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キーワード「永田鉄山」を含む投稿一覧

  • 石井四郎の経歴

    2020/08/06
    10:05

    この様な秘密部隊は

    全て満州の731部隊から始っていますので、

    731部隊の事を中心に話を進めようと思います。

    その前に731部隊をはじめとする全細菌戦部隊は

    常に最高責任者としての石井四郎と共に語られますので,

    石井の731部隊を作るまでの略歴を書きます。

     

    ●石井四郎の経歴

    1892年6月25日 

     千葉県の千代田村加茂に、

     村一番の大地主の四男として生れる。

     母千代の家は上田藩御殿医の娘なので

     石井は軍医を目指した。

    1916年4月    

     京都帝国大学医学部入学。

     非常に優秀なため教授陣の注目を集める。

    1920年12月          

     卒業後軍医少尉に任官される。
     近衛歩兵第三連隊の見習士官となる。
    1921年4月9日  

     軍医中尉となる。

    1922年8月1日  

     東京第一陸軍病院に転勤。

    1924年      

     京都帝国大学大学院に入り

     細菌学、血清学、病理学、

     予防医学の研究をおこなう。

     京都帝国大学総長荒木寅三郎の娘と結婚、

     医学閥で人脈を持ち出世の道を歩み始める。

    1924年8月     

     軍医大尉になる

    1925年6月    

     ジュネ-ブ軍縮会議出席者、

     陸軍省医務局員の原田二等軍医(軍医中尉)の

     報告書に影響を受け、細菌戦の研究を始めたと言われる。

       注:化学戦、細菌戦を禁止したジュネ-ブ議定書が決まった

         ◎ジュネ-ブ議定書

       正式には「窒息性ガス、毒ガスまたはこれらに類する

       ガスおよび細菌学的手段の戦争における

      使用の禁止に関する議定書」と言う。

    1927年6月    

     微生物学の分野で博士号を取得。

     テーマは「グラム陽性双球菌ニ就ツイテノ研究」

     この頃たびたび東京に来て陸軍省の幹部に細菌戦の支持を訴えた。

    1928年   

     2年間かけて軍事施設の研究の為海外に派遣される。

     20ケ国以上訪問した。

    ◎ 訪問した国

     シンガポ-ル、セイロン、エジプト、ギリシャ、

     トルコ、イタリア、フランス、スイス、ドイツ、 

     オ-ストリア、ハンガリ-、チェコスロバキヤ、

     ベルギ-、オランダ、デンマ-ク、スェ-デン、

     ノルウェ-、フィンランド、ポ-ランド、ソ連、

     エストニア、ラトビア、カナダ、アメリカ・・・・

      石井がこの視察で学んだことは

     ペスト菌の利用だといわれています。

     14世紀にペストで大変な被害を受けたヨ-ロッパは、

     神の怒りに触れるとして、細菌戦の武器として

     ペスト菌を除外していたようです。 

     しかし石井はそのペストの威力に目を付け、

     日本独自の有力武器とすることを決めたと言われているのです。

    1930年    

     帰国

     東京の陸軍軍医学校防疫部教官に任命され、

     軍医少佐になる。

     陸軍上層部をバックに細菌部隊の準備を始める。

    ◎石井の言葉に耳を傾けたと思われる陸軍幹部。

        陸軍大臣    荒木貞夫

        軍務局長    永田鉄山

          (パトロンとして石井を一番応援したとされている)

        作戦課長    鈴木率道

        作戦主任    遠藤三郎

        医務局衛生課長 梶塚隆二

        医務局長    小泉親彦

    1931年    

     石井式濾水機を開発し、

     戦地の汚染された水でも

     安全な飲料水に出来る事から、

     日本陸軍が大量に採用した。

      ◎この濾水機は石井四郎の東京の

       研究所のそばにあった「日本特殊工業㈱」が

       一手に製造販売の権利を与えられ、

       会社は莫大な利益を挙げ、

       石井は高額な顧問料を受取ったといわれています。

       またこの年、細菌の大量生産を可能にする

       「石井式細菌培養缶」を発明した。

    1932年    

     東京の軍医学校内に防疫研究所が設立され

     石井が責任者になる。

     これには軍事医学界の実力者である

     小泉親彦(軍医総監、厚生大臣)の力が

     大きかったと言われています。 

     また各方面にも働きかけたようです。  

     ◎陸軍軍医学校50年史 より 1936年刊

      防疫研究室は国軍防疫上

      作戦業務に関する研究機関として

      陸軍軍医学校内に新設せられたるものなり。

      この新設に関しては昭和3年海外研究員として

      滞欧中なりし陸軍一等軍医石井四郎が、

      各国の情勢を察知し我国に之が対応施設なく、

      国防上一大欠陥ある事を痛感し、

      昭和5年欧州視察を終え帰朝するや、

      前記国防上の欠陥を指摘し

      之が研究整備の急を要する件を

      上司に意見具申せり。

      爾来陸軍軍医学校教官として

      学生指導の傍ら余暇を割き

      日夜実験研究を重ねつつありしが、

      昭和7年小泉教官の絶大なる支援の下に

      上司の認むる処となり、

      軍医学校内に同軍医正を首班とする

      研究室の新設を見るに至りしものなり。

      昭和7年8月陸軍軍医学校に石井軍医正以下

      5名の軍医を新たに配属せられ防疫研究室を開設す。

     ◎遠藤三郎日記(関東軍作戦参謀)1932年1月20日

      石井軍医正来りて細菌戦準備の必要を説明。

      共鳴する点多し。

      速やかに実現すべく処置す

             

    この頃石井四郎はしばしば次のように語っています

    「細菌研究にはAとBの2つがある。

    Aは攻撃の研究であり、Bは防御の研究である。

    ワクチンの製造のようなBは日本国内で出来る。

    しかしAは国外でしか行なえない」

     

    1932年8月11日  

     石井四郎と増田知貞は満州に派遣されました。

     この派遣は目的がはっきりしない派遣で、

     前記軍医学校50年史には

     「・・・・はっきりしない目的の為に

     陸軍軍医学校が石井と他の4名の科学者に助手を派遣した・・・・」

     とあります。

     目的のはっきりしない・・・・とは

     秘密で細菌部隊の準備を始めたと思われます。

    1933年      

     石井の為に満州のハルビンに土地と建物が与えられ、

     数百人の規模で細菌戦研究がスタ-トした。

     ハルビンの約70km南方の背蔭河に部隊が建設される。   

     これが731部隊への実質的スタ-トです。

    1945年      

     帰国、中将で敗戦

    1959年10月9日  

     新宿区若松町の自宅で喉頭がんで死亡

     

    石井とは一体どんな人物だったのでしょうか?

    ●松村知勝関東軍参謀副長(終戦時)の回想録

        「関東軍参謀副長の手記」から

     かって「陸軍には石井という気狂い軍医がいる」といわれた

     豪毅果断で宣伝上手な実行力のある軍医であった。

     彼は若い頃から奇行に富み、軍医学校教官時代、

     筆者が参謀本部編成班に勤務中の

     昭和12年頃もおしかけてきて、

     防疫給水関係の予算とか編成とかに

     強力な要求をしたものである。

     そのためには例えば、

     人間の小便から作った塩だといってなめてみせたり、

     汚水からとったという清水を

     飲んでみせたりして参謀本部のおえら方を驚かせて、

     防疫給水部の編成の拡大強化をはかった。

     全国の医科大学を巡礼して、

     優秀な医者の卵を軍医として獲得するのに奔走したり、

     とにかく大変に企画力に富み実行力豊かな人であり、

     その意志の強さは正に辻参謀に匹敵すると評判であった。

     

    つづきを読む

  • 防疫給水部から731部隊に

    2020/08/05
    16:54

    [ 陸軍軍医学校防疫研究室 ]
    1932年4月1日、陸軍軍医学校内に

    防疫研究室(防研)が梶塚隆二を主幹として

    設立されましたが、これは名目上で、

    実際には8月に石井四郎を中心にして

    活動し開始したようです。

     

    ● 陸軍軍医学校50年史から(読みやすくしてあります)

     ・・・・ひるがえって事変(注:満州事変の事)前における

     世界の情勢と本邦医学界における現況とに鑑み、

     学校においては戦疫予防に関する

     研究の1日もおろそかにすべからずを痛感し、

     1部これの研究に着手していたが、

     たまたま今次事変の突発に際し、

     本予防法の研究はいよいよ切迫せる

     国防上の要務となりし為、

     遂に上司の承認する所となりて

     昭和7年4月防疫部建物地下室の1部を改造し

     応急的に防疫研究室(主幹2等軍医正・梶塚隆二)の

     新設を見るにいたれり・・・・

     小泉親彦教官の絶大なる支援の下に

     上司の認むるところとなり、

     軍医学校内に石井軍医正を首班とする

     研究室の新設を見るにいたりしものなり・・・・

     8月・・・・石井軍医正以下5名の軍医を

     新たに配属せられ防疫研究室を開設す・・・・

    注:防疫部の設立は1922年(大正11年)で

      ワクチン生産が目的でした。

     防疫研究室の目的は今までの防疫学教室や

    防疫部や軍医学校とは 少し異質な

    生物戦の研究にあったのです。


    1933年秋、防疫研究室は

    鉄筋2階建の独自の研究棟に移り、

    細菌の大量培養が行なわれました。

    この研究室は軍医学校と言うより

    陸軍省上層部の意向で作られたもので、

    通称石井機関と呼ばれ、

    全国から優秀な医学者が集められるようになりました。

     

    [ 陸軍防疫給水部 ]
    新宿の戸山に出来た陸軍軍医学校防疫給水研究室は

    陸軍軍医学校と陸軍参謀本部の

    両方から指揮・命令を受けていて、

    軍医学校から見ると防疫研究室と呼ばれ、

    参謀本部からみると防疫給水部となります。

    部隊は石井四郎軍医少将をトップに

    技師、技手、技術雇員、医学部の学者、

    研究者、医師等で組織される300人位の集団でした。

    組織は1研から17研の研究室に別れていました(1943年当時)

     

    この防疫給水部(研究室)はほかにもあった

    多くの部隊を統括した中枢機関でした。  

    ◎統括した組織  

     731部隊を始めとした5つの防疫給水部隊(細菌戦部隊)
     各支部としての部隊
     60以上の師団の防疫給水部
     野戦防疫給水部


    では何処に秘密の仕事をしていた

    防疫給水部隊はあったのでしょうか?

     

    現在わかる範囲です。
     満州・ハルビン 関東軍防疫給水部      通称 731部隊
     中国・北京     北支那派遣軍防疫給水部 通称 甲1855部隊
     中国・南京     中支那派遣軍防疫給水部 通称 栄1644部隊   
     中国・広東     南支那派遣軍防疫給水部 通称 波8604部隊
     シンガポ-ル    南方軍防疫給水部    通称 岡9420部隊

     

    これらの5つの部隊は

    それぞれ多くの支部をもっていましたから、

    かなりの大きな組織になります。

    またこれら以外にも、

    満州には馬の病気を研究する

    関東軍軍馬<獣>防疫廠(通称100部隊)があり、

    そちらも細菌戦を行っていて、

    アメリカで問題になった炭素菌の

    人体実験を行なっています。

    日本国内では陸軍の

    登戸研究所が細菌戦の研究を行なっています。

     

    話を先に進める前に、

    簡単な各部隊の設立や場所の地図を掲載しておきます。

        注:字が細かいので拡大してみてください。

     SCN_0089

     

    [731部隊へのスタ-ト]

    細菌戦を目的とした防疫給水部隊は、

    この731部隊から始まりました。

    まずはどの様にしてこの部隊が出来たのでしょうか?

    1925年(大正14年)、

    生物化学兵器の使用を禁止する

    ジュネ-ブ議定書が締結されましたが、

    石井四郎は逆にこれを利用する事を

    思い付いたと言われています。

    陸軍の中で地位が低かった

    軍医の立場を上げるために

    細菌兵器の研究や準備をしようと思ったのです。

    1923年(昭和3年)から2年間石井が20ケ国の海外視察をしました。

    帰国後石井は軍医学校防疫部の教官になり、

    気迫と熱弁で戦争に於ける細菌戦の必要性を説き、

    陸軍省医務局衛生課長梶塚隆二や

    小泉親彦(後の医務局長)の支持を得ました。

     

    ●「陸軍軍医学校50年史」 から石井の発言

     ・・・・最強諸国は細菌戦の準備を行なっており、

     もし日本がかかる準備を行なわないならば、

     将来戦に於いて日本は大きな困難に遭遇するだろう・・・・

     

    資源の乏しい日本で安い費用で生産が出来、

    殺傷力が強い・・・・と言う石井の主張は、

    参謀本部の鈴木率道(作戦部第1課長)や

    陸軍省の永田鉄山(軍務局軍事課長)を動かしました。

    陸軍は予算が乏しかったにもかかわらず、

    裏金として特別会計から20万円が石井四郎にあたえられ、

    毎年のようにこの極秘予算は増額されました。

     

    つづきを読む

  • 陸軍の兵器工場

    2020/07/31
    14:32

    前項目、久村中佐の欧米視察の前後から

    陸軍では化学兵器の生産計画が始まっています。

    年代順に整理します

    1922年

     新宿戸山が原に創設された

     陸軍科学研究所第二課化学兵器班で研究スタ-ト

     久村種樹中佐をトップにして、

     毒ガス実験・製造施設を建造。

    1924年

     毒ガス研究は陸軍科学研究所第3部に移行。

     調査・防護・運用・整備の4班編成となり

     総勢100人余りになった。

    1925年5月 

     陸軍科学研究所新築落成

    1926年

     参謀本部内に毒ガス研究会を設置

    1928年

     広島県大久野島忠海製造所が稼動

    1932年7月

     陸軍科学研究所第二部へと改編

    1933年

     永田鉄山と小泉軍医学校校長は、

     毒ガスを習志野学校で、

     細菌戦は731部隊で行うことを決定。

    1941年6月

     陸軍技術本部第六研究所となる

    1942年10月

     陸軍兵器行政本部設立にともない

     第六陸軍技術研究所と改称された

     

    昭和に入ると広島の大久野島に

    兵器工場の建設が始まりました。

    日清戦争のときに

    広島市に大本営が移され1894年には、

    7ケ月でしたが広島市は臨時の首都になりました。

    呉には海軍の鎮守府が置かれるくらい

    広島は重要な軍都になりました。

    重要な軍都を守る必要もあり

    兵器工場が出来たともいえます。

    当時日本陸軍の兵器生産を

    担当していたのは造兵廠です。

    造兵廠には東京工廠、火工廠、名古屋工廠、

    大阪工廠、平壌兵器製造所があり、

    忠海・大久野島の毒ガス工場は火工廠に属し、

    15番目の兵器製造工場でした。

    最初は忠海兵器製造所として発足し

    その後大久野島に工場が建設されたのです。

    正式には1929年(昭和4年)5月19日に開所式が行われました。

     

    ●陸軍造兵廠の製造所一覧(1932年版)

       「陸軍造兵廠歴史」昭和7年度から

    区分

    製造所名

    所在地

    主要製造品目

    東京工廠

     

    小銃製造所

    東京

    小銃、拳銃、軍刀、銃剣、機関銃、照準具、光学的兵器、電気的兵器等

    砲具製造所

    東京

    砲用弾丸、航空機弾、鋳造品、自動車等

    小倉兵器製造所

    小倉

    砲用弾丸、航空機弾、車両、器具材料

    火工廠

    板橋火薬製造所

    板橋

    火薬、爆薬等

    王子火薬製造所

    王子

    火薬原料、爆薬等

    岩鼻火薬製造所

    岩鼻

    火薬、爆薬等

    宇治火薬製造所

    宇治

    火薬、爆薬等

    十條兵器製造所

    王子

    銃用實包及空包、信管、その他火具類

    起爆剤等

    忠海兵器製造所

    忠海

    爆薬等

    名古屋工廠

    熱田兵器製造所

    名古屋

    車両、器具、材料、砲用薬莢、飛行機、自動車等

    千種兵器製造所

    名古屋

    発動機、小銃、拳銃、銃剣、機関銃等

    大阪工廠

     

    火砲製造所

    大阪

    火砲、車両、器具材料、自動車、発動機等

    弾丸製造所

    大阪

    砲用弾丸、航空機弾、信管、その他火具類

    起爆剤等

    鉄材製造所

    大阪

    鋼材、鋳造品、鍛成品、砲用薬莢等

    平壌兵器製造所

    平壌

    砲用弾丸、航空機弾、車両、器具材料、飛行機等

     

    1938年からは福岡県の陸軍造兵廠曽根兵器製造所で

    化学剤を砲弾や投下弾に充填することが始まりました。

      注:上の表には年代的にまだ記載がありません

    1933年には化学戦教育と

    化学戦資材の運用訓練のために

    陸軍習志野学校が創立されました。

    将来のソ連との戦争を想定していた陸軍は、

    1937年8月に満州チチハルに

    関東軍技術部を創設し中に化学兵器班を置きました。

    化学兵器班は1939年8月に

    満州516部隊(関東軍化学部)へと昇格し、

    第六陸軍技術研究所(陸軍科学研究所第二部)の

    出先機関となります。

     

    つづきを読む

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