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キーワード「ロ号棟」を含む投稿一覧

  • 敗戦時の731部隊の処理

    2020/08/12
    16:02

    1945年8月15日敗戦の日、

    昭和天皇の玉音放送が行われた日ですが、

    その日の午前中に軍の秘密部分の

    証拠隠滅する処置がとられました。

    陸軍省軍務局軍事課の新妻清一中佐は

    朝から国内外の関係部署に電話をかけ始めました。

        注:新妻清一1932年7月陸軍士官学校本科卒業、

          東京帝国大学理学部物理学科卒業。

          技術畑を歩き1944年には

          多摩陸軍技術研究所で電波誘導兵器の研究をする。

          敗戦時は、大本営陸軍参謀、多摩陸軍技術研究所研究員。

    ●新妻清一中佐の電話の内容

     まずは登戸の陸軍第九技術研究所です。

     これは「ふ」号(風船爆弾)を中心とした

     秘密戦・謀略戦をこの研究所がしていたからです。

     次に関東軍に連絡し第731と第100部隊の処理を命じました。

     最後に陸軍省糧秣本廠へ連絡し、

     「糧秣本廠1号」という暗号で呼ばれた

     特殊兵器の証拠処分を命じました。

     

    ●新妻清一のメモ (原文カナ)

     特殊研究処理要領 20.8.15 軍事課

     一. 方針

        敵に証拠を得らるる事を不利とする

        特殊研究は全て証拠を隠滅する如く至急処置す

     二.実施要領

      1.ふ号、及び登戸関係は

        兵本草刈中佐に要旨を伝達後直ちに処置す

    (15日8時30分)

      2.関東軍、731部隊及び100部隊の件

        関東軍藤井参謀に電話にて連絡処置す

            (本川参謀不在)

      以下省略

     

    しかし731部隊では、日本の敗戦が明らかになり、

    またソ連が「日ソ中立条約」を

    延長しないと通告してきたことから、

    1945年の3月頃から部隊を縮小し、

    いち早く部隊員たちは日本への帰国をし始めました。

    日本の敗戦が確定してきたため

    軍の参謀本部は終戦工作を急ぐようになります。

    軍を温存し日本再建を目指すため

    大陸命(大本営陸軍部から出る天皇の命令)1378号

    及び大陸指(参謀総長命令)が出ました。

    この命令書の現物は敗戦時の焼却処理で残っていません。

    大本営作戦参謀朝枝繁春中佐の手記(回想録)から

    記憶で大陸指の要旨を引用します。

     

    ●朝枝繁春手記「追憶」から

     大陸命1374号に基づき、

     関東軍総指令官に対し、

     その作戦遂行上指示するところ左の如し、

     1.  関東軍総指令官は、

      米ソ対立抗争の国際情勢を作為するため、

      なるべくソ連をして、速やかに、

      朝鮮海峡まで進出せしむる如く作戦を指導すべし。

     2. 戦後将来の、帝国の復興再建を考慮して、

      関東軍総司令官はなるべく

      多くの日本人を、大陸の一角に残置すること。

      日本人の国籍は、いかようにも変更するも可なり。

    注:ソ連の進攻に対して関東軍は逃げ出し、

      民間人を置き去りにしたことは

      日本の国策だったことが分かります。


    そして生物兵器や生体実験など

    ジュネ-ブ条約に違反した行為を

    完全に世界の目から隠す必要がありました。

    8月9日のソ連参戦で

    関東軍参謀部が命令を出し山田司令官が署名をして、

    部隊破壊と撤退命令が各部隊に出され

    徹底した証拠隠滅が図られました。

    さらに10日には朝枝中佐は満州国の首都新京に飛び、

    新京軍用飛行場に石井四郎を呼び参謀総長命令を伝えました。

     

    ●朝枝繁春破手記「追憶」から

     1. 貴部隊は速やかに全面的に壊し、

      職員は一刻も早く日本本土に帰国させて

      一切の証拠物件は、永久に

      この地球上より雲散霧消すること

     2. このためハルピンの工兵一個中隊と」爆薬5トンを

      貴部隊に配属するようすでに手配済みにつき、

      貴部隊の諸設備を爆破してください。

     3. 建物の丸太(捕虜のこと)、之また、

      処理した上、貴部隊のボイラ-で焼いた上、

      灰はすべて松花江に流し捨てること。

     4. 貴部隊の細菌学の博士号をもった医官53名は、

      貴部隊の軍用機で直路日本へ送還すること。

      その他の職員は、婦女子、子供達に至るまで、

      南満洲鉄道で大連にまず輸送の上、内地に送還すること。

      このため、大連所在の満鉄本社に対しては

      関東軍交通課長より指令の打電済みであり、

      平房店駅には大連直通の

      特急(2500輸送可能)が待機させられています。

     

    敗戦直前に、独立混成第131旅団の工兵隊長だった「I」氏は、

    ソ連参戦の翌日8月10日の昼過ぎに第4軍司令部の命令を受け、

    731部隊破壊作業のため、2個小隊を率いて平房に向かいました。

     

    ●I氏の証言 (西野留美子氏論文から 1994.11.4 週間金曜日)

     40トンの黄色爆弾を持っていきました。

     部隊に着くと石井隊長から、

     まず監獄の7、8棟から形跡が残らないように

     壊すように命令されました。

     続いて実験棟や倉庫なども壊し、

     最後には細菌の入ったボンベを何十本と爆破しました。

     なかなか壊れず、2日2晩かかったように記憶しています

     破壊作業は数日かかり、

     最後に実験用の捕虜(マルタ)404人が殺害焼却されました。

     

    ●溝淵俊美伍長の回想

     彼(焼却担当伍長)はマスクをせずに

     素面で入っていったから、

     青酸ガスではないだろう。

     メタンガスの放射だと思う。

     

    ●同上 溝淵伍長が焼却担当の西山整爾伍長から聞いた話

     私らは「丸太小屋」といっとりましたがね、

     ロ号棟にはパイプで空気を送っていたわけですが、

     そのパイプからガスを送って、

     密閉されていますから、すぐにガスは満杯になります。

     それでみんな殺した。

     死体は2階の窓から放り出して、

     ガソリンをかけて焼いた。

     兵隊は4個分隊ですからだいたい100入っていますからね。

     それに少年隊がだいたい100人、

     それに佐官級から上の将校はみんな

     ロ号棟に集合したんですね。

     

    ● 篠原 鶴男731部隊教育部 1926年生れ

    (1994年の731部隊展報告書)

     8月9日早朝、点呼をしていたときです。

     白馬に乗った野口少佐が部隊の中を走り回って、

     「本日午前零時に、ソ連が進攻した。

     これから指揮に従って行動せよ」と指示していました。

     まず私たちは、731部隊員であるという身分が

     わからないように、身のまわりの物を処分しました。

     10日、7、8棟の2階の12号室に

     私は他の2人と一緒に入っていきました。

     今までは絶対に入れない場所へ入ったのです。

     廊下には3名程の“マルタ”の死体が転がっておりましたが、

     もうほとんどのマルタの死体は

     ロ号棟の外に運び出されておりました。

     外には穴が掘られており、

     穴の中に薪とマルタが交互に積み上げられ、

     あとは火をつけるだけになっていました。

     上層の幹部たちは、

     飛行場から重要書類などを持って撤退していました。

     私たちは監獄を破壊せよと命令されました。

     監獄は1号から12号まであり、

     私は12号室に爆薬を仕掛けました。

     「14日の18時に731部隊を爆破する」という命令が

     下りまして、マルタを処分し、

     13日の夜から14日の朝方にかけて、

     研究器材や薬品、標本を入れてあった容器などを

     松花江という川へ何度もトラックで運んで捨てました。

     18時爆破のスイッチを入れ、

     爆破音の中、私たちは汽車に乗込みました。

     釜山に到着したのは20日のことでした。

     

    部隊で最大の懸案事項だった

    マルタの処理が終わった後

    大田澄大佐は次のように語ったと言われている。

     ◎ほぼ処理の目的が達成された。

      これで天皇は縛り首にならずにすむ。ありがとう

     

    平房で家族脱出の列車が出るときの

    石井四郎の最後の命令と演説が越定男の回想にあります。

     

    ●「日の丸は紅い泪に」 731部隊運輸班  越定男

     三つの命令(石井四郎の最後の命令)

    1. 郷里に帰ったのちも、

     731に在籍していた事実を秘匿し、

     軍歴をかくすこと。

    2. あらゆる公職には就かぬこと。
    3. 隊員相互の連絡は厳禁する。

     演説

      第731部隊の秘密はどこまでも

      守り通してもらいたい。

      もし軍事機密を漏らした者がいれば、

      この石井がどこまでもしゃべった人間をおいかけるぞ

    注:越はこの言葉が戦後長い間耳から消えることがなかったといいます


    そのせいもあって戦後秘密が保たれた面もあります。

    また石井は「秘密がばれては困るから

    家族を殺せ」と主張しましたが、

    第一部隊長の菊池少将に説得されて

    家族を特別仕立ての汽車で

    避難させたと言われています。

    中国の戦犯収容所での証言を見てみます。

     

    ●榊原秀夫 (731部隊林口支部長)

     私は8月9日軍属兵5名に命じ

     部隊で飼育しておりました白鼠5,000匹、

     捕えた鼠1,000匹、蚤約1.3キロを

     細菌戦証拠隠滅と第731部隊の

     ペスト細菌戦に対する材料補給の目的をもって

     第731部隊に送附せしめ翌日、

     本部機密書類係り奥村軍属に兵2名を附し

     第731部隊に派遣、機秘密書類を処置せしめました。

     機秘密書類は暗号解説書、関東軍動員計画、

     林口東案方面の兵要衛星地誌、

     関東軍防疫給水部支部勤務規定、

     及び1943年7月第731部隊の

     支部長、師団防疫給水部長に対する

     「殊防疫」教育時の配布書類「細菌戦の概念」、

     人事書類であります。

     8月10日ソ連軍戦車部隊が

     八面通に迫ったとの駐屯地司令部の通報により

     部隊建物に藁を積み石油を準備し

     建物の焼却準備を実施し、

     更に部隊専用の水源地の

     給水ポンプの破壊を命じました。

     間所少尉以下25名(自動車5車両)を後発隊とし、

     私は人員200名、

     自動車50車両(濾水車1、消毒車1を含みます)をもって

     8月10日牡丹江に出発いたしました。

     

    ●秦正氏 (731部隊総務部翻訳課勤務) 1954年9月7日

     翻訳班の中に短波無線ラジオを設置し、

     海外情報を聞いた。

     また、米軍の日本語による

     日本向け放送も聞いた。

     その内容は沖縄島の戦況や、

     日本海軍の敗戦状況、

     日本兵への降伏勧告などであった。

     このほか、特務機関から海外情報やソ連の

     国内・国境情報を写してきて、課長に伝えた。

     1945年8月9日から13日までの5日間、

     企画課長である二木技師の命令により、

     ソ連の進軍状況、日本の無条件降伏の

     海外ニュ-スを課長に伝えた。

     こうした情況によって、

     石井四郎は事前に逃亡の準備を整えていた。

      1. ソ連軍との開戦のさい、

       石井は部隊に指示して吉林省の山の中に

       退却させ、抵抗の計画を策定した。

       重要機材を梱包させ、

       さらに第1部の吉村班に山地で

       抗戦する場合の栄養問題を検討させた。

      2. ペスト菌兵器の大規模生産を命じた。

       このため石井は部隊員に鼠の捕獲と飼育を命じた。  

       7月下旬には、部隊内で飼育されている

       鼠が数千匹に達していた。

     3. 1945年6月下旬、まず部隊員の家族の中の

      老人と子供約200名を日本に逃がした。

     4. 日本降伏の5日前、

      私は「日本の無条件降伏はすでに定まった」との情報を示して、

      部隊が事前に証拠隠滅して逃亡するのを促した。

      警備班が部隊内において

      監禁中のソ連と中国の愛国者30名を

      ピストルで射殺し、

      工兵部隊が建築物をすべて爆破した。

     5. 書類を焼却し、鼠を始末し、

      ハルピン市南崗廟街の

      石井式濾水器製造工場を爆破した。

     6. 石井四郎は8月13日、部隊員2500名を

      部隊の引込み線から汽車に乗せて逃走させた。  

      石井本人は飛行機で逃走した。

     

    ●千田謙三  1954年10月9日

     1945年8月13日、私は独立混成131旅団

     79大隊中尉大隊長であったが、

     ハルピンの大直街に集まり、

     旅団参謀、高級副官、各大隊長とともに、

     旅団長宇部少将の招集した会議に出席して、

     平房の細菌工場を爆破する問題について検討した。..

     口頭で伝達された命令の要点はつぎのとおりであった。

      ◎情報によれば、ソ連軍はすでに牡丹江を突破し、

       阿城付近では落下傘兵が降下している。

       旅団ではハルピン市内での市街戦を準備しているので、

       各大隊とも配置につくべし、

       工兵部隊はただちに石井部隊の

       平房における建物を全て爆破すべし。

     会議後、石原工兵大隊長が直接部下を指揮し、

     13、14の両日、平房の建物をすべて爆破した。

     これはすべて細菌部隊の罪状の

     証拠を隠滅するためにやったことである。

     731部隊の破壊の影響で、

     ペストに感染した鼠が逃げ出し

     周辺ではその後ペストが流行していました。

     

    ●ハルピン市人民政府公安局の

        第731部隊の状況に関する調査資料

    1954年3月15日

     1945年の降伏のさい、

     日本軍(原文では日冠)が細菌工場を爆破したため、

     大量の保菌鼠が逃げ出して付近の村に散らばった。

     このために、1946年6月から10月まで、

     平房地区ではあいついでペストが発生し、

     市内まで侵入した。

     大東井子屯で38人、後に道溝屯で42人、

     義発源屯で38人が死亡した。

     市内でも14人が発病し、

     死亡及び発病を合わせると132人であった。


    ●ハルピン市香坊区平房村義発源屯

        被害者告発書  1950年3月18日

     日本降伏のさい、

     日本軍が平房の細菌工場を爆破したため、

     菌を持った鼠が飛び出した。

     1946年の夏になると、

     日本軍の放ったペスト菌が、

     わたしたちの村に伝染してきて、

     沢山の人が病気になった。

     病状は特別重く、

     吐血や下痢がつづいて、

     3日もしないうちに亡くなる人もあり、

     そのありさまはまったく恐るべきものであった。

     私たちの屯だけでもいく人もの人が死んだ。

     日本軍は、こうした悪らつな手段で

     わが国の人民を虐殺したのである。

     思い出すと痛憤に耐えない。

     これらの犯罪を犯した者を厳罰に処すべきである。

     

    敗戦時の部隊の処理を731部隊で見てきましたが、

    他の部隊ではどうだったのでしょうか?

    南京の栄1644部隊の敗戦時の状況を

    石田甚太郎氏の手記から見てみます。


    ●石田甚太郎手記 1911年生まれ

    絵描きだったため軍画兵として

    南京の栄1644部隊第1科に勤務。

    生体実験を絵として記録した。

     8月15日緊急サイレンが鳴り、

     営庭に部隊全員が集合したが、

     私は一人、1科事務所から玄関まで出て、

     終戦の玉音放送を聞いた。

     それから機密書類の管理を木村准尉から任されて、

     鍵も保管していた私に、極秘書類の抹消は、

     石田の全責任によって行うこと、

     との命令が下ったのである。

     1科の北出口事務所のすぐ窓外に

     防空壕が造られていた。

     私はその壕の中で焼却する事にして、

     まず壕の奥の天井の縦穴をあけ、

     書庫の書類を全部持ち出して、紙に点火した。

     焼却に当たっては一紙片の散逸や不燃も許されなかった。

     3年の間、描いて整理整頓した書類、

     日本軍の恐るべき生物化学兵器其の物の記録を、

     日本軍人として只一人この手によって

     火炎の中に壊滅させたのである。

     地底の作業は真夏の暑さに加えて

     炎の火熱で、自然地獄に置かれ、

     40余時間計3日間も続いた。

     ・・・18日の朝に焼却は終わり

     防空壕の天井を地に落し土埋した。

     重慶(注:国民政府)から1週間後に、

     部隊受領の将官が来る、と報告があってから、

     部隊は騒然となった。・・・・

     1科の者は全員早急に建物及び部内

     その他一切を処置せよ、との命令である。

     それは極秘作戦、細菌生物兵器、

     生体実験の証拠抹消であった。

     細菌を持つものは、

     蚤や鼠などの小動物からマルタまで、

     すべて人体焼却場で焼却処分した。

     それはそれは凄い光景だった。

     私が書類焼却している間、

     3階のロツはバ-ナ-で切断され、

     部屋の周囲にあった蚤防止用の溝も

     きれいに取り除かれていた。

     室内は解体して娯楽室に見せた。

     マルタは青酸カリで殺してから焼いたという。

     それよりも驚いた事に、1科の敷地内を、

     兵隊たちが彼処も此処も土を掘り返していて、

     其処から異様な臭いが起こって来るではないか。

     兵隊が3、4名で臭いの物をリヤカ-に積んで運んでくる。

     飛行場の一部分に、1科で薬草栽培の農地を管理していた。

     そこをも掘り返して、死体を処理すべく

     1科の中庭まで運んできた。

     山積にされた数は数10体に及んでいる。

     綿製の支那服と頭髪はまだそのままであるが、

     体骸はほとんどが白骨になってはいるものの、

     肉体は腐敗し水溶化して着衣に吸収し、

     真夏の太陽熱にあたり異様な悪臭を発散し、

     蝿の群衆の襲来で真っ黒となってる。

     これを何日もかけて焼いて、

     そのあとで揚子江に遺棄したという。

     今日でもあの臭いだけは思い出したくないのである。


    日本国内、新潟や山形に隠してあった重要文書も

    若松陸軍次官の命令で焼却されました。

    東京の陸軍軍医学校は空襲で炎上し、

    残された資料は焼かれたり埋められたりしました。

    1989年に発掘された多数の人骨は

    その時埋められたものだと思われます。

     

    新潟や山形と書きましたが、

    新潟には

    陸軍軍医学校防疫研究室の新潟出張所がありました。

    (新潟日報 1986年の連載から)

    敗戦が近くなり空襲が激しくなってきたため

    防疫研究室の設備や資料を地方に疎開させたのです。

    シンガポ-ルの岡9420部隊の

    総務部長だった内藤良一は、

    この新潟出張所の1945年3代目に所長に就任しました。

    そして8月15日を過ぎてから

    多くの細菌爆弾を含む証拠品が海に投下されました。

     

     このようにして731部隊の証拠書類は

    すべて処分されたはずでした。

    しかし実際には主要幹部の研究デ-タ-は

    処分されずに日本に持ち込まれていました。

    国内では一旦金沢陸軍病院の倉庫に隠され、

    その後東京に運ばれました。

    運んだのは菊池斉少将、増田知貞少将、太田澄大佐です。

    東京では杉並のオリエンタル写真工業、

    新宿の石井四郎の自宅、

    千葉の増田少将の自宅と言われています。

     

    つづきを読む

  • 生体実験の証言

    2020/08/10
    10:46

    ●秋元寿恵 東京帝大出身の血清学者  1984年12月の証言

    部隊に着任して人体実験のことを知った時は

    非常にショックを受けました。

    あそこにいた科学者たちで

    良心の呵責を感じている者は

    ほとんどいませんでした。

    彼らは囚人たちを動物のように扱っていました。

    ・・・・死にゆく過程で医学の発展に

    貢献できるなら名誉の死となると考えていたわけです。

    私の仕事には人体実験は

    関係していませんでしたが、

    私は恐れおののいてしまいました。

    私は所属部の部長である菊地少将に

    3回も4回も辞表を出しました。

    しかしあそこから抜け出すことは出来ませんでした。

    もし出て行こうとするならば

    秘かに処刑されると脅されました。

     

    ● 鎌田信雄 731部隊少年隊  1923年生 1995年10月 証言

    私は石井部隊長の発案で集められた

    「まぼろしの少年隊1期生」でした。

    注:正式な1期から4期まではこの後に組織された

    総勢22~23人だったと思います。

    平房の本部では朝8時から午後2時までぶっ通しで

    一般教養、外国語、衛生学などを勉強させられ、

    3時間しか寝られないほどでした。

    午後は隊員の助手をやりました。

    2年半の教育が終ったときは、昭和14年7月でした。

    その後、ある細菌増殖を研究する班に所属しました。

    平房からハルビンに中国語を習いに行きましたが、

    その時白華寮(731部隊の秘密連絡所)に立ち寄りました

    ・・・・200部隊(731部隊の支隊・馬疫研究所)では、

    実験用のネズミを30万匹買い付けました。

    ハルビン市北方の郊外に毒ガス実験場が何ケ所かあって、

    安達実験場の隣に山を背景にした実験場があり、

    そこでの生体実験に立ち合ったことがあります。

    安達には2回行ったことがありますが、

    1~2日おきに何らかの実験をしていました。

    20~30人のマルタが木柱に後手に縛られていて、

    毒ガスボンベの栓が開きました。

    その日は関東軍のお偉方がたくさん視察に来ていました。

    竹田宮(天皇の従兄弟)も来ていました。

    気象班が1週間以上も前から風向きや天候を調べていて

    大丈夫だということでしたが、

    風向きが変わり、ガスがこちら側に流れてきて、

    あわてて逃げたこともあります

    ・・・・ホルマリン漬けの人

    体標本もたくさんつくりました。

    全身のものもあれば頭や手足だけ、

    内臓などおびただしい数の標本が並べてありました。

    初めてその部屋に入ったときには気持ちが悪くなって、

    何日か食事もできないほどでした。

    しかし、すぐに慣れてしまいましたが、

    赤ん坊や子供の標本もありました

    ・・・・全身標本にはマルタの国籍、性別、

    年齢、死亡日時が書いてありましたが、

    名前は書いてありませんでした。

    中国人、ロシア人、朝鮮族の他にイギリス人、

    アメリカ人、フランス人と書いてあるのもありました。

    これはここで解剖されたのか、

    他の支部から送られてきたものなのかはわかりません。

    ヨーロッパでガラス細工の勉強をして来た人が

    ピペットやシャ-レを造っていて、

    ホルマリン漬けをいれるコルペもつくっていました。

    731部隊には、子どももいました。

    私は屋上から何度も、中庭で足かせを

    はめられたままで運動している

    “マルタ”を見たことがあります。

    1939年の春頃のことだったと思いますが、

    3組の母子の“マルタ”を見ました。

    1組は中国人の女が女の赤ちゃんを抱いていました。

    もう1組は白系ロシア人の女と、4~5歳の女の子、

    そしてもう1組は、これも白系ロシアの女で,

    6~7歳の男の子がそばにいました

    ・・・・見学という形で解剖に立ち合ったことがあります。

    解剖後に取り出した内臓を入れた

    血だらけのバケツを運ぶなどの仕事を手伝いました。

    それを経験してから1度だけでしたが、

    メスを持たされたことがありました。

    “マルタ”の首の喉ぼとけの下から

    まっすぐに下にメスを入れて胸を開くのです。

    これは簡単なのでだれにでもできるためやらされたのですが、

    それからは解剖専門の人が細かくメスを入れていきました。

    正確なデータを得るためには、

    できるだけ“マルタ”を普通の状態で

    解剖するのが望ましいわけです。

    通常はクロロホルムなどの麻酔で

    眠らせておいてから解剖するのですが、

    このときは麻酔をかけないで

    意識がはっきりしているマルタの手足を

    解剖台に縛りつけて、

    意識がはっきりしているままの

    “マルタ”を解剖しました。

    はじめは凄まじい悲鳴をあげたのですが、

    すぐに声はしなくなりました。

    臓器を取り出して、色や重さなど、

    健康状態のものと比較し検定した後に、

    それも標本にしたのです。

    他の班では、コレラ菌やチフス菌を

    スイカや麦の種子に植えつけて栽培し、

    どのくらい毒性が残るかを究していたところもあります。

    菌に侵された種を敵地に撒くための研究だと聞きました。

    片道分の燃料しか積まずに敵に体当りして

    死んだ特攻隊員は、

    天皇から頂く恩賜の酒を飲んで出撃しました。

    731部隊のある人から、

    「あの酒には覚醒剤が入っており、部隊で開発したものだ」

    と聞きました

    ・・・・部隊には,入れかわり立ちかわり

    日本全国から医者の先生方がやってきて、

    自分たちが研究したり、

    部隊の研究の指導をしたりしていました。

    今の岩手医大の学長を勤めたこともある医者も、

    細菌学の研究のために部隊にきていました。

    チフス、コレラ、赤痢などの研究では

    日本でも屈指の人物です。

    私が解剖学を教わった石川太刀雄丸先生は、

    戦後金沢大学医学部の主任教授になった人物です。

    チフス菌とかコレラ菌とかを

    低空を飛ぶ飛行機からばらまくのが「雨下」という実験でした。

    航空班の人と、その細菌を扱うことができる者が

    飛行機に乗り込んで、

    村など人のいるところへ細菌をまきます。

    その後どのような効果があったか調査に入りました。

    ペスト菌は、ノミを介しているので

    陶器爆弾を使いました。

    当初は陶器爆弾ではなく、

    ガラス爆弾が使われましたが、

    ガラスはだめでした。

    ・・・・ペストに感染したネズミ1匹に

    ノミを600グラム、だいたい3000~6000匹たからせて落とすと、

    ノミが地上に散らばるというやり方です

    ・・ベトナム戦争で使った枯葉剤の主剤はダイオキシンです。

    もちろん731部隊でもダイオキシンの

    基礎研究をやっていました。

    アメリカは、この研究成果をもって行って使いました。

    朝鮮戦争のときは石井部隊の医師達が朝鮮に行って、

    この効果などを調べているのですが、

    このことは絶対に誰も話さないと思います。

    アメリカが朝鮮で細菌兵器を使って

    自分の軍隊を防衛できなくなると困るので

    連れて行ったのです。

    1940年に新京でペストが大流行したことがありました。

    (注:731部隊がやったと言われている)

    ・・・・そのとき隊長の命令で、

    ペストで死んで埋められていた死体を掘り出して、

    肺や肝臓などを取り出して標本にし、

    本部に持って帰ったこともありました。

    各車両部隊から使役に来ていた人たちに

    掘らせ、メスで死体の胸を割って

    肺、肝臓、腎臓をとってシャ-レの培地に塗る、

    明らかにペストにかかっていると

    わかる死体の臓器をまるまる

    持っていったこともあります。

    私にとっては、これが1番いやなことでした。

    人の墓をあばくのですから・・・・

     

    ● 匿名 731部隊少佐 薬学専門家

    1981年11月27日 毎日新聞に掲載されたインタビュ-から

    昭和17年4月、731と516両部隊が

    ソ満国境近くの都市ハイラル郊外の草原で

    3日間、合同実験をした。

    「丸太」と呼ばれた囚人約100人が使われ、

    4つのトーチカに1回2~3人ずつが入れられた。

    防毒マスクの将校が、

    液体青酸をびんに詰めた「茶びん」と呼ぶ毒ガス弾を

    トーチカ内に投げ、

    窒息性ガスのホスゲンをボンベから放射した。

    「丸太」にはあらかじめ心臓の動きや

    脈拍を見るため体にコードをつけ、

    約50メートル離れた机の上に置いた心電図の計器などで、

    「死に至る体の変化」を記録した。

    死が確認されると将校たちは、

    毒ガス残留を調べる試験紙を手に

    トーチカに近づき、死体を引きずり出した。

    1回の実験で死ななかった者には

    もう1回実験を繰り返し、全員を殺した。

    死体はすべて近くに張ったテントの中で解剖した。

    「丸太」の中に68歳の中国人の男性がいた。

    この人は731部隊内でペスト菌を注射されたが、

    死ななかったので毒ガス実験に連れて来られた。

    ホスゲンを浴びせても死なず、

    ある軍医が血管に空気を注射した。

    すぐに死ぬと思われたが、死なないので

    かなり太い注射器でさらに空気を入れた。

    それでも生き続け、最後は木に首を吊って殺した。

    この人の死体を解剖すると、

    内臓が若者のようだったので、

    軍医たちが驚きの声を上げたのを覚えている。

    昭和17年当時、

    部隊の監獄に白系ロシア人の婦人5人がいた。

    佐官級の陸軍技師(吉村寿人?)は

    箱状の冷凍装置の中に彼女等の手を突っ込ませ、

    マイナス10度から同70度まで順々に温度を下げ、

    凍傷になっていく状況を調べた。

    婦人たちの手は肉が落ち、骨が見えた。

    婦人の1人は監獄内で子供を産んだが、

    その子もこの実験に使われた。

    その後しばらくして監獄をのぞいたが、

    5人の婦人と子供の姿は見えなくなっていた。

    死んだのだと思う。

     

    ●山内豊紀 証言  1951年11月4日 中国档案館他編「人体実験」

    われわれ研究室の小窓から、

    寒い冬の日に実験を受けている人がみえた。

    吉村博士は6名の中国人に一定の負荷を背負わせ、

    一定の時間内に一定の距離を往復させ、

    どんなに寒くても夏服しか着用させなかった。

    みていると彼らは日ましに痩せ衰え、

    徐々に凍傷に冒されて、一人ひとり減っていった。

     

    ●秦正 自筆供述書 1954年9月7日 中国档案館他編「人体実験」

    私はこの文献にもとづいて

    第一部吉村技師をそそのかし残酷な実験を行わせた。

    1944年冬、彼は出産まもない

    ソ連人女性愛国者に対して凍傷実験を行った。

    まず手の指を水槽に浸してから、

    外に連れだして寒気の中にさらし、

    激痛から組織凍傷にまでいたらしめた。

    これは凍傷病態生理学の実験で、

    その上で様々な温度の温水を使って「治療」を施した。

    日を改めてこれをくり返し実施した結果、

    その指はとうとう壊死して脱落してしまった。

    (このことは、冬期凍傷における手指の

    具体的な変化の様子を描くよう命じられた画家から聞いた)

    その他、ソ連人青年1名も同様の実験に使われた。

     

    ●上田弥太郎 供述書 731部隊の研究者 1953年11月11日 

            中国档案館他編「人体実験」

    1943年4月上旬、7・8号棟で体温を測っていたとき

    中国人の叫び声が聞こえたので、すぐに見に行った。

    すると、警備班員2名、凍傷班員3名が、

    氷水を入れた桶に1人の中国人の手を浸し、

    一定の時間が経過してから取り出した手を、

    こんどは小型扇風機の風にあてていて、

    被実験者は痛みで床に倒れて叫び声をあげていた。

    残酷な凍傷実験を行っていたのである。

     

    ●同上 上田弥太郎 中国人民抗日戦争記念館所蔵の証言

    ・・・・すでに立ち上がることさえできない

    彼の足には、依然として重い足かせがくいこんで、

    足を動かすたびにチャラチャラと

    鈍い鉄の触れ合う音をたてる

    ・・・・外では拳銃をぶら下げたものものしい

    警備員が監視の目をひからせており、

    警備司令も覗いている。

    しかし誰一人としてこの断末魔の叫びを

    気にとめようともしない。

    こうしたことは毎日の出来事であり、

    別に珍しいものではない。

    警備員は、ただこの中にいる200名くらいの

    中国人が素直に殺されること、

    殺されるのに反抗しないこと、

    よりよきモルモット代用となることを監視すればよいのだ

    ・・・・ここに押し込められている人々は、

    すでに人間として何一つ権利がない。

    彼らはこの中に入れば、

    その名前はアラビア数字の番号と

    マルタという名前に変わるのだ。

    私たちはマルタ何本と呼んでいる。

    そのマルタ000号、彼がいつどこから

    どのようにしてここに来たかはわからない。

     

    ● 篠塚良雄  731部隊少年隊 1923年生  1994年10月証言

    ・・・1939年4月1日、

    「陸軍軍医学校防疫研究室に集まれ」という指示を受けました

    ・・・・5月12日中国の平房に転属になりました

    ・・・・731部隊本部に着いて、まず目に入ったのは

    「関東軍司令官の許可なき者は

    何人といえども立入りを禁ず」と

    書かれた立て看板でした。

    建物の回りには壕が掘られ

    鉄条網が張り巡らされていました。

    「夜になると高圧電流が流されるから気をつけろ」

    という注意が与えられました

    ・・・・当時私は16歳でした。

    私たちに教育が開始されました・・・・

    「ここは特別軍事地域に指定されており、

    日本軍の飛行機であってもこの上空を飛ぶことはできない。

    見るな、聞くな、言うな、これが部隊の鉄則だ」

    というようなことも言われました。・・・・

    「防疫給水部は第1線部隊に跟随し、

    主として浄水を補給し直接戦力の保持増進を量り、

    併せて防疫防毒を実施するを任務とする」と強調されました

    ・・・・石井式衛生濾水機は甲乙丙丁と

    車載用、駄載用、携帯用と分類されていました

    ・・・・濾過管は硅藻土と澱粉を混ぜて焼いたもので

    “ミクロコックス”と言われていました

    ・・・・細菌の中で1番小さいものも

    通さないほど性能がいいと聞きました

    ・・・・私は最初は動物を殺すことさえ

    直視できませんでした。

    ウサギなどの動物に硝酸ストリキニ-ネとか

    青酸カリなどの毒物を注射して

    痙攣するのを直視させられました。

    「目をつぶるな!」と言われ、

    もし目をつぶれば鞭が飛んでくるのです

    ・・・・私に命じられたのは、

    細菌を培養するときに使う菌株、

    通称“スタム”を研究室に取りに行き運搬する仕事でした。

    江島班では赤痢菌、田部井班ではチフス菌、

    瀬戸川班ではコレラ菌と言うように

    それぞれ専門の細菌研究が進められていました

    ・・・・生産する場所はロ号棟の1階にありました。

    大型の高圧滅菌機器が20基ありました

    ・・・・1回に1トンの培地を溶解する溶解釜が

    4基ありました

    ・・・・細菌の大量生産で使われていたのが石井式培養缶です。

    この培養缶1つで何10グラムという細菌を作ることができました。

    ノモンハンのときには1日300缶を培養したことは

    間違いありません

    ・・・・ここの設備をフル稼働させますと、

    1日1000缶の石井式培養缶を操作する事が出来ました。

    1缶何10グラムですから膨大な細菌を作ることができたわけです

    ・・・・1940年にはノミの増殖に動員されました

    ・・・・ペストの感受性の一番強い動物は

    ネズミと人間のようです。

    ペストが流行するときにはその前に

    必ず多くのネズミが死ぬと言うことでした。

    まずネズミにペスト菌を注射して感染させる。

    これにノミをたからせて低空飛行の飛行機から落とす。

    そうするとネズミは死にますが、

    ノミは体温の冷えた動物からは

    すぐに離れる習性を持っているので、

    今度は人間につく。

    おそらくこういう形で流行させたのであろうと思います

    ・・・・柄沢班でも、生体実験、生体解剖を

    毒力試験の名のもとに行ないました

    ・・・・私は5名の方を殺害いたしました。

    5名の方々に対してそれぞれの方法で

    ペストのワクチンを注射し、

    あるいはワクチンを注射しないで、

    それぞれの反応を見ました。

    ワクチンを注射しない方が1番早く発病しました。

    その方はインテリ風で頭脳明晰といった感じの方でした。

    睨みつけられると目を伏せる以外に方法がありませんでした。

    ペストの進行にしたがって、

    真黒な顔、体になっていきました。

    まだ息はありましたが、

    特別班の班員によって裸のまま解剖室に運ばれました

    ・・・・2ケ月足らずの間に5名の方を殺害しました。

    特別班の班員はこの殺害した人たちを、

    灰も残らないように焼却炉で焼いたわけであります。

     注:ノモンハン事件

       1939年5月11日、満州国とモンゴルの国境付近の

       ノモンハンで、日本側はソ連軍に攻撃を仕掛けた。

       ハルハ河事件とも言う。

       4ケ月続いたこの戦いは圧倒的な戦力の

       ソ連軍に日本軍は歯が立たず、

       約17,000人の死者を出した。

       ヒットラ-のポーランド侵攻で停戦となった。

       あまりにみっともない負け方に

       日本軍部は長い間ノモンハン事件を秘密にしていた。

       731部隊は秘密で参加し、ハルハ河、ホルステイン河に

       赤痢菌、腸チフス菌、パラチフス菌を流した。

       参加者は、隊長碇常重軍医少佐、草味正夫薬剤少佐、

       作山元治軍医大尉、瀬戸尚二軍医大尉、

       清水富士夫軍医大尉、その他合計22名だった。

       ハバロフスクの裁判記録に証言があります。

     

    ● 鶴田兼敏 731部隊少年隊 1921年生

    1994年731部隊展の報告書から

    入隊は1938年11月13日でしたが、

    まだそのときは平房の部隊建物は建設中でした

    ・・・・下を見ますと“マルタ”が収容されている

    監獄の7・8棟の中庭に、

    麻袋をかぶった3~4人の人が輪になって歩いているのです。

    不思議に思い、班長に「あれは何だ?」と聞いたら、

    「“マルタ”だ」と言います。

    しかし私には“マルタ”という意味がわかりません。

    するとマルタとは死刑囚だと言うんです。

    軍の部隊になぜ死刑囚がいるのかと疑問に思いましたが、

    「今見たことはみんな忘れてしまえ!」と言われました・・・・

    基礎教育の後私が入ったのは昆虫班でした。

    そこでは蚊、ノミ、ハエなど

    あらゆる昆虫、害虫を飼育していました。

    ノミを飼うためには、18リットル入りのブリキの缶の中に、

    半分ぐらいまでおが屑を入れ、

    その中にノミの餌にするおとなしい

    白ネズミを籠の中に入れて固定するんです。

    そうするとたいてい3日目の朝には、

    ノミに血を吸い尽くされてネズミは死んでいます。

    死んだらまた新しいネズミに取りかえるのです。

    一定の期間が過ぎると、缶の中のノミを集めます。

    ノミの採取は月に1,2度行なっていました

    ・・・・ノモンハン事件の時、

    夜中に突然集合がかかったのです

    ・・・・ホルステイン川のほとりへ連れていかれたのです。

    「今からある容器を下ろすから、

    蓋を開けて河の中に流せ」と命令されました。

    私たちは言われたままに作業をしました

    ・・・・基地に帰ってくると、

    石炭酸水という消毒液を頭から足の先までかけられました。

    「何かやばいことをやったのかなあ。

    いったい、何を流したのだろうか」という疑問を持ちました

    ・・・・後で一緒に作業した内務班長だった

    衛生軍曹はチフスで死んだことを聞き、

    あの時河に流したのはチフス菌だったとわかったわけです

    ・・・・いまだに頭に残っているものがあります。

    部隊本部の2階に標本室があったのですが、

    その部屋でペストで殺された“マルタ”の生首が

    ホルマリンの瓶の中に浮いているのを見たことです。

    中国人の男性でした。

    また1,2歳の幼児が天然痘で殺されて、

    丸ごとホルマリンの中に浮いているのも見ました。

    それもやはり中国人でした。

    今もそれが目に焼きついて離れません。

     

    ●小笠原 明 7311部隊少年隊 1928年生れ 

              1993~94年の証言から

    ・・・・部隊本部棟2階の部隊長室近くの

    標本室の掃除を命じられました

    ・・・・ドアを開けたところに、

    生首の標本がありました。

    それを見た瞬間、胸がつまって

    吐き気を催すような気持になって目をつぶりました。

    標本室の中の生首は「ロスケ(ロシア人)」の首だと思いました。

    すぐ横の方に破傷風の細菌によって死んだ人の標本がありました。

    全身が標本となっていました。

    またその横にはガス壊疽の標本があり、

    太ももから下を切り落としてありました。

    これはもう生首以上にむごたらしい、

    表現できないほどすごい標本でした。

    拭き掃除をして奥の方に行けば、

    こんどは消化器系統の病気の

    赤痢、腸チフス、コレラといったもので

    死んだ人を病理解剖した標本がたくさん並べてありました

    ・・・・田中大尉の部屋には

    病歴表というカードがおいてあって、

    人体図が描いてあって、

    どこにペストノミがついてどのようになったか

    詳しく記録されていました。

    人名も書いてありました。

    このカードはだいたい5日から10日以内で名前が変ります。

    田中班ではペストの人体実験をして数日で死んだからです

    ・・・・田中班と本部の研究室の間には

    人体焼却炉があって毎日黒い煙が出ておりました

    ・・・・私は人の血、つまり“マルタ”の血を

    毎日2000から3000CC受取ってノミを育てる研究をしました

    ・・・・陶器製の爆弾に細菌やノミやネズミを

    詰込んで投下実験を何回も行ないました

    ・・・・8月9日のソ連の参戦で

    証拠隠滅のためにマルタは全員毒ガスで殺しました。

    10日位には殺したマルタを

    中庭に掘った穴にどんどん積み重ねて焼きました。

     

    ●千田英男 1917年生れ 731部隊教育隊 1974年証言

    ・・・・「今日のマルタは何番・・・・何番・・・・何番

    ・・・・以上10本頼む」

    ここでは生体実験に供される人たちを

    ”丸太”と称し、一連番号が付けられていた

    ・・・・中庭の中央に2階建ての丸太の収容棟がある。

    4周は3層の鉄筋コンクリ-ト造りの建物に囲まれていて、

    そこには2階まで窓がなく、

    よじ登ることもはい上がることもできない。

    つまり逃亡を防ぐ構造である。通称7,8棟と称していた・・・・

     

    *石橋直方   研究助手

    私は栄養失調の実験を見ました。

    これは吉村技師の研究班がやっていたんだと思います。

    この実験の目的は、

    人間が水と乾パンだけでどれだけ生きられるかを

    調べることだったろうと思われます。

    これには2人のマルタが使われていました。

    彼らは部隊の決められたコ-スを、

    20キログラム程度の砂袋を背負わされて

    絶えず歩き回っていました。

    1人は先に倒れて、2人とも結局死にました。

    食べるものは軍隊で支給される乾パンだけ、

    飲むのは水だけでしたからね、

    そんなに長いこと生きられるはずがありません。

     

    ●越定男  731部隊第3部本部付運搬班

    1993年10月10日、山口俊明氏のインタビュ-

    -東条首相も視察に来た

     本部に隣接していた専用飛行場には、

     友軍機と言えども着陸を許されず、

     東京からの客は新京(長春)の飛行場から

     平房までは列車でした。

     しかし東条らの飛行機は専用飛行場に

     降りましたのでよく覚えています。

    -マルタの輸送について

     ・・・・最初は第3部長の送り迎え、、

     郵便物の輸送、通学バスの運転などでしたが、

     間もなく隊長車の運転、

     マルタを運ぶ特別車の運転をするようになりました。

     マルタは、ハルピンの憲兵隊本部、特務機関、

     ハルピン駅ホ-ムの端にあった憲兵隊詰所、

     それに領事館の4ケ所で受領し

     4.5トンのアメリカ製ダッジ・ブラザ-スに積んで運びました。

     日本領事館の地下室に手錠をかけた

     マルタを何人もブチ込んでいたんですからね。

     最初は驚きましたよ。

     マルタは特別班が管理し、

     本部のロ号棟に収容していました。

     ここで彼らは鉄製の足かせをはめられ、

     手錠は外せるようになっていたものの、

     足かせはリベットを潰されてしまい、

     死ぬまで外せなかった。

     いや死んでからも外されることはなかったんです。

     足かせのリベットを潰された時の

     マルタの心境を思うと、やりきれません。

    -ブリキ製の詰襟

     私はそんなマルタを度々、

     平房から約260キロ離れた安達の牢獄や

     人体実験場へ運びました。

     安達人体実験場ではマルタを十字の木にしばりつけ、

     彼らの頭上に、超低空の飛行機から

     ペスト菌やコレラ菌を何度も何度も散布したのです。

     マルタに効率よく細菌を吸い込ませるため、

     マルタの首にブリキで作った詰襟を巻き、

     頭を下げるとブリキが首に食い込む

     仕掛けになっていましたから、

     マルタは頭を上に向けて呼吸せざるを得なかったのです。

     むごい実験でした。

    -頻繁に行われた毒ガス実験

     731部隊で最も多く行われた実験は

     毒ガス実験だったと思います。

     実験場は専用飛行場のはずれにあり、

     四方を高い塀で囲まれていました。

     その中に外から視察できるようにした

     ガラス壁のチャンバ-があり、

     観察器材が台車に乗せられて

     チャンバ-の中に送り込まれました。

     使用された毒ガスはイペリットや青酸ガス、

     一酸化炭素ガスなど様々でした。

     マルタが送り込まれ、毒ガスが噴射されると、

     10人ぐらいの観察員がドイツ製の

     映写機を回したり、ライカで撮影したり、

     時間を計ったり、記録をとったりしていました。

     マルタの表情は刻々と変わり、

     泡を噴き出したり、喀血する者もいましたが、

     観察員は冷静にそれぞれの仕事をこなしていました。

     私はこの実験室へマルタを運び、

     私が実験に立ち会った回数だけでも

     年間百回ぐらいありましたから、

     毒ガス実験は頻繁に行われていたとみて間違いないでしょう。

    -逃げまどうマルタを

     あれは昭和19年のはじめ、

     凍土に雪が薄く積もっていた頃、

     ペスト弾をマルタに撃ち込む実験の日でした。

     この実験は囚人40人を円状に並べ、

     円の中央からペスト菌の詰まった細菌弾を撃ち込み、

     感染具合をみるものですが、

     私たちはそこから約3キロ離れた所から双眼鏡をのぞいて、

     爆発の瞬間を待っていました。

     その時でした。

     1人のマルタが繩をほどき、マルタ全員を助け、

     彼らは一斉に逃げ出したのです。

     驚いた憲兵が私のところへ素っ飛んで来て、

     「車で潰せ」と叫びました。

     私は無我夢中で車を飛ばし、

     マルタを追いかけ、

     足かせを引きずりながら逃げまどう

     マルタを1人ひとり潰しました。

     豚は車でひいてもなかなか死にませんが、

     人間は案外もろく、直ぐに死にました。

     残忍な行為でしたが、

     その時の私は1人でも逃がすと中国やソ連に

     731部隊のことがバレてしまって、

     我々が殺される、という思いだけしかありませんでした。

    -囚人は全員殺された

     731部隊の上層部は日本軍の敗戦を

     いち早く察知していたようで、

     敗戦数ケ月前に脱走した憲兵もいました。

     戦局はいよいよ破局を迎え、

     ソ連軍が押し寄せてきているとの情報が伝わる中、

     石井隊長は8月11日、隊員に最後の演説を行い、

     「731の秘密は墓場まで持っていけ。

     機密を漏らした者がいれば、

     この石井が最後まで追いかける」と脅迫し、

     部隊は撤収作業に入りました。

     撤収作業で緊急を要したのはマルタの処理でした。

     大半は毒ガスで殺されたようですが、

     1人残らず殺されました。

     私たちは死体の処理を命じられ、

     死体に薪と重油かけて燃やし、

     骨はカマスに入れました。

     私はそのカマスをスンガリ(松花江)に運んで捨てました。

     

    被害者は全員死んで証言はありませんが、

    部隊で働いていた中国人の証言があります。

     

    ●傳景奇 ハルピン市香坊区 1952年11月15日 証言

    私は今年33歳です。

    19歳から労工として「第731部隊」で働きました。

    班長が石井三郎という石井班で、

    ネズミ籠の世話とか他の雑用を8・15までやっていました。

    私が見た日本人の罪悪事実は以下の数件あります。

     1. 19歳で工場に着いたばかりの時は秋で

      「ロ号棟」の中でいくつかの器械が

      血をかき混ぜているのを見ました。

      当時私は若く中に入って仕事をやらされました。

      日本人が目の前にいなかったのでこっそり見ました。

     2. 19歳の春、第一倉庫で薬箱を並べていたとき

      不注意から箱がひっくりかえって壊れました。

      煙が一筋立ち上がり、我々年少者は煙に巻かれ気が遠くなり、

      涙も流れ、くしゃみで息も出来ませんでした。

     3. 21歳の年、日本人がロバ4頭を程子溝の棒杭に繋ぐと、

      しばらくして飛行機からビ-ル壜のような物が4本落ちてきた。

      壜は黒煙をはき、4頭のロバのうち

      3頭を殺してしまったのを見ました。

     4. 22歳の時のある日、日本人が昼飯を食べに帰ったとき、

      私は第一倉庫に入り西側の部屋に死体がならべてあるのを見ました。

     5. 康徳11年(1944年)陰暦9月錦州から来た

      1200人以上の労工が工藤の命令で

      日本人の兵隊に冷水をかけられ、

      半分以上が凍死しました。

     6. 工場内で仕事をしているとき

      動物の血を採っているのを見たし、

      私も何回か採られました

     

    ●関成貴 ハルピン市香坊区 1952年11月4日 証言

    私は三家子に住んで40年以上になります。

    満州国康徳3年(1936年)から第7731部隊で

    御者をして賃金をもらい生活を支えていました。

    康徳5年から私は「ロ号棟」後ろの「16棟」房舎で

    日本人が馬、ラクダ、ロバ、兎、ネズミ(畑栗鼠とシロネズミ)、

    モルモット、それにサル等の動物の血を注射器で採って、

    何に使うのかわかりませんでしたが、

    その血を「ロ号棟」の中に運んでいくのを

    毎日見るようになりました。

    その後康徳5年6月のある日

    私が煉瓦を馬車に載せて「ロ号棟」入り口でおろし、

    ちょうど数を勘定していると

    銃剣を持った日本兵が何名か現れ、

    馬車で煉瓦を運んでいた中国人を

    土壁の外に押し出した。

    しかし私は間に合わなかったので

    煉瓦の山の隙間に隠れていると

    しばらくして幌をつけた大型の自動車が

    10台やってきて建物の入り口に停まりました。

    この時私はこっそり見たのですが、

    日本人は「ロ号棟」の中から毛布で体をくるみ、

    足だけが見えている人間を担架に乗せて車に運びました。

    1台10人くらい積み込める車に10台とも全部積み終わり、

    自動車が走り去ってから私たちはやっと外に出られました。

    ほかに「ロ号棟」の大煙突から煙が吹き出る前には

    中国人をいつも外に出しました。

     

    ●羅壽山  証言日不明

    ある日私は日本兵が通りから

    3人の商人をひっぱってきて

    半死半生の目にあわせたのを

    どうすることもできず見ていました。

    彼等は2人を「ロ号棟」の中に連れて行き、

    残った1人を軍用犬の小屋に放り込みました。

    猛犬が生きた人間を食い殺すのを見ているしかなかったのです。

     

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  • 731部隊の土地と建物

    2020/08/07
    16:12

    ハルビン市の近くの平房(ピンファン)に作られた

    731部隊は8キロ四方以上にもなる広大な土地で,

    70~150棟もの建物があった巨大な秘密都市として

    特別軍事地域に指定されました。

    特別軍事地域の為、回りは高い塀に囲まれ、

    上空は飛行禁止とされ、

    たとえ日本軍人であろうとも

    通行証のないものは部隊に入れないくらい

    機密が守られました。

    また部隊内に勤務する者でも

    自分の所属する建物以外で

    何が行なわれていたのか知ってはいけないほど

    秘密に包まれていたこともあって、

    戦後長い間公けにならなかったのです。

    秘密都市には多くの研究施設が作られ、

    日夜身の毛もよだつような微生物の研究、

    特に細菌の研究が行なわれていました。

    敷地と建物に関しては、「731部隊の組織」に

    見取り図を載せたので参考にしてください。
                     
    [ ロ号棟とマルタ ]
    731部隊では細菌を実戦に使用するために

    生体実験を繰り返していました。

    人体実験の犠牲になった人は

    3000人以上と言われています。

    人種による細菌の効力の違いを調べるために

    色々な人種の人達が犠牲になりましたが、

    やはり中国人が大多数を占めていました。

    人体実験をするために捕虜収容所を作りました。

    捕虜収容所は丁度カタカナの

    「ロ(四角)」の形状のためロ号棟と呼ばれていました。

    中国側では四方楼と呼んでいます。

    ロの内側は7号牢獄と8号牢獄という2階建てで

    長さ約40m、巾18mの監獄になっていました。

    一度731部隊の門をくぐりロ号棟に入ったものは

    名前を剥奪され番号をつけられ、

    「マルタ(丸太)」と呼ばれ

    単なる材料として1本2本と数えられました。

    そして再び生きて帰ってくることはありませんでした。

    ロ号棟に入れられた(人体実験用の)捕虜は

    表面上犯罪者で死刑囚と言う名目でしたが、

    実際は関東軍の憲兵隊が町から集めてきて

    特移扱(特別移送扱い)として

    731部隊に送り込んだ一般人も多かったのです。

     

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