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キーワード「大久野島」を含む投稿一覧

  • 土佐沖への毒ガス投棄

    2020/08/04
    16:13

    帝国人絹株式会社(帝人のこと)三原事業所が

    1970年9月20日に「帝人のあゆみ」という社史を発刊しました。

    その社史とその他多くの資料を参考に

    栗原透氏が調査し論文を発表しています。

    その要点です。

     

    ●土佐沖に海没した毒ガス問題について

    土佐沖の海没毒ガスを調査する会代表委員 栗原透

    毒ガス展実行委員会 公開シンポジウム

    「悪魔の兵器の廃絶をめざして」資料から

    「残量量」

     大久野島で生産された毒ガス総量 6,616トン

     敗戦時同島に残存していた量   3,200トン(約)

     アメリカ軍報告書にある残存量  3,647トン(大久野島と大三島合計)

     英連邦軍が確認した残量量    3,260トン

     帝人社史に記載された量     3,240トン

    「経緯」

     1946年1月22日、

     大久野島毒ガス工場を帝人に払い下げることが決定

     条件として毒ガスの処理を帝人が担当すること

     英連邦軍には化学兵器の処理担当将校がいなかったため、

     アメリカの騎兵第1師団の

     化学兵器将校ウイリアムソン少佐が派遣された。

     5月27日から帝人が作業を開始した。

     ウイリアムソン少佐は、大部分の毒ガスを

     老朽化した上陸用船艇LSTに搭載し

     海洋で船もろとも爆沈海没される計画をたてた。

    「投棄された毒ガス」

    毒液      1,845トン

    毒液缶     7,447缶

    くしゃみ剤   9,901缶

    催涙剤      131缶

    60K毒ガス弾   13,272個

    10K毒ガス弾   3,036個

    「投棄した日時と場所」

     第1船

    8月21日21時50分、LST814がア

    メリカ軍曳航LT636に曳航され海没した。

    場所は   北緯32.37度

      東経134.13度

    桂浜から113km、足摺岬から111km、室戸岬から69km

    深さ 2,000m~2,300m

     第2船

    8月26日、LST128が興津丸に曳航され海没した。

    場所は   北緯30.38度

       東経132.22度

    足摺岬から235km南、都井岬から125km東

    深さ 3,000m~3,200m

     第3船

    10月27日、LST128が興津丸に曳航され海没した。

    場所は  北緯32.30度

         東経133.55度

    足摺岬から122km南、室戸岬から88km東

    深さ 1,200m~1,500m

    8,000個以上の60Kマスタ-ドガス弾や

    充填された400トンの毒ガス容器、

    300トンの残留物コンテナ-など

    1,800トン等を沈めた。

     

    このようにして土佐沖に投棄されましたが、

    それ以外に別府湾に投棄された毒ガスがありますが、

    別府湾が浅くて危険なため

    引き上げ再度土佐沖に投棄されました。

    計4箇所に投棄されたということになります。

    具体的に土佐沖のどの辺りなのか、地図で示します。

    ドクガ土佐沖海没

     

    土佐沖の毒ガスは現在でもそのままです。

    塩水で腐食されてジワジワと

    漏れ出している可能性があります。

    可能な限り場所を特定し

    回収処理を進める必要があります。

     

     

    つづきを読む

  • 広島での毒ガス処理

    2020/08/04
    15:41

    日本の敗戦後すぐに占領軍は全国に進駐しました。

    広島県はアメリカ太平洋陸軍第10軍第41師団が担当しました。

    最近広島大学石田雅春助教が発見した

    アメリカ軍資料があります。

    吉川弘文館「日本歴史」

    2014年8月号に論文から引用します。

    各部隊の調査の過程で

    大久野島や忠海での毒ガス情報をつかんだ第41師団は

    昭和20年12月26日に化学兵器の集積一覧表を作りました。

     

    ●大久野島・忠海地区の化学兵器及び化学戦資材一覧

      米軍代41師団司令部化学班まとめ 昭和21年1月末現在

      当該地区の関係地図と照らし合わせると分かりやすいと思います。

    SCN_0088 毒ガス処理の島

     

    所在地

    品名

    数量

    処置

    忠海

     

     

    94式大発煙筒

    6,735個

    廃棄

    94式水上発煙筒

    35,949個

    廃棄

    94式小発煙筒

    207,210個

    廃棄

    94式代用発煙筒

    245,220個

    廃棄

    97式信号用発煙筒

    9,156個

    廃棄

    97式発煙筒

    11,020個

    廃棄

    89式催涙筒

    141,630個

    未廃棄

    89式催涙棒

    141,072個

     〃

    擬似イペリット

    191,906ガロン

    廃棄

    99式発射発煙筒

    542,389個

    〃

    99式大あか筒

    8,339個

    未廃棄

    93式特殊発煙筒

    1,670個

     〃

    98式小あか筒

    29,953個

     〃

    100式小あか筒

    45,814個

     〃

    100式中あか筒

    17,460個

     〃

    98式中あか筒

    7,210個

     〃

    1式大あか筒

    798個

     〃

    94式水上発煙筒用ゴム製浮袋

    55,000個

    廃棄

    大久野島

     

     

    94式水上発煙筒

    14,485個

    廃棄

    94式大発煙筒

    3,364個

     〃

    Striker Head for Smoke Candle

    3,400個

     〃

    シアン化ナトリウム(青酸ソーダ)

    391トン

    廃棄・引渡し

    ヨウ化カリウム

    0.357トン

    引渡し

    チオジグリコ-ル

    113トン

    廃棄

    アルコ-ル

    4,410ガロン

    引渡し

    ヘキサクロロフィン

    60トン

    廃棄

    ベンゼン

    3トン

    引渡し

    酸化亜鉛

    10トン

    廃棄・引渡し

    粉末状亜鉛

    8トン

    廃棄・引渡し

    セルロイド

    140トン

    廃棄

    シアン化水素(ちゃ1号)

    15トン

    引渡し

    ルイサイト(きい2号、貯蔵タンク入)

    840トン

    未廃棄

    ルイサイト(きい2号、ドラム缶入)

    70トン

     〃

    イペリット(きい1号甲、貯蔵タンク入)

    430トン

     〃

    イペリット(きい1号乙、貯蔵タンク入)

    150トン

     〃

    イペリット(きい1号丙、貯蔵タンク入)

    620トン

     〃

    ジフェニ-ルシアノアルシン(あか1号)

    1,035トン

     〃

    クロロアセトフェノン(みどり1号)

    7トン

     〃

    亜ヒ酸

    106トン

    引渡し

    塩酸

    28トン

    引渡し

    硝酸

    22トン

    引渡し

    トルエン

    47トン

    引渡し

    硫酸

    154トン

    引渡し

    アセトン

    4トン

    引渡し

    ナフタレン

    15トン

    引渡し

    シアン化水素用シリンダ-(空容器)

    6,300個

    未廃棄

    ルイサイト用ドラム缶(空容器)

    200個

    未廃棄

    イペリット用ドラム缶(空容器)

    1,850個

    未廃棄

    炭酸カルシウム

    12トン

    未廃棄

    プロピレングリコ-ル

    3トン

    未廃棄

    炭酸カルシウム

    38トン

    引渡し

    二硫化炭素

    0.5トン

    引渡し

    Pyro Sodium Sulfide

    12トン

    引渡し

    水酸化ナトリウム

    32トン

    未廃棄

    ジフェニルアルシン

    57トン

    未廃棄

    阿波島

     

     

    99式あか筒

    2,919個

    未廃棄

    1式大あか筒

    33,166個

     〃

    98式中あか筒

    420個

     〃

    100式中あか筒

    46,640個

     〃

    98式小あか筒

    44,650個

     〃

    100式発射あか筒

    3,529,994個

     〃

    大三島

     

    クロロアセトフェノン(みどり1号)

    7トン

    未廃棄

    ジフェニルシアノアルシン(あか1号)

    595トン

    〃

     

    これらの調査の結果アメリカ軍は

    第58化学戦総合中隊を現地に派遣し

    廃棄作業に取り掛かりました。

    上記の表で廃棄とされているものです。

     

    次の表が廃棄した一覧ですが、

    数え方の違いや表記の違いがあるため

    必ずしも一致していません。

     

    ●廃棄された化学兵器および化学戦資材一覧

    1945年11月12日~24日

    第58化学戦総合中隊

    所在地

    品名

    数量

    忠海

     

     

    94式大発煙筒(1箱1個入)

    3,506個

    94式水上発煙筒(1箱3個入)

    8,817個

    三式手榴弾(1箱30個入)

    11,790個

    発煙筒(形式不明)

    232,456缶

    大久野島

     

     

     

    94式水上発煙筒(1箱3個入)

    14,485個

    94式大発煙筒(1箱1個入)

    3,634個

    発射発煙筒(大型発煙筒用と推定)

    3,400個

    六塩化エタン

    60トン

    粉末状亜鉛

    7.5トン

    塩化亜鉛

    10トン

    水上発煙筒用ゴム製浮袋

    55,000個

    チオジグリコ-ル

    84トン

    シアン化ナトリウム(青酸ソーダ)

    33.4トン

     

    廃棄に関しては危険性も考慮し

    無難で廃棄しやすいものから廃棄したようです。

    しかしシアン化ナトリウム(青酸ソーダ)などの

    毒物も廃棄されています。

    その証言があります。

     

    ●元所長 山中峰次氏の証言

     進駐軍は青酸カリ(ソ-ダ)が手軽く扱えたから、

     先ず投棄した時の海面は

     真っ白くなる程魚が死亡して浮いた。

     兵隊連中は面白がって次々に投棄した。

     その数は数千トンと思う。・・・・

     進駐軍の内■■は島の5浬以内の海域に

     投棄すると申しておった・・・・

     

    以上は日本陸軍の毒ガスですが、

    広島では海軍の毒ガスも

    アメリカ軍第41師団によって発見されています。

     

    ●川上地区(現在 東広島市八本松)     イ

     ペリット充填の60キロ爆弾 6,382発 (海軍倉庫から発見)

     アメリカ軍は海中投棄を計画するが最終的に実行せずに

     英連邦軍に引き渡されたと思われる

     

    ●切串地区(現在 江田島市)

     イペリット充填の60キロ爆弾 4,810発

     12月23日に豊後水道南側に海中投棄されたと思われる。

     その後12月26日に再び別の毒ガス弾が発見されました。

     イペリット充填の60キロ爆弾  1,548発

     これは投棄が間に合わず英連邦軍に引き継がれたようです。

     

    *日之浦地区(現在 呉市安浦)

     イペリット充填の60キロ爆弾 6,655発 

     (安浦海兵団施設から発見)

     廃棄は見送られた

     

    その後アメリカ軍41師団は

    1945年12月31日に動員解除となり

    第58化学戦総合中隊も翌年1月に撤退しました。

     

    その後を引き継いだのは

    英連邦軍(オ-ストラリア軍)です。

    米国軍、英国連邦軍と日本政府は協力して処理は進みました。

    おそらく東京裁判で取り上げられないよう

    秘密に処理する事に、

    米国も英国も協力したものと思われます。

     

    1946年5月から1947年5月にかけて

    英連邦軍・帝国人絹㈱三原工場が協力して

    廃棄処理が始まりました。

    危険な作業の中で設備や関連物資は焼却し、

    爆弾200,000発を現地に埋設し、

    毒性の強いイペリットやルイサイトは

    数回に分けて海中投棄されています。

     

     

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  • 生産地での被害

    2020/08/04
    11:53

    毒ガスを使用した中国だけではなく、

    実は生産をしていた日本でも被害は出ていました。

    生産地の広島県大久野島や相模原の

    日本人作業員が毒ガスにやられています。

    戦後毒ガスの後遺症で死亡した人は1,900人を超えます。

    国家公務員等共済組合連合会忠海病院の行武院長の談話では、

    多くは呼吸器のガンで、通常より20倍も高い発生率だそうです。

    現在でも4,500人位の人が政府に対し

    「原爆に対するのと同じような補償」を求めています。(1997年現在)

    1951年に被害者団体は「せめて原爆なみの救済を・・・・」と、

    政府に請願しました。

    政府の対応は「国際法違反を認めるような法案の審議は

    我が国にとって好ましくない・・・」と審議は中止され、

    その代わり旧日本陸軍共済組合特別措置法を適用し、

    「ガス障害者救済のための特別措置要綱」が決められました。

    これは旧陸軍共済組合・・・・と言う建前なので、

    ガスによる被害が確実でも、

    旧陸軍との雇用関係が証明できないと

    対象にならないという片手落ちの処置でした。

    また「毒」という字を外しているのも

    その場逃れのごまかしでしょう。

    実は戦後、日本国内に関しては

    占領軍の英連邦軍が毒ガス弾の処理担当しましたが、

    その「毒ガス廃棄報告書」によれば

    処理作業で2名の死亡者、

    100名以上の負傷者が出ているそうです。

     

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  • 毒ガス製造工場

    2020/07/31
    15:11

    毒ガスはその使用頻度から考えて

    陸軍が主ですが、海軍もあります。

    陸軍は1929年に広島県の大久野島に

    毒剤製造工場を建設しました。

    それ以前、1902年から

    大久野島は広島や呉の軍港を守るために

    砲台や火薬庫を備えた「芸予要塞」でした。

    白川義則陸軍大臣、政友会代議士望月圭介、

    忠海町町長望月忠吉(望月圭介の息子)らの計らいで

    誘致が決まりました。

    工場の正式名は「陸軍造兵廠忠海製造所」です。

    場所は鉄道の三原と竹原の中間忠海駅にある港、

    忠海港から船で15分位のところにあります。

     

    ●1988年に設立された現地の資料館資料では、

     5種類の毒ガスが製造されたとされています。

        (別資料では7種類とも言われています)

      毒ガスの製造量 6,616トン

      毒ガスの種類  イペリット

              ルイサイト

              青酸ガス

              ジフェ-ニ-ルシアンアルシン

              クロロアセトフェノン

     

    島は軍の機密保持のため1935年から

    終戦まで地図から抹殺されてしまいました。

    現在は国民休暇村に指定され、

    何も知らない人々が保養に訪れています。

    1931年には北九州小倉に

    陸軍造兵廠曽根製造所が作られ、

    大久野島で生産された毒ガスを

    充填して砲弾・爆弾・手榴弾など

    13種類の武器を製造し始めました。

     

    海軍では神奈川県平塚の

    海軍技術研究所化学研究部や

    寒川の相模海軍工廠で生産をしました。

    その他、朝鮮・台湾・中国・東南アジアにも

    生産施設はあったようですが、

    まだよく分かっていません。

    軍以外では民間の化学工場(薬品・農薬)が

    軍需工場として毒ガスを生産して

    軍に納めていたようです。

     

    ●広島県の大久野島

    SCN_0088   大久野島

     

     

     

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  • 陸軍の兵器工場

    2020/07/31
    14:32

    前項目、久村中佐の欧米視察の前後から

    陸軍では化学兵器の生産計画が始まっています。

    年代順に整理します

    1922年

     新宿戸山が原に創設された

     陸軍科学研究所第二課化学兵器班で研究スタ-ト

     久村種樹中佐をトップにして、

     毒ガス実験・製造施設を建造。

    1924年

     毒ガス研究は陸軍科学研究所第3部に移行。

     調査・防護・運用・整備の4班編成となり

     総勢100人余りになった。

    1925年5月 

     陸軍科学研究所新築落成

    1926年

     参謀本部内に毒ガス研究会を設置

    1928年

     広島県大久野島忠海製造所が稼動

    1932年7月

     陸軍科学研究所第二部へと改編

    1933年

     永田鉄山と小泉軍医学校校長は、

     毒ガスを習志野学校で、

     細菌戦は731部隊で行うことを決定。

    1941年6月

     陸軍技術本部第六研究所となる

    1942年10月

     陸軍兵器行政本部設立にともない

     第六陸軍技術研究所と改称された

     

    昭和に入ると広島の大久野島に

    兵器工場の建設が始まりました。

    日清戦争のときに

    広島市に大本営が移され1894年には、

    7ケ月でしたが広島市は臨時の首都になりました。

    呉には海軍の鎮守府が置かれるくらい

    広島は重要な軍都になりました。

    重要な軍都を守る必要もあり

    兵器工場が出来たともいえます。

    当時日本陸軍の兵器生産を

    担当していたのは造兵廠です。

    造兵廠には東京工廠、火工廠、名古屋工廠、

    大阪工廠、平壌兵器製造所があり、

    忠海・大久野島の毒ガス工場は火工廠に属し、

    15番目の兵器製造工場でした。

    最初は忠海兵器製造所として発足し

    その後大久野島に工場が建設されたのです。

    正式には1929年(昭和4年)5月19日に開所式が行われました。

     

    ●陸軍造兵廠の製造所一覧(1932年版)

       「陸軍造兵廠歴史」昭和7年度から

    区分

    製造所名

    所在地

    主要製造品目

    東京工廠

     

    小銃製造所

    東京

    小銃、拳銃、軍刀、銃剣、機関銃、照準具、光学的兵器、電気的兵器等

    砲具製造所

    東京

    砲用弾丸、航空機弾、鋳造品、自動車等

    小倉兵器製造所

    小倉

    砲用弾丸、航空機弾、車両、器具材料

    火工廠

    板橋火薬製造所

    板橋

    火薬、爆薬等

    王子火薬製造所

    王子

    火薬原料、爆薬等

    岩鼻火薬製造所

    岩鼻

    火薬、爆薬等

    宇治火薬製造所

    宇治

    火薬、爆薬等

    十條兵器製造所

    王子

    銃用實包及空包、信管、その他火具類

    起爆剤等

    忠海兵器製造所

    忠海

    爆薬等

    名古屋工廠

    熱田兵器製造所

    名古屋

    車両、器具、材料、砲用薬莢、飛行機、自動車等

    千種兵器製造所

    名古屋

    発動機、小銃、拳銃、銃剣、機関銃等

    大阪工廠

     

    火砲製造所

    大阪

    火砲、車両、器具材料、自動車、発動機等

    弾丸製造所

    大阪

    砲用弾丸、航空機弾、信管、その他火具類

    起爆剤等

    鉄材製造所

    大阪

    鋼材、鋳造品、鍛成品、砲用薬莢等

    平壌兵器製造所

    平壌

    砲用弾丸、航空機弾、車両、器具材料、飛行機等

     

    1938年からは福岡県の陸軍造兵廠曽根兵器製造所で

    化学剤を砲弾や投下弾に充填することが始まりました。

      注:上の表には年代的にまだ記載がありません

    1933年には化学戦教育と

    化学戦資材の運用訓練のために

    陸軍習志野学校が創立されました。

    将来のソ連との戦争を想定していた陸軍は、

    1937年8月に満州チチハルに

    関東軍技術部を創設し中に化学兵器班を置きました。

    化学兵器班は1939年8月に

    満州516部隊(関東軍化学部)へと昇格し、

    第六陸軍技術研究所(陸軍科学研究所第二部)の

    出先機関となります。

     

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