捕虜や民間人に対する日本軍の対応

直接戦闘に関係のない民間人を殺害する事は、

法があろうがなかろうがいつの時代でも犯罪です。

では捕虜の場合はどうかということになります。

前にも書きましたが、

1902年に第2回平和会議で改定された

「陸戦の法規慣例に関する条約」

いわゆるハ-グ条約では

捕虜に人道的処遇をする事を定めています。

日本は1912年に条約に批准していますから

当然守る義務があります。

事実日露戦争や第一次世界大戦では

守る努力をしています。

しかし日清戦争では

余り守られていませんでした。

これはアジア人に対する

蔑視があったように思われます。

それでは満州事変以降の戦争は

どうだったのでしょうか?

1932年の第一次上海事件(南京戦の5年前)の時

日本軍は中国の便衣兵の攻撃に

悩ませられていました。

恐怖にかられた在留邦人は

自警団を組織し便衣兵狩りをし、

一般の中国人まで虐殺した報告があります。

 

◎海軍の戦史(原文カナ)

 長期の排日・抗日に因りて

 激昂動揺せる在留邦人は、

 更に便衣隊に対する不安の為に

 益々平静を失い、遂に恐慌状態となり、

 流言頻々として底止する処を知らず、

 初め自警団を組織して

 便衣隊に備えたりしが、

 その行為常軌を失し、

 便衣隊以外の支那人をも

 之を惨殺するの傾向を現出し、

 且陸戦隊にありても、

 居留民の言を信じて

 過たる処分を行うものを生じた

 

◎上海の重光葵公使から

   外務大臣宛の電報 

   1932年2月2日(原文カナ)

 29日事件当初海軍側は手薄のため

 在郷軍人団及び一時青年団又は

 自警団を閘北占領地内の

 治安維持に用いたる行懸もあり

 彼等の行動は便衣隊に対する

 恐怖及び憎悪と共に恰も大地震

 (注:関東大震災の事)当時の

 自警団の朝鮮人に対する態度と

 同様なるものあり、

 支那人にして便衣隊の嫌疑を以て

 処刑(殺戮)せられたる既に数百に達せる・・・・

 

このため上海の海軍や陸軍は

「便衣隊や容疑者は憲兵隊又は警察で調査」をするように、

きちんと対処する命令を出しています。

このような前例があるのに、

その後の第二次上海事変から南京事件の期間は

憲兵隊や警察に送致することなく

便衣兵らしきものを殺害したのです。

 

日本軍は、戦争だと国際条約を守らなければ

いけないので、

大本営は戦争と呼ばずに事変と呼びました

満州事変、上海事変、支那事変などです。

つまり戦争でないから国際法に制約されない。

捕虜も人道的処遇する必要もないし、

収容所も作らなくてもよいという解釈です。

前にも述べたように日本軍には

基本的な問題があった上に、

国際条約を守らないのですから、

民間人や捕虜の殺害が起きたのは

必然的なことでした。

 

◎交戦法規の適用に関する件  

    陸支密第198号支那駐屯軍参謀長宛

    陸軍次官通牒

    1937年8月5日  (原文カナ)

 現下の情勢に於いて帝国は

 対支全面戦争を為しあらざるを以って

 「陸戦の法規慣例に関する条約その他

 交戦法規に関する諸条約」の具体的事項を

 ことごとく適用して行動することは適当ならず。

 ・・・・日支全面戦争を相手側に先んじて

 決心せりと見らるる如き言動

 (例えば戦利品、俘虜等の名称の使用)は

 努めて避けよ・・・

  注:中国と全面戦争ではないのだから、

    国際法を守る事は適当ではない    

    日本から戦争を仕掛けたと

    思われないようにし、

    戦利品とか捕虜等の言葉も使うな

 

1933年に陸軍歩兵学校教官の

氷見大佐の研究をもとに刊行された

「対支那軍戦闘法の研究」の

捕虜の処置」には中国人への蔑視が見られます。

 

◎対正規軍戦闘法の研究・その六捕虜の取扱   

         1933年1月(原文カナ)

 捕虜は他列国人に対する如く

 必ずしも之を後送監禁して戦局を待つを要せず

 特別の場合のほか、

 之を現地又は他の地方に釈放して可なり。

 支那人は戸籍法完全ならざるのみならず

 特に兵員は浮浪者多く、

 その存在を確認せられある者少なきを以って

 仮に之を殺害又は他の地方に放つも

 世間的に問題となる事なし・・・・

黄色線注 

 欧米諸国とは別の処遇をしても良い        

 仮に捕虜を殺害しても世間的には問題にならない        

 他の場所に連行して強制労働が出来る

 

軍だけではなく民間人も

中国軍に対する差別感はありました。

中国に対して相当の理解を示していた

東亜同文会でさえそうでした。

 

◎東亜同文会「支那年鑑」1935年版

 その実質は依然として傭兵、

 軍閥の私兵と見て何等差し支えない。

 従って表面的には約200万以上の兵力を有し、

 かつその編成及び装備も

 完成せるごとく見ゆるも、

 その本質にいたっては

 今尚3000年以前の春秋戦国の軍隊と

 何等異なるところがない。

 元来支那下層民は無学無知懶惰にして、

 糊口に窮する者は多く

 募兵に応ずるをもって

 立身に対する唯一の道とし・・・・

 

このように馬鹿にしていた

中国の軍隊でしたが、

実際には日本軍の方の軍紀が乱れて、

中国軍のほうが強く、

しかも規律がきちんとしていたと言う

報告もあります。

 

◎教育総監部第二課長 鈴木宗作大佐の報告(原文カナ)

   教育総監部「日支事変の教訓 第二号」1938年

 支那軍は予想に反し

 著しく頑強性を発揮したりと見るを

 妥当とする部面を有し

 或る意味においてはむしろ

 我が軍に比べ優越しありと

 見るべきものまた少なしとせず

 

◎遠藤三郎 野戦重砲兵第5連隊長(原文カナ))

   教育総監部「日支事変の教訓 第二号」1938年

 軍紀の刷新につきましては

 上下共に一段の努力を要するものと

 痛感いたしました。

 いわんや本次作戦の目的を考えるとき

 支那民族に与える悪影響を思えば

 冷や汗三斗の思いが致すのであります。

 不軍紀の代表の様に思った支那軍は

 案外軍紀が厳粛に保たれて居った様に

 見受けました。

 

中国から帰還した兵士が

現地の実情を日本国内で

あまり言いふらすと困るため、

1939年2月に陸軍次官は

各部隊に通牒を出しています。

その中の軍隊・軍人の状況には

帰還兵の露骨な言動の例が示されています。

◎支那事変地より帰還する軍隊及軍人の

   言論指導取締に関する件 (原文カナ)

 ☆○○で親子4人を捕らえ、

  娘は女郎同様にもてあそんでいたが、 

  親があまり娘を返せと言うので親は殺し、 

  残る娘は部隊出発まで

  相変わらずもてあそんで、

  出発間際に殺してしまう

 ☆ある中隊長は、「あまり問題が起こらぬ様に

  金をやるか、又は用を済ました後は

  分からぬ様に殺して置くようにしろ」と

  暗に強姦を教えていた

 ☆戦争に参加した軍人を一々調べたら、

  皆殺人・強盗・強姦の犯人ばかりだろう

 ☆戦地では強姦位は何とも思わぬ。

  現行犯を憲兵に発見せられ、

  発砲して抵抗した奴もある

 ☆約半年にわたる戦闘中に覚えたのは

  強姦と強盗位のものだ

 

日本軍兵士のあまりのひどさに困った

軍中央は兵士の心得を発行しました。

兵士の心得は第一号から第三号まで出ていますが、

まず南京戦直後の第一号です。(原文カナ)

◎[従軍兵士の心得 第一号]

1938年8月 

大本営陸軍部第一課長(教育課長)遠藤三郎大佐

 戦地における敵意なき支那民衆を愛燐せよ

 無辜の民を苦しめず弱者を憐むのは

 わが大和民族古来の美風である。

 いわんや今次の聖戦は

 支那民衆を敵としているのではない。

 抗日容共の国民政府を撃破して

 無辜の支那民衆を救うのが目的である。

 彼らをして皇恩に浴し得るように

 してやらねばならぬ。

 万一にも理由なく彼らを苦しめ

 虐げる様なことがあってはいけない。

 武器を捨てて投降した

 捕虜に対しても同様である。

 特に婦女を姦し資財を掠め或いは

 民家をいわれもなしに焼くが如きことは

 絶対に避けねばならぬ。

 かくのごとき行為は野蛮民族として

 列強の嗤いを買うばかりではなく

 彼ら支那民衆より未来永劫までも

 恨みを受け、仮に戦闘に勝っても

 聖戦の目的は達し得ぬこととなる。

 「掠奪強姦勝手次第」などどいう言葉は

 「兵は凶器なり」と称する

 外国の軍ではいざ知らず、

 神国であり神武である皇国の軍では

 絶対にあり得ぬことである。

 万一にもかくの如き行為を

 なすものがあったならば、

 之れ不忠の臣である。

 国賊として排除せねばならぬ。

 (中略) 

 またいわれもなく無闇に誤れる優越感を

 振り廻してはいけない。

 彼らといえども民族としての誇りがあろう、

 否彼らは特に面子を重んずる国民であるから、

 やたらに威張りちらしたのでは

 彼らを服従させることは出来ない。

 よろしく彼らの人格を尊重し

 これを愛護するの大国民的大度量をもって

 彼らに自然に我々に兄事師事し

 遂に求めずして心から服する様

 親切に導くことが必要である(攻略)

 

このような心得をこの時期に

あえて出したのは、

南京の状態は目を覆うばかりの

ひどさであった良い証拠です。

それでも南京の惨状は収まらず、

11月には第二号、翌年の3月には

第三号が出されているのです。

 

◎従軍兵士の心得 第二号 1938年11月      

 彼の掠奪強盗の如き

 私利私欲の為の行為は

 啻に皇軍軍人として

 軍紀風紀上許されぬばかりではなく

 其の結果は皇軍全般が

 又我が国全体が対手国の民衆より

 永遠の恨みを買うこととなり

 縦い戦闘には勝っても終局に於て

 戦争には負けとなるのであって

 実に重大なる問題である・・・・

 左に戦場に於て起こり易い

 犯罪・非違並に刑懲罰に関して

 若干の説明を試みることとする。

●上官に対する罪

●掠奪の罪

●衛兵勤務に関する罪

●逃亡の罪

●軍用物資損壊の罪

●造言飛語の罪

 ・・・・戦場に於ける強姦は

 其の地の住民に対して為される場合が多い

 兵威に怖れ殆んど無抵抗の状態に在る為

 一種の征服感更に猟奇心等に駆られ

 殆んど常識では信ぜられぬ様な

 姦淫行為を平然と行って憚らぬ様な

 不心得者が絶無とは云い得ぬ様に思われる・・・・

 凡そ住民に対するこの種の行為は

 啻に野蛮人として

 列強の嗤いを買うばかりでなく

 住民よりは未来永劫迄も恨みを受け、

 皇軍の百の宣撫も滅茶苦茶となり

 国策遂行上大なる障碍をなすことは

 今更云う迄もないことであり・・・・