立の中心になったため、

    日本人の中にはインドネシア独立は

    日本のおかげだと主張する人がいますが、

    単にたまたまそうなっただけであって、

    インドネシアの人々が日本に支配されながらも

    独立のチャンスを狙っていたとするのが妥当だと思います。

     

    ●イディン・ワンサ・ウイジャヤの証言  1986年3月12日

    ・・・・多くの青年がセイネンダン、

    ヘイホそしてケイボウダンなどに入りましたが、

    そのことは私たちが親日だったということを

    意味しないと確信します。

    私たちはうわべだけ親日だったのです。・・・・

    ですから、日本に何か功績があるとすれば、

    彼らを軍隊式に鍛えただけです。

     

    大量動員ではさらに豊富な労働力を

    労務者(ロ-ムシャ)として強制労働に狩り立てたり、

    軍隊の補助として兵補にしました。

     

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  • アジア女性基金・インドネシア

    2020/07/08
    11:02

    日本とインドネシアの間には1958年に平和条約と賠償協定が結ばれ、

    賠償と請求権問題は一応解決したことになっています。

    1992年に慰安婦問題が注目を集め証言者が出始めました。

    法律扶助協会や元兵補連絡フォーラムなどが登録を始めました。

    日本と協議の上インドネシア政府は見解を発表しました。

     

    ●インドネシア政府の見解  1996年11月14日

     「慰安婦」問題はインドネシア民族にとって

     その歴史の中で忘れ難い暗い側面であり、

     将来繰り返されることのないよう注意を払い、教訓とする必要がある。

     また、この暴力の犠牲となった女性の

     終わることのない精神的かつ肉体的な苦渋、痛みを理解している。

     しかしながら、パンチャシラ哲学を有する民族として、

     感情的要素が強い措置及び施策に向わないように、

     また犠牲となられた女性の方々及びご家族等の名誉を守ることに尽力している。

     インドネシア政府は、1958年に締結された

     「日本国とインドネシア共和国との間の平和条約」と

     「日本国とインドネシア共和国との間の賠償協定」によって

     日本政府との賠償並びに財産及び請求権の問題は解決済みとの認識である。

     アジア女性基金がインドネシアにおいて行う

     「慰安婦」問題に関わる事業・援助は

     インドネシア政府(特に社会省)を通じて行われるべきであり、

     他の組織や個人を通じて行われることはない。

     

    この結果1996年12月に、基金派遣の役員との話し合いの結果

    「高齢者福祉施設」整備事業等への支援を行うこととしました。

    1997年3月21日、橋本総理大臣はスハルト大統領におわびの手紙をおくり、

    総額3億8000万の支援が始まりました

    インドネシアの慰安婦や支援団体はこのことに反対し

    被害者個人に事業をして欲しいと要求しましたが受け入れられず、

    結局慰安婦が優先的に入居できる施設が数ヶ所出来ました。

    2007年1月事業は完了しました。

     

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