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キーワード「ハ-グ条約」を含む投稿一覧

  • 捕虜や民間人に対する日本軍の対応

    2020/09/20
    11:59

    直接戦闘に関係のない民間人を殺害する事は、

    法があろうがなかろうがいつの時代でも犯罪です。

    では捕虜の場合はどうかということになります。

    前にも書きましたが、

    1902年に第2回平和会議で改定された

    「陸戦の法規慣例に関する条約」

    いわゆるハ-グ条約では

    捕虜に人道的処遇をする事を定めています。

    日本は1912年に条約に批准していますから

    当然守る義務があります。

    事実日露戦争や第一次世界大戦では

    守る努力をしています。

    しかし日清戦争では

    余り守られていませんでした。

    これはアジア人に対する

    蔑視があったように思われます。

    それでは満州事変以降の戦争は

    どうだったのでしょうか?

    1932年の第一次上海事件(南京戦の5年前)の時

    日本軍は中国の便衣兵の攻撃に

    悩ませられていました。

    恐怖にかられた在留邦人は

    自警団を組織し便衣兵狩りをし、

    一般の中国人まで虐殺した報告があります。

     

    ◎海軍の戦史(原文カナ)

     長期の排日・抗日に因りて

     激昂動揺せる在留邦人は、

     更に便衣隊に対する不安の為に

     益々平静を失い、遂に恐慌状態となり、

     流言頻々として底止する処を知らず、

     初め自警団を組織して

     便衣隊に備えたりしが、

     その行為常軌を失し、

     便衣隊以外の支那人をも

     之を惨殺するの傾向を現出し、

     且陸戦隊にありても、

     居留民の言を信じて

     過たる処分を行うものを生じた

     

    ◎上海の重光葵公使から

       外務大臣宛の電報 

       1932年2月2日(原文カナ)

     29日事件当初海軍側は手薄のため

     在郷軍人団及び一時青年団又は

     自警団を閘北占領地内の

     治安維持に用いたる行懸もあり

     彼等の行動は便衣隊に対する

     恐怖及び憎悪と共に恰も大地震

     (注:関東大震災の事)当時の

     自警団の朝鮮人に対する態度と

     同様なるものあり、

     支那人にして便衣隊の嫌疑を以て

     処刑(殺戮)せられたる既に数百に達せる・・・・

     

    このため上海の海軍や陸軍は

    「便衣隊や容疑者は憲兵隊又は警察で調査」をするように、

    きちんと対処する命令を出しています。

    このような前例があるのに、

    その後の第二次上海事変から南京事件の期間は

    憲兵隊や警察に送致することなく

    便衣兵らしきものを殺害したのです。

     

    日本軍は、戦争だと国際条約を守らなければ

    いけないので、

    大本営は戦争と呼ばずに事変と呼びました。

    満州事変、上海事変、支那事変などです。

    つまり戦争でないから国際法に制約されない。

    捕虜も人道的処遇する必要もないし、

    収容所も作らなくてもよいという解釈です。

    前にも述べたように日本軍には

    基本的な問題があった上に、

    国際条約を守らないのですから、

    民間人や捕虜の殺害が起きたのは

    必然的なことでした。

     

    ◎交戦法規の適用に関する件  

        陸支密第198号支那駐屯軍参謀長宛

        陸軍次官通牒

        1937年8月5日  (原文カナ)

     現下の情勢に於いて帝国は

     対支全面戦争を為しあらざるを以って

     「陸戦の法規慣例に関する条約その他

     交戦法規に関する諸条約」の具体的事項を

     ことごとく適用して行動することは適当ならず。

     ・・・・日支全面戦争を相手側に先んじて

     決心せりと見らるる如き言動

     (例えば戦利品、俘虜等の名称の使用)は

     努めて避けよ・・・

      注:中国と全面戦争ではないのだから、

        国際法を守る事は適当ではない    

        日本から戦争を仕掛けたと

        思われないようにし、

        戦利品とか捕虜等の言葉も使うな

     

    1933年に陸軍歩兵学校教官の

    氷見大佐の研究をもとに刊行された

    「対支那軍戦闘法の研究」の

    「捕虜の処置」には中国人への蔑視が見られます。

     

    ◎対正規軍戦闘法の研究・その六捕虜の取扱   

             1933年1月(原文カナ)

     捕虜は他列国人に対する如く

     必ずしも之を後送監禁して戦局を待つを要せず、

     特別の場合のほか、

     之を現地又は他の地方に釈放して可なり。

     支那人は戸籍法完全ならざるのみならず

     特に兵員は浮浪者多く、

     その存在を確認せられある者少なきを以って

     仮に之を殺害又は他の地方に放つも

     世間的に問題となる事なし・・・・

    黄色線注 

     欧米諸国とは別の処遇をしても良い        

     仮に捕虜を殺害しても世間的には問題にならない        

     他の場所に連行して強制労働が出来る

     

    軍だけではなく民間人も

    中国軍に対する差別感はありました。

    中国に対して相当の理解を示していた

    東亜同文会でさえそうでした。

     

    ◎東亜同文会「支那年鑑」1935年版

     その実質は依然として傭兵、

     軍閥の私兵と見て何等差し支えない。

     従って表面的には約200万以上の兵力を有し、

     かつその編成及び装備も

     完成せるごとく見ゆるも、

     その本質にいたっては、

     今尚3000年以前の春秋戦国の軍隊と

     何等異なるところがない。

     元来支那下層民は無学無知懶惰にして、

     糊口に窮する者は多く

     募兵に応ずるをもって

     立身に対する唯一の道とし・・・・

     

    このように馬鹿にしていた

    中国の軍隊でしたが、

    実際には日本軍の方の軍紀が乱れて、

    中国軍のほうが強く、

    しかも規律がきちんとしていたと言う

    報告もあります。

     

    ◎教育総監部第二課長 鈴木宗作大佐の報告(原文カナ)

       教育総監部「日支事変の教訓 第二号」1938年

     支那軍は予想に反し

     著しく頑強性を発揮したりと見るを

     妥当とする部面を有し

     或る意味においてはむしろ

     我が軍に比べ優越しありと

     見るべきものまた少なしとせず

     

    ◎遠藤三郎 野戦重砲兵第5連隊長(原文カナ))

       教育総監部「日支事変の教訓 第二号」1938年

     軍紀の刷新につきましては

     上下共に一段の努力を要するものと

     痛感いたしました。

     いわんや本次作戦の目的を考えるとき

     支那民族に与える悪影響を思えば

     冷や汗三斗の思いが致すのであります。

     不軍紀の代表の様に思った支那軍は

     案外軍紀が厳粛に保たれて居った様に

     見受けました。

     

    中国から帰還した兵士が

    現地の実情を日本国内で

    あまり言いふらすと困るため、

    1939年2月に陸軍次官は

    各部隊に通牒を出しています。

    その中の軍隊・軍人の状況には

    帰還兵の露骨な言動の例が示されています。

    ◎支那事変地より帰還する軍隊及軍人の

       言論指導取締に関する件 (原文カナ)

     ☆○○で親子4人を捕らえ、

      娘は女郎同様にもてあそんでいたが、 

      親があまり娘を返せと言うので親は殺し、 

      残る娘は部隊出発まで

      相変わらずもてあそんで、

      出発間際に殺してしまう

     ☆ある中隊長は、「あまり問題が起こらぬ様に

      金をやるか、又は用を済ました後は

      分からぬ様に殺して置くようにしろ」と

      暗に強姦を教えていた

     ☆戦争に参加した軍人を一々調べたら、

      皆殺人・強盗・強姦の犯人ばかりだろう

     ☆戦地では強姦位は何とも思わぬ。

      現行犯を憲兵に発見せられ、

      発砲して抵抗した奴もある

     ☆約半年にわたる戦闘中に覚えたのは

      強姦と強盗位のものだ

     

    日本軍兵士のあまりのひどさに困った

    軍中央は兵士の心得を発行しました。

    兵士の心得は第一号から第三号まで出ていますが、

    まず南京戦直後の第一号です。(原文カナ)

    ◎[従軍兵士の心得 第一号]

    1938年8月 

    大本営陸軍部第一課長(教育課長)遠藤三郎大佐

     戦地における敵意なき支那民衆を愛燐せよ

     無辜の民を苦しめず弱者を憐むのは

     わが大和民族古来の美風である。

     いわんや今次の聖戦は

     支那民衆を敵としているのではない。

     抗日容共の国民政府を撃破して

     無辜の支那民衆を救うのが目的である。

     彼らをして皇恩に浴し得るように

     してやらねばならぬ。

     万一にも理由なく彼らを苦しめ

     虐げる様なことがあってはいけない。

     武器を捨てて投降した

     捕虜に対しても同様である。

     特に婦女を姦し資財を掠め或いは

     民家をいわれもなしに焼くが如きことは

     絶対に避けねばならぬ。

     かくのごとき行為は野蛮民族として

     列強の嗤いを買うばかりではなく

     彼ら支那民衆より未来永劫までも

     恨みを受け、仮に戦闘に勝っても

     聖戦の目的は達し得ぬこととなる。

     「掠奪強姦勝手次第」などどいう言葉は

     「兵は凶器なり」と称する

     外国の軍ではいざ知らず、

     神国であり神武である皇国の軍では

     絶対にあり得ぬことである。

     万一にもかくの如き行為を

     なすものがあったならば、

     之れ不忠の臣である。

     国賊として排除せねばならぬ。

     (中略) 

     またいわれもなく無闇に誤れる優越感を

     振り廻してはいけない。

     彼らといえども民族としての誇りがあろう、

     否彼らは特に面子を重んずる国民であるから、

     やたらに威張りちらしたのでは

     彼らを服従させることは出来ない。

     よろしく彼らの人格を尊重し

     これを愛護するの大国民的大度量をもって

     彼らに自然に我々に兄事師事し

     遂に求めずして心から服する様

     親切に導くことが必要である(攻略)

     

    このような心得をこの時期に

    あえて出したのは、

    南京の状態は目を覆うばかりの

    ひどさであった良い証拠です。

    それでも南京の惨状は収まらず、

    11月には第二号、翌年の3月には

    第三号が出されているのです。

     

    ◎従軍兵士の心得 第二号 1938年11月      

     彼の掠奪強盗の如き

     私利私欲の為の行為は

     啻に皇軍軍人として

     軍紀風紀上許されぬばかりではなく

     其の結果は皇軍全般が

     又我が国全体が対手国の民衆より

     永遠の恨みを買うこととなり

     縦い戦闘には勝っても終局に於て

     戦争には負けとなるのであって

     実に重大なる問題である・・・・

     左に戦場に於て起こり易い

     犯罪・非違並に刑懲罰に関して

     若干の説明を試みることとする。

    ●上官に対する罪

    ●掠奪の罪

    ●衛兵勤務に関する罪

    ●逃亡の罪

    ●軍用物資損壊の罪

    ●造言飛語の罪

     ・・・・戦場に於ける強姦は

     其の地の住民に対して為される場合が多い

     兵威に怖れ殆んど無抵抗の状態に在る為

     一種の征服感更に猟奇心等に駆られ

     殆んど常識では信ぜられぬ様な

     姦淫行為を平然と行って憚らぬ様な

     不心得者が絶無とは云い得ぬ様に思われる・・・・

     凡そ住民に対するこの種の行為は

     啻に野蛮人として

     列強の嗤いを買うばかりでなく

     住民よりは未来永劫迄も恨みを受け、

     皇軍の百の宣撫も滅茶苦茶となり

     国策遂行上大なる障碍をなすことは

     今更云う迄もないことであり・・・・

     

     

     

     

     

    つづきを読む

  • 第二次上海事変から全面戦へと拡大 2

    2020/09/07
    11:59

    日本軍による南京政府攻撃が決まったことから、

    在南京の日本大使館館員や日本人居留民は

    下関(シャ-カン)から船、列車を

    乗り継いで青島に避難しました。

    引き上げる日本人に対して、

    中国人から危害が加えられないようにと

    国民政府は特別列車を用意し、

    40名の護衛用の憲兵や2人の外交部の係官まで

    随行させて丁重に扱っています。

    青島に着くまでの停車駅でも

    厳重な保護を与えています。

     注:もし立場が逆で日本だったら、

       またその後の南京での日本軍の暴行を考えると、     

       国民政府がきちんとした

       紳士的な政権だった事が分かります。

     

    ◎証言 庄司得二「南京日本居留民誌」から 1940年

     停車場構内の柵外には黒山のような人集まり、

     列車をさして何事か語り合いおるも

     ホ-ム内には人影なし。

     停車すると同時に護衛の憲兵ただちに

     列車の外側に並列し柵内を警戒しおる

     巡捕にて二重の警戒線を張り、

     列車付近に一人として群集を寄せつけず、

     厳重警戒をしおれり。

     その後停車のたびごとに注意しおりたるに、

     いかなる小駅にても同様にて、

     実に行き届きあれり

     

    ● 8月17日 

     近衛内閣は不拡大方針を

     次のように変更する決定をした。

     1. 従来執り来たれる不拡大方針を抛棄し、

      戦時態勢上必要なる諸般の準備対策を講ず

     2. 拡大せる事態に対する経費支出の為、

      来9月3日頃臨時議会を召集す

     

    この頃陸軍では中国での戦争を

    拡大するのかしないのかの

    意見が分かれていました。

    不拡大派の石原莞爾作戦部長は

    対ソ連を目標にした軍備拡張のため、

    中国とはあまり深入りしないほうが良いと主張していた

    ◎石原莞爾中将回応答録から

     然るに責任者の中には

     満州事変があっさり推移したのと同様、 

     支那事変も片付け得るという

     通念をもつものもいました。・・・・

     事変がはじまると間もなく傍受電により

     孔祥肌煕は数千万ドルの

     武器注文をどしどしやるのを見て、

     私は益々支那の抵抗、決意の

     容易ならざるを察知いたしました。

     即ちこの際、戦争になれば

     私は之は行くところまで行くと考えたので、

     極力戦争を避けたいと思い、

     又向こうも避けたい考えであったようです。

     さらに今日のようになったのは真に残念であり、

     又非常なる責任を感ずる次第であります。

    ◎同じ石原莞爾中将回応答録から

     今次の上海出兵は海軍が

     引きずって行ったものといっても

     差し支えないと思う・・・・

     私は上海に絶対に出兵したくなかったが

     実は前に例ががある・・・・

     

    拡大派には、杉山元陸相、田中新一軍事課長、

    武藤章作戦課長、永野佐比重支那課長などがいて、

    中国軍の実力を軽視し、

    断固として一撃を加えれば

    早く終わると主張していました。

    石原莞爾が言う海軍との間に結ばれた協定は

    1937年7月11日の「北支作戦に関する陸海軍協定」で、

    その中に帝国居留民の保護を

    要する場合においては、

    青島および上海付近に限定して

    陸海軍の協力することがきめられていました。

     

    そして近衛首相も広田弘毅外相も

    拡大派に同調していたため

    上海事変は拡大していきました。

     

    ところで、戦争ではなく事変と呼んでいますが、

    事変とは戦争ではない小さな揉め事です。

    この時期の戦争を全て事変とした理由は

     1.  簡単に中国軍にを打撃を与えて

      早く終わると思っていた

     2.  正式に宣戦布告をする大義名分がなかった

     3. 石油、鉄をはじめ多くの物資を

      アメリカから輸入していたため、

      小競り合いだという名目にしておきたかった

     4.  ハ-グの陸戦に関する条約を逃れるため

     

    そして軍としては戦争としないで事変として

    ハ-グ条約を逃れることになりました。

     

    ● 8月5日の陸軍次官通牒「陸支密第198号 

       交戦法規の適用に関する件」(原文カナ)

     現下の情勢に於いて帝国は

     対支全面戦争を為しあらざるを以って

     「陸戦の法規慣例に関する条約

     其の他交戦法規に関する諸条約」の具体的事項を

     悉く適用して行動することは適当ならず

    注:都合が悪いからハ-グ条約などは

      守らないようにするということです。

     

    さらにその後、

    11月に外務、陸軍、海軍の3省で

    宣戦布告の利害得失を検討して、

    布告しての正式戦争はマイナスが多いと

    判断されました。

     

    天皇の意思としては

    青島にも不穏な動きがあることから、

    戦線を拡大しないで(事変のまま)

    上海、青島を重点的に打撃を与えて

    早く終わらせたかったようです。

     

    ● 8月18日 

     天皇の「御下問」  

       軍令部総長、参謀総長(閑院宮)宛て(原文カナ)

     戦局漸次拡大し上海の事態も

     重大となれるが青島も不穏の形勢に在る由   

     斯くの如くにして諸方に兵を用ふとも

     戦局は永引くのみなり   

     重点に兵を集め大打撃を加えたる上にて

     我の公明なる態度を以て   

     和平に導き速に時局を収拾するの方策なきや   

     即ち支那をして反省せしむるの方途なきや

     

    このように天皇や軍中央は

    上海に限定された作戦のはずだったのですが、

    上海派遣軍の松井石根大将は

    内心南京まで行くつもりだったので、

    8月18日の送別会で不満を表明し、

    参謀本部から注意されています。

     

    ◎参謀本部総務部長中島鉄蔵少将から

     上海派遣軍飯沼守少将への注意(飯沼守日記から) 

     作戦命令も勅語も手続きは同様にて、

     作戦命令も勅語と同様のものにて、 

     これを批判するごときは不謹慎なれば、

     よく言うておいてくれ

     

    それでも松井はその後も不満を漏らしています。

    ◎参謀本部首脳との会合での発言

     国民政府存在する限り解決できず・・・・

     蒋介石下野、国民政府没落せざるべからず・・・・

     結末をどこにすべきやの議論あるも、

     だいたい南京を目標として

     このさい断固として敢行すべし、 

     その方法はだいたい5~6師団とし、

     宣戦布告して堂々とやるを可とす・・・・

     

    ● 8月23日 

     第3、第11師団は呉淞鎭南方、

     第11師団は揚子江の川沙鎭付近に

     強行上陸をしました。

     それでもかなりの苦戦をしたため

     青島用に待機していた天谷支隊が9月1日に、 

     台湾守備隊中心の重藤支隊が9月7日に上陸しました。

     

    それでも圧倒的な兵力の不足は

    予想されていたので、

    8月21日陸海軍の統帥部は検討の上

    2つの案を天皇に奉答しました。

    ◎上奏内容

    1.航空兵力で敵の軍事施設、軍需工業中心地、政治中心地等を爆撃して

     敵国軍隊および国民の戦意を喪失させる

    2.華北で北京、天津地方を占領し、上海を確保し、中国沿岸を封鎖する

    天皇としてはそれよりも兵力不足が問題だとしてまずは増兵を望んでいたようです。

    ◎昭和天皇独白禄・寺崎英成御用掛日記 より

     当時上海の我兵力は甚だ手薄であった。

     ソ連を怖れて兵力を上海に割くことを嫌っていたのだ

     2ケ師団の兵力では

     上海は悲惨な目に遭うと思ったので、

     私は盛んに兵力の増加を督促したが、

     石原はやはりソ連を怖れて満足な兵力を送らぬ・・・・

     

    天皇は再三増兵を督促していました。

    9月6日参謀総長を召して再度意思を伝えました。

    直ちに参謀本部は検討し、同日午後参内し

    天皇に「上海に第9、第13、第101師団及び

    台湾守備隊を増派することに内定」と上奏しました。

    整理すると、

     

    ●8月25日 

     首相・陸相・海相・外相の4相会議で、   

     宣戦布告はしないが、

     それに変わる勅語を出すことが決定された。

    ●9月2日   

     閣議で「北支事変」の呼称を

     「支那事変」に変えることが決定され、     

     全面的な日中戦争になった

     

    ●9月4日   

     第72臨時議会開院式で

     昭和天皇の勅語が発表された。

     (勅語)

      中華民国深く帝国の真意を解せず、

      みだりに事をかまえ、

      ついに今次の事変を見るにいたる。

      朕これを憾とす。

      今や朕が軍人は百艱を排して

      その忠勇をいたしつつあり、

      これ一に中華民国の反省を促し

      すみやかに東亜の平和を

      確立せんとするにほかならず。

      朕は帝国臣民が今日の時局に鑑み、

      忠誠公に奉じ、和協心を一にして

      賛襄もって所期の目的を達成せんことを望む

     

     

    ● 同日    

     杉山陸軍大臣は既に全面戦争であるとの

     訓示を出した。(現代文に要約)

     (訓示)

      ・・・・今回の事変はその原因は

      南京政府の従来からの国策から生じたものである。

      すなわち抗日排日がこのところ

      顕著になりそれに容共政策が加わって

      激成したものである。

      これは過去我が帝国が経験したこととは

      全く異なるものである。

      すでに全面戦争に移行したことを

      深く覚悟しなければならない・・・・             

     注:国家としては事変であると言いながら

       陸軍大臣は全面戦争であると訓示

     

    ●9月5日  

     前日から始まった臨時議会で

     近衛首相は次のような施政方針演説をおこなった。

     ◎演説 

      今日このさい、帝国として採るべき手段は、 

      できるだけすみやかに支那軍に対して

      徹底的に打撃を加え、 

      彼をして戦意を喪失せしめる

      以外にないのであります。 

      かくしてなお支那が容易に反省をいたさず、 

      あくまで執拗なる抵抗を続ける場合には、 

      帝国としては長期にわたる戦いも

      もちろん辞するものではないのであります。 

      惟うに東洋平和の確立の大使命を

      達成するがためには、 

      なお前途に幾多の多難が

      横たわっているのでありまして、 

      この難関を突破するためには、 

      上下一致堅忍持久の精神をもって

      邁進するの覚悟を要すると

      思うのであります。・・・・

     

    ● 9月6日   

     天皇は参謀総長を召して

     再度増兵の意思を伝えた。

     

    ● 9月7日   

     拡大派武藤章作戦課長を中心に

     大部隊の上海派遣が決定された。

     

    ● 9月11日 

     上海に5ケ師団の派兵遣が決定し、

     石原莞爾は辞任を決めた。

     

    ● 9月23日 

     石原は退陣し後任に

     下村定少将が就任しました。

     

    ● 9月28日 

     増派に反対していた石原莞爾は

     更迭される形で関東軍参謀副長になり、   

     石原は「ついに追い出されたよ」の

     言葉を残して満洲に去って行ったのです。

     

     

    つづきを読む

  • 日本軍の捕虜政策

    2020/07/25
    17:33

    泰緬鉄道、バタ-ン半島、サンダカン・・・・

    昭和に入ってからの日本軍は

    捕虜にかなりの虐待行為をしています。

    それ以前の戦争では日本軍は

    どの様に捕虜を扱ったのでしょうか?

    各戦争の宣戦布告を天皇の詔勅や勅令、

    その他から見てみます。

    原文は全てカナです。

     

    ●日清戦争

    ◎宣戦の詔勅    明治27年(1894年)8月1日

     ・・・・朕茲に清国に対して戦を宣す

     朕が百僚有司は宜く朕が意を体し

     陸上に海面に清国に対して

     交戦の事に従ひ以て国家の目的を

     達するに努力すへし

     苟も国際法に戻らざる限り各々権能に応じて

     一切の手段を尽くすに於て

     必ず遺漏なからむことを期せよ

    以下省略

    内閣総理大臣 伯爵伊藤博文

    遞信大臣   伯爵黒田清隆

    海軍大臣   伯爵西郷従道

    内務大臣   伯爵井上馨

    陸軍大臣   伯爵大山巌

    農商務大臣  子爵榎本武揚

    以下省略

     

    ●帝国内に居住する清国臣民に関する勅令  

       明治27年(1894年)8月5日

     帝国内に居住する清国臣民は・・・・

     帝国内従来居住を許されたる場所に於いて

     身体財産の保護を受け、

     向後も引き続き居住し、

     且つその地に於いて

     平和適法の職業に従事する事を得・・・・

    注:このように天皇としては、

      国際法を守り中国人を

      保護するような考えを示しています。

      事実この戦争で、

      清国兵1,970人を捕虜にしましたが、

      再び日本軍を相手にして

      武器を取らないと宣誓させて

      全員釈放しています。

     

    ●日露戦争

    ◎宣戦の詔勅 明治37年(1904年)2月10日

     朕茲に露国に対して戦を宣す

     朕が陸海軍は宜しく全力を極めて

     露国と交戦の事に従うべく

     朕が百僚有司は宜く各々

     其の職務に率ひ其の権能に応じて

     国家の目的を達するに努力すべし

     凡そ国際条規の範囲に於て

     一切の手段を尽くし

     遺算なからしむことを期せよ・・・・

    以下省略

    内閣総理大臣兼

    内務大臣   伯爵桂太郎

    海軍大臣   男爵山本権兵衛

    農商務大臣  男爵清浦奎吾

    大蔵大臣   男爵曽禰荒助

    外務大臣   男爵小村寿太郎

    陸軍大臣   寺内正毅

    以下省略

    注:日清戦争と同様に

      国際法を守る事が書かれています。

      大本営に法学者が出向き、

      日清戦争の時よりさらに

      国際法を守ろうとしています。

      陸軍の俘虜取扱規則では

      「俘虜は博愛の心をもって之を取扱い

      決して侮辱虐待を加ふべからず」と書いてあります。

      ロシア兵の捕虜は79,367人でしたが、

      日本軍の倍の給料を払って優遇し、

      戦後全員送還されました。

     

    ●第1次世界大戦

    ◎独逸国に対する宣戦の詔勅   

          大正3年(1914年)8月23日

     朕、茲に独逸国に対して戦を宣す。

     朕が陸海軍は宜しく力を極めて

     戦闘の事に従ふべく

     朕が百僚有司は宜しく職務に率循して

     軍国の目的を達するに努むべし、

     凡そ国際条規の範囲に於て、

     一切の手段を盡し、

     必ず遺算なからしむ事を期せよ。

     朕は、深く現時欧州戦乱の秧禍を憂い

     専ら局外中立を確守し以て

     東洋の平和を保持するを念とせり。

    以下省略

    内閣総理大臣兼

    内務大臣    伯爵大隈重信

    農商務大臣   子爵大浦兼武

    外務大臣    男爵加藤高明

    陸軍大臣    岡市之助

    海軍大臣    八代六郎

    大蔵大臣    若槻禮次郎

    文部大臣    法学博士一木喜徳朗

    司法大臣    尾崎行雄

    以下省略

    注: やはりこれまでと同じように

      国際法を守ることが明記されています。

      この詔勅で日本はドイツに宣戦布告し、

      青島を始め南方のドイツ軍拠点で

      4,000人以上のドイツ兵を捕虜にしました。

      ドイツ兵は日本各地6ケ所の

      捕虜収容所に収容され、

      かなり人道的処遇を受けたといわれています。

      各種スポ-ツ、散歩、外出、講演会、

      ギャンブル、コンサ-トまで許されたそうです。

      そして1920年1月に4,200名が送り返されました。

      このせいでしょうか、

      その後ドイツは日本に好意を持ち、

      文化交流が進んだともいわれています。

     

    ●第2次世界大戦

    ◎米国及英国に対する宣戦の詔勅   

       昭和16年(1941年12月8日)

     朕茲に米国及英国に対して戦を宣す

     朕が陸海将兵は全力を奮て交戦に従事し

     朕が百僚有司は勵精職務を奉行し

     朕が眾庶は各々其の本分を盡し

     億兆一心国家の総力を挙げて

     征戦の目的を達成するに

     遺算なからしむることを期せよ

    以下省略

    内閣総理大臣兼

    内務大臣陸軍大臣 東條英機

    文部大臣     橋田邦彦

    国務大臣     鈴木貞一

    農林大臣兼

    拓務大臣     井野碩哉

    厚生大臣     小泉親彦

    司法大臣     岩村通世

    海軍大臣     嶋田繁太郎

    外務大臣     東郷茂徳

    逓信大臣     寺島健

    大蔵大臣     賀屋興宣

    商工大臣     岸信介

    鉄道大臣     八田嘉明

    注:これだけの内容で

      国際法には一切触れていません。

     

    日本が明治以降経験した4つの戦争の詔勅のうち、

    最初の3つは国際法の遵守が書かれていますが、

    最後の第2次世界大戦だけは

    一切国際法には触れていないのです。

    このことは国家の中で

    軍部が力をつけて政治をないがしろにし、

    天皇は軍部に逆らえなくなっていったからかも知れません。

    いずれにしても昭和期に入って

    日本軍は急に残酷になってしまったのです。

    最近では「戦争だから仕方がなかった・・・・

    戦争だから何をやってもよかったんだ・・・」と

    主張する人もいますが、

    少なくとも以前は

    日本も紳士的(?)な戦争をしていたのです。

     

    第2次世界大戦後、

    何故急に捕虜を冷遇するようになったのか?

    その理由を考えてみます。

    1 日本の内部で内閣(政府)より

       軍部の発言力が強くなってきた

    2 その軍部が「捕虜の人道的処遇」が優遇し過ぎると考えた

     ☆第1次世界大戦後の「俘虜収容所長会同に於ける

          陸軍大臣口演」要旨  原文カナ、意訳

      捕虜の給食は我が軍隊と同じくらいを

      最大限と考えているが、しかし我が軍隊に比べ

      遥かに良好の給食を与えるものがあるが

      良くない事である。・・・・

    3 国際法に抵触しないように、

       特に中国では宣戦布告しなかった。

       事変であれば戦争ではない。

       戦争でなければ何をしても国際法に抵触しない・・・・

    4 外交よりも軍事的配慮を優先した。

     

    このような理由があったと思われます。

     

    当時の捕虜の処遇に関する国際条規は次の通りです。

    1 ハ-グ条約「陸戦の法規慣例に関する条約」

       付属の「陸戦の法規慣例に関する規則」

    2 赤十字条約「戦地軍隊における

       傷病者の状態改善に関する条約」

    3 ジュネ-ヴ条約「俘虜の待遇に関する条約」

     

    これらの条約の内、ジュネ-ブ条約には

    日本は批准していませんでした。

     

    1929年のジュネ-ブ条約では

    「戦地軍隊における傷者及び

    病者の状態改善に関する条約」と

    「俘虜の待遇に関する条約」が

    46ケ国で話し合われました。

    勿論日本も参加はしています。

    しかし日本の陸軍、海軍、外務省の立場は

    「俘虜に法典案の如きは、本邦は

    欧米諸国と生活様式を異にするをもって、

    精彩なる規定は実行不可能なり」とするものでした。

    結果として「傷者、病者の条約」には批准しましたが、

    「俘虜の待遇の条約」には批准しなかったのです。

     

    中国への侵略戦争の時期には

    事変として捕虜への配慮はしていませんが、

    太平洋戦争は戦争ですから

    天皇の詔勅はどうあれ

    当然捕虜に関する条約が絡んできます。

     

    1941年のアジア太平洋戦争開戦直後に

    日本の捕虜の待遇改善に関する

    基本方針が発表されました

     

    ●1941年12月12日、武藤章陸軍省軍務局長の通牒 原文カナ

     本次戦争に伴う俘虜は

     国際法に準拠し至当なる待遇をいたし度。

     その収容所は現地に開設の上、

     現地司令官の管理に属せしむる如く

     現行俘虜収容所条例その他改正の予定に付、

     収容位置、収容の方法に関し

     研究準備を進め置かれた度

     

    この通牒の「国際法」とは上記3つの

    どれを示すのか不明ですが、と

    にかく国際法を守ると言っています。

     

    同じ12日に赤十字国際委員会は交戦各国に

    「ジュネ-ブ条約」を適用するかどうかの

    照会電報を打っています。

    この照会に対して日本政府は

    「俘虜情報局」を設置し、

    捕虜・民間抑留者に関する情報を

    赤十字国際委員会に提供する事に同意しました。

     

    さらに12月27日にアメリカは

    捕虜の取扱に関する「ジュネ-ブ条約」を

    日本人捕虜と抑留者に適用するから、

    日本側も適用するように要望してきました。

     

    これに対して日本政府は

    1942年1月28日、次のように回答しています。

     1 赤十字条約の締結国として同条約を遵守している

     2 ジュネ-ブ条約を批准していないので

        同条約の拘束を受けないが、

       米軍捕虜に対しては同条約の規定を準用する

     

    日本はその日の内に、

    イギリス、カナダ、オ-ストラリア、

    ニュ-ジ-ランドにも

    同じ内容の通知をしています。

    しかしながら軍内部がバラバラで、

    なかなか具体的な方針が決まらず、

    結局その約束はあまり実行されなかったのです。

     

    1942年4月に、

    捕虜は予想以上の25万人にも達したため、そ

    の扱いに困り、5月に基本方針が決められました。

     

    ●俘虜処理要綱 1942年5月5日 原文カナ

    1 白人俘虜はこれを我が生産拡充並びに

       軍事上の労務に利用する如く、

       逐次朝鮮、台湾、満州、支那等に収容し、

       当分の間その目途立たざる者は

       現地に於いて速やかに

       俘虜収容所を開設し之に収容す

    2 白人以外の俘虜で抑留の要なき者は

       速やかに宣誓解放したる後、

       なるべく現地において之を活用す

        注:軍事上の労務はジュネ-ブ条約違反です

          捕虜を一旦釈放したように見せかけて、

          労働させるのは法の網の目をくぐる行為です

          国際法をどの様に遵守するのかが書かれていません。

     

    そして1942年11月には

    俘虜管理部長の懇談要旨が出されています。

    ●極秘 参謀長(外地を除く)、大臣直轄部隊長の

       一部等会同席上 俘虜管理部長懇談要旨

         昭和17年11月陸軍省印刷 原文カナ、意訳

    1 俘虜取扱の根本方針は

       人道に反せざる限り厳重に之を取締り、

       且つ之に課するに労務を以ってし、

       極力我が国生産拡充に利用するにあり  以下省略

    2 俘虜関係機関に就いて   省略

    3 俘虜収容所及びその収容人数に就いて

       大東亜戦争に於ける俘虜総数は約30万にして、

       その内、米、英、豪、蘭の俘虜は12万余を算せしも、

       その後病死、溺死等により減少し、現在数は約11万6千なり

    注:開戦後約1年で4,000人以上が病死、溺死になっています。

         病死はともかく溺死とは殺害されたものと思われます。

    4 俘虜監視員に就いて

       俘虜取締に任ぜしむる為、

       朝鮮人及び台湾人約4千2百名を徴用し・・・・

       各俘虜収容所に充当せられたし。

       右要員の身分は軍属にして・・・・

              以下省略

     

    どの様な事が上層部で決められても、

    実際には捕虜に対する虐待が多く、

    俘虜情報局長官・上村幹男中将の

    困った様子は局長会報の中に伺えます。

    ●局長会報

     4月18日 

      なるべく早く軍政下に入れ、

      条約上の正当なる取扱をなす方がよろしい。

      若い将校などは、

      俘虜などどうでもよいではないかといい。

      下士官兵など常に彼等を軽蔑している。・・・・ 

      とにかく国際的反響を顧慮して

      慎重に扱わなければならぬ

     7月15日 

      比国に於いて白人が・・1,561名死亡せりという。

      マレ-、ジャワを加えれば相当の数に達すべし。 

      これらの人員、人名はその本国に通知する要あり。 

      注意せざれば悪宣伝の材料となる

     9月5日   

      日露戦争の時の露捕虜は8万余ありしが、

      病死せるは僅かに36名なり。 

      然るに今回の戦争において

      米人俘虜2万4千中、既に2千名の死者を出せり。 

      将来問題の種となるべし。

     

    この様に俘虜情報局では国際法を守り、

    捕虜の待遇をきちんとする事に

    気を使っているようですが、

    肝心の陸軍大臣・東条英樹が

    捕虜を軽視する発言を繰り返しています。

    ●1942年5月2日 

     局長会報の席で香港・上海の捕虜逃亡事件の

     報告を受けて

     直ちに捕らえて衆人の前で死刑にせよ。

     やり方手緩い

    ●同年5月30日 

     善通寺師団を視察した後の訓示

     俘虜は・・・・厳重に取締り・・・・

     誤れる人道主義に陥り

     又は又は収容久しきに亘る結果、

     情実に陥るが如きことない様注意を要します。

     又我国現下の情勢は1人として無

     為徒食するものあるを許さないのであります。

    ●6月3日

     局長会報の席で

      (局長)

       俘虜に何か仕事をさせる。

       例えばその技術を生かし、

       学芸、農業の指導をさせ

      (陸相)

       学芸とは何か。

       音楽でもやらせるのか。

       音楽など不可。

      (局長)

       将来・・・・俘虜問題が中心になる。

       所長の指導によりやらせる方法を・・・・

      (陸相)

      看板はどうでも良い。

      目的は日本の戦争目的遂行に

      即応せしむることだ。   

      彼らの道楽心を満足させるなどと

      いうことはよろしくないし、

      又無為徒食も不可だ。

    ●7月22日 

     連合国政府が自国捕虜にに対して

     差し入れしたいと要望があった時

     現地では日本兵が苦労しておるのに、

     いくら本国から送ってきたといっても、

     捕虜に贅沢をさせる必要はない。

     

    そしていざ戦争に負けると、

    捕虜や住民に対する虐待の責任に付いて

    責任のなすり合いが始まりました。

     

    ●東京の俘虜収容所所長から各地の収容所に対する電報

    敗戦の直後、8月20日には東京の俘虜収容所所長から、

    東南アジア各地の収容所に緊急電報が打たれました。

    その内容です。

     「俘虜及び抑留者を虐待し、

     或いは甚だしく俘虜より

     悪感情を抱かれある職員は、

     この際速やかに他に転属或いは

     行方を一斉に晦ます如く処理するを可とす。

     又、敵に任するを不利とする書類も、

     秘密書類同様、用済みの後は必ず廃棄の事」

        注:虐待したり捕虜から悪い感情を

          持たれている者は逃げろ・・・

          と言う指示です。

     

    ●田中信男第33師団長の部下に対する発言

     「おまえらのやった事は、

     一切お前らで責任を取れ、

     上には絶対に迷惑を掛けてはならんぞ」と言い、

    注:部下は反発心を持ったそうです。

        (歩兵第215連隊戦記から)

     

    ●J・ミッチェル氏の証言  

           イギリス軍義勇兵として香港で捕虜になった

     ・・・・戦争が終わった時に感じたのは、

     日本人の無責任さですね。

     私たちを殴ったり虐待していた

     日本人の管理者達は、

     戦争が終わったとたんに

     どこかに姿を隠してしまった。

     あの時は怒るというよりもあきれました。

     残酷な虐待をしておきながら、

     自己責任を感じないのは

     どうしてでしょうか?

     今でも疑問です。

     

    さらに責任を台湾人、朝鮮人軍属に押し付けています。

    ●陸軍大臣下村定の通達

       「俘虜取扱関係連合軍側訊問に対する

       応答要綱に関する件」 1945年9月18日

     ・・・・俘虜収容所の編成素質(特に台・鮮人)

     教育等の実体を一般部隊等と関連対比して

     能くその因て来る所以を明にす・・・・

         注:敗戦後1ケ月に、弁明のために出した通達です。

           台湾人や朝鮮人は教育等が行き届かず、

           つまり素質が悪かった為であると言え・・・・ 

           という内容です

     

    また、証拠隠滅のために台湾人、

    朝鮮人の監視員を抹殺しようとしたのです。

    敗戦直後にタイとビルマで

    このことは計画されましたが、

    軍上層部からの無電で中止になりました。

     

    捕虜や民間抑留者の死亡統計を見てみます。

    ●東京裁判の記録から、

     日本軍に捕まった欧米捕虜の記録です。

    国名

    捕虜数

    死亡数

    死亡率

    アメリカ

    21,580人

    7,107人

    33%

    イギリス

    50,016人

    12,433人

    25%

    オ-ストラリア

    21,726人

    7,412人

    34%

    オランダ

    37,000人

    8,500人

    23%

    カナダ

    1,691人

    273人

    16%

    ニュ-ジ-ランド

    121人

    31人

    26%

    合計

    132,134人

    35,756人

    27%

      注:参考までにナチスドイツや  

        イタリアの捕虜になった連合軍兵士の例を示します。

         捕虜数  235,473人

         死亡数    9,348人

         死亡率   4%

     

    ●日本軍に捕虜になた連合軍兵士と、

     その内オ-ストラリア兵の移送先と死亡数です。

    田中利幸 POW研究会調査資料

     

    泰緬鉄道建設

    サンダカン

    日本国内

    連合軍捕虜(オーストラリア含)

    約65,000人

    約2,500人

    約30,000人

      死亡数

    約12,000人

    約2,500人

    約3,000人

    オーストラリア捕虜のみ

    約9,500人

    1,793人

    約2,800人

      死亡数

    2,646人

    生存者 6人

    191人

     

    ●アメリカのみの記録  

        米国捕虜協会発表 1998年4月27日

     捕虜の数36,260人  死亡数3,851人  死亡率38.2%

          注:参考までに

            ドイツ軍の捕虜になった米軍の死亡率 1.2%

     民間抑留者の数13,996人 死亡数1,536人 死亡率11%

          注:参考までに

            ドイツ軍の捕虜になった場合は死亡率 3.5%

     

    ●参考までにナチスドイツやイタリアの

     捕虜になった連合軍兵士の例を示します。

        捕虜数  235,473人

        死亡数    9,348人

        死亡率   4%

     

    こうして見るとナチスドイツの方が

    はるかに人道的な軍隊だった(?)ように見えます。

    日本軍の場合これ以上に

    アジア人特に中国人を

    大量に虐殺している筈ですが、

    その統計はありません。

     

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