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キーワード「特移扱」を含む投稿一覧

  • ハバロフスク軍事裁判

    2020/08/14
    13:50

    さて東京裁判では

    アメリカに調査を妨害されたソ連ですが、

    敗戦時満州に攻め込んだ際

    多くの日本軍人を捕虜にしています。

    そしてアメリカとは別個に捕虜の中から

    731に関連した関係者1001名以上から

    12人を起訴して裁判を開きました。

    裁判は1949年12月25日から30日まで

    ハバロフスクで行われました。

    実は戦後日本政府とアメリカの隠蔽政策で

    多くの日本人は731部隊の事を知りませんでした。

    しかしこのハバロフスクの軍事裁判の

    資料が公開され、その資料を基にして

    作家の森村誠一氏によって「悪魔の飽食」が書かれ

    始めて日本人は事実を知ったのです。

    少し長くなりますがこの裁判について書いてみます。

     

    ●12人の被告

     1.  山田乙三   陸軍大将 

       関東軍司令官

     2. 梶塚隆二   軍医中将 

       関東軍軍医部長 細菌学者 医師

     3.  川島清    軍医少将 

       1939年から1943年まで731部隊勤務細菌製造部長

     4.  高橋隆篤   獣医中将 

       1941年から1945年まで関東軍獣医部長

     5.柄沢十三男  軍医少佐 

       731部隊細菌製造班長

     6.  西俊英    軍医中佐 

       731部隊でノミの繁殖、

       ネズミやモルモットの大量飼育を担当

     7.  尾上正男   軍医少佐  

       731部隊で実験動物の飼育と助手の教育を担当

     8.  佐藤俊二   軍医少将 

       広東8604部隊と

       南京1644部隊の部隊長を務めた

     9.  平桜全作   獣医中尉 

       細菌学者第100部隊で細菌や毒物の製造を行った

     10. 三友一男  軍曹 

       炭疽菌、鼻疽菌、牛疫菌の背映像などを担当

     11. 菊池則光  上等兵

       牡丹江支部衛生兵見習い

     12. 久留島祐司 731部隊牡丹江支部衛生兵実験手

     

    ●証人

     1.  田村正

     2.  村松知勝

     3.  飯島良雄

     4.  山岸健二

     5.  古都

    起訴された12人はそれぞれが

    責任のある立場の役職です。

    戦後アメリカの情報しか入らなかったため

    ハバロフスク裁判のことは

    あまり知られていないので、少し詳しく書きます。

    膨大な裁判資料ですから、

    被告の名前と供述したことを箇条書きにします。

    尋問の質問は省略します。


    「被告川島の訊問」 1949年12月25日午後の公判から

    ●第731部隊は、1936年天皇の軍令によって編成されました。

     これには又、部隊員の総数及び

     造営物の建築についても指示してありました。

    ●(部隊員は)私の記憶するところでは、

     天皇の命令によって、この部隊の勤務人員は

     支部を含めて3000人に定められていました。

    ●第731部隊は、主として、細菌戦準備に関する

     科学研究業務に従事していました。

    ●実験室の条件において、

     生きた人間を使用する実験を行っていたのは、

     第1部であります。  

     被実験者が収容されていた部隊の監獄も

     第1部に所属していました。

    ●部隊の第2部は、第2部で製造された殺

     人細菌を野外の条件において実験していました。

    ●(安達)実験場における実験は、生きた人間を

     使用して行われるのが通例でありました。

    ●第4部の主要任務は細菌の繁殖、培養の外、

     ワクチン及び免疫性血清の製造でありました。

    ●1841年夏、石井部隊長は部隊の部長全員を会議に招集し、  

     そこで、日本軍参謀総長の指令を受けた旨

     我々に通達しましたが、

     その指令の内容は次の通りです。  

     即ち、第731部隊は、細菌戦準備分野、

     特にペスト蚤の大量繁殖において、

     ある程度の成果を収めた。

     ペスト蚤は、戦略・作戦上大きな意義を有するものである。

     従ってこの方面における研究業務の

     強化を命ずると言うのであります。

     この際部隊長は部隊の業務で最大の弱点のひとつは

     蚤の大量繁殖の見地からして可能性が乏しい事である。

     あらゆる注意を蚤の大量繁殖に集中する事が

     必要である旨我々に指摘しました。

    ●第4部にあった生産能力及び全設備を最大限に利用すれば、

     この部が1ケ月に、ペスト菌300キログラム、或いは、

     チフス菌800から900キログラム、

     炭疽病菌500から700キログラム、コレラ菌1トン

     製造出来たのであると言わねばなりません。

    ●蚤の大量繁殖の為、第2部には特別室が4つありました。

     室温は一定温度、即ち摂氏30度に保持されていました。

     蚤の繁殖には高さ30センチ、巾50センチの金属製の缶が使用され、

     蚤の居場所として、この缶にモミガラを撒きました。

     この様な準備が終わりますと、まず缶に若干の蚤を入れ、

     飼料として白鼠を入れ、

     この白鼠は蚤に危害を加えない様に

     縛り付けられていました。

    ●(1つの培養器で1製造周期に)10グラムから

     15グラムの蚤が取れました

    ●1製造周期は2から3ケ月です。

     培養器は4000から4500ありました。

    ●(細菌兵器として使用するとき、ペストで汚染された)

     蚤を飛行機から投下する方法が最も有効な方法である

    ●部隊は生きた人間をハルピンの憲兵隊から受け取っていました

    ●第731部隊構内の監獄に監禁されていた囚人が、

     細菌戦準備の諸目的における、

     色々な研究を行うために使用されていました。

     研究は次の様な部門、即ち種々なる

     伝染病の殺人細菌の毒力増強のため、  

     これ等細菌の生きた人間に対する

     使用方法研究の為でありました。

    ●(実験は)監獄で行われました。

     監獄の外に特別実験室があって、

     そこでも生きた人間を使用する実験が行われました。

    ●(監獄は一度に)200名から300名いました。

     400名でも収容することが出来ました。

     1年間に400名から600名の囚人が届けられました。

    ●(生きた人間が感染した後)治療しました。  

     (治療した後)他の実験に使用するのが常でした。

     死ぬまで行われました。

    ●監獄のあった全期間を通じて私の承知しているところでは

     監獄から生きて出て来た者は一人もいませんでした。

    ●(実験に使用されたのは)主として中国人、満洲人、

     それからロシア人が少しであります。

     乳飲み子を抱えたロシア人の婦人もいました。

    ●(1941年夏の安達駅の野外特別実験場での)

     実験に使用された場所は入念に警備され、

     ここを通過することは禁止されていました。

     その周囲には特別な歩哨が立ち、

     局外者が誰もここに行けない様に警備していました。

     この実験に使用された15名の被実験者は

     部隊構内の監獄から届けられ、

     実験が行われていた地域で特別に

     地中に埋めた柱に縛り付けられていました。

     飛行機が容易に方位を定め、

     容易に特別実験場を認め得るために

     特別実験所には旗が掲揚され、煙を昇らせました。

     平房駅から特別飛行機が飛来しました。

     飛行機は実験地域上空を飛行し、

     実験場の上空に来た時20個ばかりの爆弾を投下しました。

     爆弾は地上100から200メートルの所に達せぬ内に炸裂し、

     中から爆弾に充填されていたペスト蚤が飛び出しました。

     これらペスト蚤は全地域に蔓延しました。

     爆弾投下が行われた後、蚤が蔓延し、

     被実験者を感染させることが出来るため、

     相当の時間待ちました。

     その後これ等の人間を消毒して、

     飛行機で平房駅の部隊構内監獄に送り、

     そこでこれ等の人間がペストに感染したかどうかを

     明らかにするため彼らに監視が付けられました。


    「被告柄沢の訊問」 12月26日午前の公判

    ●(生体実験を行った目的について)

     これは細菌の研究及び細菌戦への

     その使用のために行われていました。

     即ち、研究されていましたのは、

     細菌の効力、細菌の繁殖方法及びその使用方法、

     細菌の大量生産方法並びに

     これら細菌の保存方法であります。

    ●(生体実験を行っていたのは)第1部であります。

     実験は二様に行われました。

     即ち、監獄と特設実験場であります。

     特設実験場では実験は第2部が行いました。

    ●私は、安達駅の特設実験場で

     野外の条件下における

     人間の感染実験に2度参加しました。

     第1の実験は、1943年末、炭疽菌で行われました。

     この実験のために、特設実験場に連れてこられた

     10名の被実験者が使用されました。

     これらの人々は、5メートル間隔で

     特殊な柱に縛り付けられていました。

     これらの人々の感染のためには、

     被実験者から50メートルの所にあった

     りゅう散爆弾が使用されました。

     この爆弾は電流によって爆発せしめられました。

     彼らに対してある措置が施された後、

     彼らは部隊に連れて行かれましたが、

     その後、罹炭疽した被実験者が

     死亡したことを報告から知りました。

     2度目は、1944年の春でした。

     これは、ペスト菌の使用実験でありました。

     方法は呼吸器を通じての感染でありました。

     被実験者は、炭疽菌の実験の際と同じように扱われました。

    ●(731部隊の監獄から自由の身になって

     帰ってきた者がいたかとの質問に対して)

     私の知ってい限りでは、誰も帰ってきませんでした。

     全部虐殺されたのであります。

     

    「被告山田の訊問」 12月26日午前の公判

    ●1944年7月から1945年8月まで、

     私は関東軍司令官の職にありました。

    ●関東軍には第731部隊、第100部隊という

     2つの細菌戦部隊があり、

     これは関東軍司令官直轄でありました。

    ●梶塚中将は、関東軍司令部軍医部が

     管掌していた業務に関して私に報告し、

     特に731部隊が細菌戦準備問題を

     取り扱っていることを報告しました。

     特に、彼は第731部隊では細菌兵器の研究及び

     細菌兵器の製造に関する業務が

     行われていることを報告しました。

    ●(細菌兵器の使用目的はソ連以外はどこかとの質問に)

     特にアメリカと大英帝国でありました。

     これらの国に対しても、

     細菌兵器を使用することが考慮されていました。

    ●(質問)満州国に配置されていた第731部隊は、

        一連の国々に対する細菌戦準備の中心拠点であった。

       その通りか?

     (答え)そうであります

    ●(質問)細菌戦準備及び細菌兵器の

        製造を目指す第731部隊の業務を

        1944年7月以降統括したのは誰か?  

     (答え)関東軍司令官として私はこれを統括しました。

    ●(質問)第731部隊及び第100部隊の

        業務の統括における関東軍司令部作戦部の

        役割はいかなる点にあるか?

     (答え)細菌戦準備関係の細菌戦諸部隊の

         作戦指導にありました。

    ●1944年10月でありました。

     第731部隊長北野少将は私に対して、

     飛行機からの投下による細菌兵器としての、

     ペスト蚤使用の実験と研究の結果に関する報告を行いました。

     この報告は上映の映画と共に行われました。

    ●これに立ち会ったのは、関東軍参謀長笠原中将、

     作戦部長松村大佐及び

     参謀宮田中佐(皇室天皇の従兄弟)であります。

    ●(国家検事)90名を殺戮のため「特移扱」として

         送致することに関する関憲作命第224号の写しを

         読み上げることを裁判官に要請する。

         被告山田、この命令は関東軍司令官直轄の

         憲兵隊司令部によって出されたものであるか?  

     (答え)これは、私が関東軍司令官の地位に任命されるまで、

          憲兵隊司令官であった白倉少将の命令であります。

    ●(細菌兵器の使用方法について)私は3方法あると思います。

     すなわち、まず爆弾投下による方法、

     次に飛行機から直接散布する方法、

     最後に地上散布法であります。

    ●(質問)第731部隊と第100部隊解消に

        関する命令に、貴方はいつ署名したか?

     (答え)1945年8月9日-10日頃でありました。

        関東軍司令官は、これら部隊の

       業務を中止せしめ、

       部隊を解散せしめる全権を持っていませんでした。

     

    「被告西の訊問」 12月26日午後の公判

    ●(太田大佐が作った菓子について)

     ごく普通のチョコレ-トで細菌を充填した後

     包装紙に包まれるべきものでした。

     このチョコレ-トの形は円形の筈でありました。

     彼は、自分が作ったチョコレ-トの内

     10個くらい見せてくれました。

     太田大佐はチョコレ-トの中には

     炭疽菌が入っていると語りました。

    ●私は、1940年中国に対して細菌兵器が

     使用されたことを聞きました。

     1940年8月或いは9月私は北京の防疫給水本部におり、

     そこで中国中部の寧波市付近で

     細菌兵器が使用されたことを耳にしました。

    ●私は1940年の中国中部への第731部隊派遣隊の

     活動に関する記録映画を見ました。

     まず映画には、ペストで感染された蚤の

     特殊容器が飛行機の胴体に

     装着されている場面がありました。

     ついで飛行機の翼に散布器が

     取付けられている場面が映され、

     さらに特別容器にはペスト蚤が

     入れられてあるという説明があって、

     それから4人或いは5人が飛行機に乗りますが、

     誰が乗るのか判りません。

     それから飛行機が上昇し、

     飛行機は敵方に向かって飛んでいるという説明があり、

     次いで飛行機は敵の上空に現れます。

     次いで飛行機、中国軍部隊の移動、

     中国の農村などを示す場面が現れ、

     飛行機の翼から出る煙が見えます。

     次に出てくる説明からこの煙が

     敵に対して散布されるペスト蚤であることが判ってきます。

     飛行機は飛行場に帰ってきます。

     スクリ-ンに「作戦完了」という文字が現れます。・・・・・・

     この後「結果」という文字が現れ、

     中国の新聞及びその日本語翻訳文が上映されます。

     説明の中で、寧波付近で突然ペストが

     猛烈な勢いで流行し始めたと述べられています。

     最後に終わりの場面で中国の衛生兵が白い作業衣を着て

     ペスト流行地区で消毒を行っている様子が上映されています。

    ●吉村研究員から聞いたところによりますと、

     酷寒(零下20度以下とのことです)に

     部隊の監獄から人々を引出し、素手にさせ、

     人工風によって手を凍らせていました。

     それから、ちいさな棒をもって凍傷にかかった手を、

     小板を叩く様な音が出るまで叩き続けました。

     この外、私は実験に関する吉村の報告を読みました。

     映画も撮影されました。

    ●第731部隊長の命令で、1945年1月私は安達駅に赴きました。

     ここで私は第2部長と二木研究員の指導下に、

     ガス壊疽菌による感染実験がいかに行われているかを見ました。

     このために囚人が10人使用されました。

     これ等の人々は柱に面と向かって縛り付けられ、

     相互に間隔は5-10メ-トルでした。

     囚人の頭は鉄帽で胴体は

     楯でそれぞれ覆われていました。

     身体は全部覆い隠され、

     ただ臀部だけが露出されていました。

     感染のために約100メートルの所で電流によって

     榴散爆弾が爆発せしめられました。  

     10人共全部露出部分に負傷しました。・・・・・

     後で私は碇及び二木研究員に聞いたところ、

     彼らは10人全部負傷し、

     ガス壊疽に感染されて死亡したと語りました。

    「被告梶塚の訊問」 12月27日午前の公判

    ●第731部隊は1935年或いは1936年の始め、

     正確には記憶して居りませんが、

     天皇の軍令によって編成されました。

    ●ヨーロッパへの海外出張から帰国した後、

     石井四郎は1931年東京陸軍軍医学校の

     教官として勤務していました。

     彼は、最強諸国が細菌戦の準備を行って居り、

     もし日本がかかる準備を行わないならば、  

     将来戦において日本は大きな困難に

     遭遇するであろうということを語り始めました。  

     日本陸軍省及び参謀本部の幹部たちの間で  

     石井が細菌兵器は作戦的観点から攻撃兵器として

     非常に有効であると語ったことを私は聞きました。

    ●私の知っている限り、後に陸軍省軍務局長になった

     永田中将が最も積極的に彼を支持しました。

    ●平房駅の石井の実験室にある事務所には、

     永田中将の石膏半身像が据置しており、

     石井は自分の所に半身像を置く程

     永田に感謝していたのであります。

    ●第3部が給水関係の業務を行い、

     他のすべての部は給水には

     何の関係も持っていませんでした。

    ●「731部隊の秘密中の秘密」-

     これは細菌戦準備に研究及びその他の業務、

     この業務の結果、生きた人間を使用する実験でありました。

    ●石井は私に、細菌戦の為には各種の方法がある。

     その方法というのは、

     第1.謀略による方法、

     第2.砲弾の使用、

     第3.爆弾の使用であると語りました。

     更に石井四郎は、私に普通砲弾・爆弾は金属製であるが、

     これ等の爆弾、砲弾に細菌を充填するならば、

     金属の炸裂に際して、大弾筒の爆発によって

     起こる高熱の結果、細菌が死滅する。  

     従って石井部隊では陶器製爆弾に注意を払い、

     その研究が続けられていると語りました。・・・・

     また石井は飲料水、食料の汚染による

     病原菌の使用は細菌兵器使用の

     効果的方法であると語っていました。

    ●既に当時彼はペスト蚤が最も適当であると理解していました

    ●私は吉村の研究論文を見ましたが、この論文の論旨は、

     最も効果的な凍傷治療法が凍傷にかかった

     手足を37度の温水に浸すことだというのであります。

     このことから私は吉村が凍傷の研究に

     従事していたことを承知しています。

     

    「被告佐藤俊二の訊問」

    ●私が広東「波」第8604部隊長に任ぜられたのは、

     1940年12月から1943年2月まででありました。

     それから1944年2月までは南京「栄」1644部隊長に転任しました。

    ●(栄1644部隊には)12支部ありました。

     人数は約1500名であります

    ●(南京では)細菌大量生産用設備の中、

     5米・5米・2米半の大きさの細菌培養室、

     直径1米半、長さ2米半の円筒形の2つの自閉缶、

     その他石井式培養器約200がありました。

     コッホ式釜は50ありさらに10ありました。

    ● 全設備を使用せる場合、

     細菌製造量は1製造周期に10キログラムでありました

    ●私は栄第1644部隊にいた時、太田大佐及び小野寺中佐から

     1940年に寧波市、1941年に常徳市、

     1942年にセッカン作戦で

     それぞれ細菌兵器が実用されたことを聞きました。

     尚飛行機から散布されるペスト菌が利用されました。

     セッカン作戦中栄第1644部隊の一部の人員は、

     この作戦の実施を援助しました。

     この外、常時第731部隊から

     非常に多数の軍人が出張して来ました。  

     具体的に、作戦がいかに行われたか私は知りませんが、

     栄第1644部隊本部では特に蚤の繁殖によって、

     この作戦の実施を促進しました。

     

    「被告平桜全作の訊問」

    ●私は1942年7月から100部隊勤務員として勤務してきました。

    ●第100部隊は外面はその公式名称によって

     関東軍軍馬防疫廠でありましたが、

     実際は細菌戦の準備に従事していました。

    ●この部隊は関東軍統帥部の直轄でありました。

    ●(指導は)元関東軍司令部獣医部長高橋中将であります。

    ●1944年私は業務報告を行うため

     ハイラルから部隊に到着しました。

     松井研究員に会いました。

     松井研究員は、何か植物性食料の入った

     食器を手に持っていました。

     私の質問に彼は生きた人間を使用す

     実験を行うため隔離所に持っていくのだと答えました。

    ●1942年7月から8月まで私は夏期演習に参加しました。

     この演習を指揮したのは村本少佐であります。

     この隊には若干の研究員、将校、

     技術員等総数30名の人間がいました。

     所要の器材は長春に送られ、

     資材部分品の発送には金田少尉が当たりました。

     実験は、北興安省三河付近のソビエト国境近くを

     流れているデンプル河畔で野外の条件下で行われました。

     この実験の目的は、実践における細菌使用の

     可能性を研究することでありました。

    ●ソヴィエト国境から程遠くないデンプル河であります。

     この際、延長約1キロメ-トルにいたる地域が汚染されました。

     汚染は、約100メートル宛の一定の間隔を置いて行われ、

     三田及び井田研究員がゴム製のボ-トに乗って汚染を行いました。

     

    「被告三友一男の訊問」

    ●私は100部隊第2部に勤務していました。

     最初は第1課で勤務し、

     第6課創設後同課で勤務しました。

    ●第6課の主要な任務は、細菌戦

     及び謀略の方法の研究

     並びに細菌の大量生産でありました。

     この研究はソヴィエト同盟に対する

     戦争準備のために行われていました。

    ●主として鼻疽菌、牛疫菌、

     羊痘菌が研究されていました。

    ●私は主として鼻疽菌の培養に従事し、

     同時に生きた人間を使用する実験に参加しています

    ●第100部隊勤務中、私は人体実験に1度参加しました。

    ●人体実験を行っていたのは4人であります。

     即ち全業務を指導していたのは井田研究員、

     これに参加したのは中島中尉、

     松井実験手、それから私であります。

    ●被実験者は部隊衛兵所の隔離室に監禁されていました。

    ●生きた人間を使用する実験は1944年8月~9月に行われました。

     これら実験の内容は、被実験者に気づかれないように

     彼らに催眠剤及び毒を与えたことでありました。

     被実験者は7~8名の中国人とロシア人でありました。

     実験に使用された薬品の中には

     朝鮮朝顔、ヘロイン、ヒナシ油の種がありました。

     これ等の毒剤は食物に混入されました。

     2週間にわたって各被実験者に毒剤を盛った

     このような食事が5~6回支給されました。

     汁には主として朝鮮朝顔を混入し、

     粥にはヘロイン、

     煙草にはヘロインとバクタルを混入したと思います。

     朝鮮朝顔を混入した汁を与えられた被実験者は

     30分~1時間後には眠りに落ち

     5時間眠り続けました。

     被実験者は2週間後には衰弱し、

     実験の役にはたたなくなりました。

    ●機密保持のため、被実験者は皆殺されました。

    ●あるロシア人の被実験者は、松井研究員の命令で

     青酸カリを10分の1注射されて殺されました。

     私が注射をしました。

    ●私は部隊にあった家畜墓地で死体を解剖しました。

    ●部隊裏の家畜墓地に穴を掘って埋めました。  

     家畜の死体を埋めていた所と同じですが、

     穴は違います。(注:場内、うごめき憤激の声満る)

    ●この被実験者に青酸カリを注射するため、

     松井の指示によって下痢を起こさせました。

     これが青酸カリを注射する口実になりました。

    ●中国人の被実験者が1人、

     私が毒を混入した粥を食べ、

     数時間意識不明の状態を続けた後死亡しました。

     毒はヘロイン1グラムであります。

    ●この死体もロシア人と同じ家畜墓地に埋められました。

    ●他には、ロシア人の被実験者が2人と

     中国人が1人同じ家畜墓地で憲兵に射殺されました

    ●実験用として第100部隊に送致された人々は皆殺されました。


    「被告高橋隆篤の訊問」

    ●私は1941年3月から

     関東軍司令部獣医部長として勤務していました。

    ●1941年3月私が任命された時、

     この軍馬防疫廠(100部隊)は主として

     馬のワクチン、血清の製造及び

     伝染病の研究を任務としていました。

     1941年9月部隊には細菌戦及び

     謀略の準備、コレラ等の問題の研究、  

     手段の究明という任務が課せられました。  

     主としてソヴィエト同盟が目標とされました。

    ●(100部隊で培養した細菌は)鼻疽と炭疽菌が先ず第一、

     次いで赤穂菌、モザイク、

     それから牛疫菌、羊痘菌であります。

     最も是認できたのは炭疽菌、

     牛疫菌及び羊痘菌であります

    ●細菌戦の積極的準備に関する命令は

     関東軍司令官の梅津大将の命令を

     私が第100部隊の若松獣医少将に伝えました。

    ●この様な部隊の創立は参謀本部の第一作戦部であります。

    ●第100部隊の1年間生産能力は

     炭疽菌1000キログラム、鼻疽菌500キログラム、

     赤穂菌100キログラムであると司令官に報告しました。

     この様な数字は十分な設備の下に可能でありました。

     その後、設備は1943年12月から到着し始め、

     第2部第6課で据え付けられ始めました。

     しかし、この計画を遂行することは出来ず、

     1944年3月末、私は炭疽菌200キログラム、

     鼻疽菌100キログラム、赤穂菌が20~30キログラムを

     製造されていることについて司令官に報告しました。


    被告の訊問内容はこの位にして次に証人の尋問内容を記載します。

     

    「証人田村の訊問」

    ●当時私は長春市に居りまして、

     関東軍司令部人事部長でありました。

     大佐であります。

    ●(視察で)石井部隊に到着した私は、

     部隊のすべての業務用建物、

     即ち実験室及びこの部隊の囚人が

     収容されていた監獄を巡視しました。

     製造部の作業場を巡視したとき、

     私は細菌兵器の大量生産用の設備を見ました。

     更に私は蚤の繁殖に利用するため

     飼育していたげっ歯類を見ました。

     部隊内で私は、細菌砲弾及び見本を見、

     又石井の私室で私は細菌兵器の効力を

     説明する一連の要図と設計図を見ました。

     更に構内監獄を巡視して、監房の一部を見ました。

     そこで私は、約40~50名の囚人を見ましたが、

     その民族別は中国人とロシア人で、

     それらロシア人の中には1人の婦人が

     交ざっているのを私は見ました。

    ●廊下から監房の扉の小さな監視窓越に私は、

     若干の囚人が足錠を嵌められているのを見ました。

     ある者は動いていましたが、

     大部分は床に横になっていました。

    ●石井中将は、これ等の囚人が

     細菌の効力試験のため、

     被実験者として利用されている旨私に語りました。

     私は、被実験者であった囚人の中

     2~3人の者が非常に衰弱しているのを見ました。

    ●石井の言により私が承知しているところでは、

     これ等の人間は、

     日本の憲兵隊及び陸軍特務機関が拘引し、

     死刑宣告を受けるべき犯罪人と

     みなした者の中から送致していたのであります。

    ●石井は、細菌の効力が実験室の条件及び

     野外の条件下に生きた人間を

     使用する実験によって検査され、

     細菌兵器こそ、関東軍が持っている

     最も威力ある兵器であることを私に語りました。

     彼は、第731部隊が完全な戦闘態勢にあり、

     戦争が始まっていざと言う場合には、

     部隊が敵軍に莫大な量の殺人細菌を

     直接浴びせかけ得る状態あり、

     また部隊が飛行機によって敵の後方において、

     その都市に対し細菌戦上の作戦を

     実施し得る旨私に説明しました。

     

    「証人 古都の訊問」 12月28日午後の公判

    ●私は第163支部(731部隊牡丹江支部)衛生兵で

     病原菌研究班で勤務していました。

    ●私は1942年に中国中部派遣隊に参加しました。

    ●7月に、120名の将校及び軍属からなる

     第731部隊別班が汽車でハルビン市を出発しました。

     我々は、日本の中国中部派遣軍防疫給水部が

     所在した南京市に到着しました。

     そこの防疫給水部(栄1644部隊)から

     将校、兵の一団が加わりました。  

     我々の派遣隊の人員は結局150~160名でありました。

    ●派遣隊は石井少将が指揮しました。

    ●派遣隊の業務は、

     貯水池、河川、井戸、建物をチフス菌

     及びパラチフス菌によって

     汚染する方法による細菌攻撃でありました。  

     第731部隊は第4部で大量製造した

     前述細菌をこの派遣隊のために送りました。

     細菌はペプトン用壜に詰められていました。

    ●南京部隊に到着次第、壜に詰められていた

     細菌の一部は、飲料水用の金属製水筒に入れ替え、

     残りは壜の中に残しました。

     これらを飛行機で攻撃予定地に送りました。

     攻撃は水筒及び壜を井戸、湿地、村落の

     民家に投げ込む方法によって行われました。  

     ペプトン用壜の一部は、特製の肉汁で

     細菌を繁殖するのに利用されました。

    ●常時そこには総数3000人からなる

     中国軍の俘虜の収容所が2つありましたが、

     3000個の特製の饅頭が製造されました。

     これ等の饅頭には、注射器で細菌が注入されました。

     チフス菌とパラチフス菌が使用されました。

    ●饅頭は収容所で中国語を知っている

     通訳の春日が中国軍俘虜に配布しました。

    ●細菌で汚染した饅頭を食べさせた後、

     流行させるため、

     収容所から全員を出してやりました。

    ●(ビスケットについて)卵形のものと

     細長い形の2種のビスケットでありました。

     小麦で作られ、饅頭同様細菌で汚染されました。

     ビスケットは日本軍兵士に引き渡され、

     垣根の下、木の下、休憩地等に、撒きました。

     その数は300~400個ありました。

    ●婦人も居りました。

     彼女等は、黴毒(梅毒の事)の予防手段の

     研究の為に黴毒に感染せしめられました。

     

    「証人 橘の訊問」

    ●(階級は)憲兵大佐であります。(法廷内、ざわめく)

    ●1940年、私は佳木斯市の憲兵隊長の地位にありました。

     その時、私は初めて、第731部隊の存在と

     その業務の性格を知るようになりました。  

     私は関東軍防疫給水部と称されていた第731部隊が、  

     実際には細菌戦の準備、  

     更に生きた人間を使用する実験の実施によって

     これを行っている事を知るようになりました。  

     ・・・私が佳木斯の憲兵隊で勤務していました当時、

     何らかの犯罪の嫌疑で憲兵隊が拘引し

     検挙した者の一定の部類を、我々は実験材料として

     第731部隊に送致していました。

     我々はこれ等の者を予備的な部分的取調べの後、

     裁判に附さず、事故送致をせずに、

     憲兵隊司令部より受領した指令によって

     第731部隊に送っていました。

     これは特殊の措置でありましたので、

     かかる取り扱いは「特移扱」と呼ばれていました。

     「特移扱」にされた者は、次の如き部類のものでありました。

     即ち他国家を利する諜報行為の罪を負わされる者、

     或いは外国諜報機関の関係者の嫌疑をかけられた者、

     並びにいわゆる匪賊、即ち中国のパルチザン、

     それから抗日分子の部類、

     改悛の見込みなき刑事犯、

     即ち常習犯がそれであります。

     これ等の部類の者を、我々は「特移扱」として

     第731部隊に送致していました。

     佳木斯憲兵隊長在職中、

     私の隷下憲兵隊本部によって

     少なくとも6人が第731部隊に送られ、  

     これ等の者はそこから戻らず、

     実験に使用された結果死亡しました。

    ●特移扱に該当する人物は、

     憲兵隊本部の留置場に留置され、  

     しかる後、彼らの尋問調書の抜粋及び

     特移扱許可申請書を憲兵隊本部に送りました。

     そこではこの書類を検討し、問題を決定して、

     申請してきた当該憲兵隊のこれ等の人物を

     「特移扱」の名目で第731部隊に送致するべき事に

     関する命令が発せられました。

     かかる書類が地方の本部から憲兵隊司令部に入りますと、

     庶務部を経て、これ等は刑事部に引き渡され、

     それから私が長でありました防諜班に渡されました。

     私はこれを承認して更に刑事部長に送りました。

     刑事部長は関東憲兵隊司令官の決裁を得た後、

     憲兵隊司令官の名をもって該当書類を

     提出した憲兵隊本部に命令を発しました。

    ●私の在職中、100名以上の者が

     送致された事を記憶しております。

    ●勿論関東憲兵隊は、関東軍司令官の

     指令によってこれを行っていました。

     通常、憲兵隊は事犯者の事件を

     裁判所或いは軍事裁判所に送致していましたが、

     これ等の場合には、特別命令が法律に代わり、

     人間は裁判なしで送致されていました。

    ●憲兵隊司令部から「特移扱」の正式決済があった後、

     申請書一部が戻され、

     囚人は憲兵隊本部に留置されていました。

     その後、第431部隊から実験材料即ち

     「特移扱」に運命づけられた人間の送致要求があった後、

     囚人は調書の一部と共にハルビンに送られ、

     ハルビン駅で憲兵隊員に引き渡されていました。

     

    「証人 倉員の訊問」

    ●私はハルビン憲兵隊本部に勤務しておりました。  

     憲兵隊本部特高課の班長でありました。

     憲兵曹長であります。

    ●私は1940年3月以降1年間部隊附憲兵班の

     憲兵として第731部隊に勤務しました。

    ●ハルビンから第731部隊に送致される

     囚人の護送が私の職務でありました。

     部隊ではこれ等の囚人を「丸太」と称し、

     被実験者に利用していました。

    ●我々は特別の護送車に便乗してハルビン駅に向かい、

     そこで駅の憲兵隊分遣所に立ち寄り、

     駅詰めの憲兵長立会いの下に、  

     林口、佳木斯等の他の都市の憲兵隊員から

     第731部隊向け移送用人員を受領しました。

    ●我々はこれ等の囚人を受領してから護送車に乗せて、

     第731部隊に引き渡すため平房に向い、

     そこで表門の所で自動車を止め、  

     衛兵所に立ち寄り衛兵は構内監獄の当直に電話をし

     当直が受領のため人をよこしました。

    ●生きた人間を使用する実験を私が初めて見たのは、

     1940年12月のことであります。

     第1部員である吉村研究員がこの実験を

     私に見せてくれました。

     実験室に立ち寄りました時、

     そこには長椅子に5人の中国人の被実験者が座っていましたが、

     これ等の中国人の内2人には、指が全く欠け、

     彼らの手は黒くなっていましたし、

     3人の手には骨が見えていました。

     指はあるにはありましたが、

     骨だけが残っていました。  

     私が吉村の話から知ったところによりますと、

     これは彼らに対して凍傷実験をした結果でありました。

    ●一度この監獄に投げ込まれた人間は、

     そこから戻りませんでした。
     (問い)男子でも、婦女子でも、

        監獄に入れられた者はすべて、

        殺されねばならなかった訳だね?
     (答)その通りであります。

     

    「証人 桑原の訊問」

    ●私は第100部隊第2630支部の軍属として勤務しました。

     技術員でした。

    ●1945年8月20日、支部の厩舎に行きましたところ、

     勤務員が6名おりました。  

     窪田、池田、矢田、木村、石井及び長谷川でありました。

     そこの厩舎には部隊で飼っていた60頭の馬がいました。

     彼らは鼻疽菌を燕麦を介して

     馬を鼻疽菌に感染させているからと

     私に注意しました。

    ●罹鼻疽された馬は柵を壊して

     四方八方に放してやりました。

     馬は付近の村落に駆け出しました。  

     (日本の降伏命令の後にか?)

     はい

     


    まだ沢山の証人が証言をしていますが、

    スペ-スの関係でこの位にします。

    この裁判で731部隊に関することが

    全てわかる訳でも、

    証言が正しいかどうかも判りません。

    この裁判はソ連が意図的に行った

    軍事裁判だとして否定する人もいます。

    また被告や証人も自分の立場をよくするために

    全てを正直に言っているかどうかもわかりません。

    それにしても最近の調査でかなり

    信憑性があることはわかってきました。

    重要な参考資料になると思います。

     

    そして判決ですが全被告に対する判決は下記の通りです。

    1.  山田乙三 1943年4月19日付の

       ソ同盟最高ソヴィエト常任委員会法令第1条により、

       25年間を期限として、矯正労働収容所に収容すべし

    2.  梶塚隆二      同上

    3.  高橋隆篤      同上

    4.  川島清       同上

    5.  柄沢十三夫 

       20年間を期限として、

       矯正労働収容所に収容すべし

    6.  佐藤俊二     同上

    7.  西俊英  

       18年間を期限として、矯正労働収容所に収容すべし

    8.  三友一男 

       15年間を期限として、矯正労働収容所に収容すべし

    9.  尾上正男 

       12年間を期限として、矯正労働収容所に収容すべし

    10. 平桜全作 

       10年間を期限として、矯正労働収容所に収容すべし

    11. 久留島祐司 

       3年間を期限として、矯正労働収容所に収容すべし

    12.菊池則光  

       1年間を期限として、矯正労働収容所に収容すべし

      以上

    判決は、その写文を受刑者に手交したる日より

    72時間以内に上告手続きによって、

    ソ同盟最高裁判所軍法会議に上訴され得る。


    議長法務少将 デ・チェルトコフ

    委員法務大佐 エム・イリニツキ-

    委員法務中佐 イ・ヴォロビヨン

     

    12名の被告たちは収監されましたが、

    1956年12月までに死亡した2名を除いて帰国しました。

    つづきを読む

  • 特移扱証拠文書

    2020/08/09
    11:36

    特移扱と言う言葉は分かりました。

    では具体的に一人一人の人間を

    どのようにして特移扱にしたのでしょうか?

    敗戦時に日本軍は全ての書類を焼却したので

    資料はないとされていました。

    しかし焼却の焼け跡から焼け残りの

    貴重な憲兵隊の特移扱文書が発見されて

    中国に保存されていました。

    黒龍江省档案館は1999年8月2日、

    保存していた資料の一般公開に踏み切りました。

    その後2001年に吉林省档案館でも資料が発見されました。

    その2つの資料から実際の憲兵隊の特移扱文書を転記します。

    原資料はカナで縦書きです。

    見やすく手直ししました。

     

    表の右側に「特機移牒」とか「特移送」」と書かれている人が

    731部隊に送られて、氏名を消されて

    単に番号で呼ばれて生体実験にあった人です。

     

    ●東憲高第613号

    整理諜者第1次抑留者の処置等に関する件報告

       7.4東憲作命第15号参照
       7.14東件高第532号参照

      昭和16年7月25日  東安憲兵隊長 白濱重夫

      関東憲兵隊司令官 原守殿

     6月28日関憲高第625号に基き

     第1次抑留せる諜者並仝容疑者は

     ・・・・各隊所に於いて誠意真相究明に努め

     夫々別表の如く処置したるに付報告す 
    別表
     整理諜者第1次抑留者の処置一覧表 東安憲兵隊本部 

     整理担任隊所   虎林分隊

    系統 楠工作

    氏名年齢取締概況処置
    呉祥55厳重真相究明に努めたるも容疑事実なし放遣せしむ
    宮俊卿33同上同上
    李鳳閣37

    昭14.4月「ソ」連謀略員孫炳興の勧誘を受け

    列車転覆謀略に加担セル外日軍情報蒐集の上

    孫炳興に提報しあること判明す

    司法処分せしむる予定

    (取調べ状況は近く調整発送す)

     

    系統 張旭武関係

    氏名年齢取締概況処置
    黄炳文557.19虎林憲高第259号参照 特機移牒(特別移送)
    劉遠聲 7.19虎林憲高第257号参照 同上
    柳鳳魁637.14虎林憲高第238号参照 厳諭放遣せしむ
    李家驂397.14虎林憲高第239号参照 特機移牒
      以下省略 

     系統 其の他

    氏名年齢取締概況処置
    李桂山 46通蘇容疑者として抑留厳重究明せるも容疑事実なし放遣せしむ
    萬希全 45 7.13虎林憲高第235号参照特機移牒
    李興田  取調中 
    李長玉427.15虎林憲高第244号参照特機移牒
    李玉恒257.15虎林憲高第245号参照事件送致
    王克明59通蘇容疑者として抑留厳重究明せるも容疑事実なし放遣せしむ
    徐貴珍567.16虎林憲高第244号参照特機移牒
    曲景生477.19虎林憲高第258号参照同上
    魏傳突467.16虎林憲高第254号参照同上
    陳元明487.14虎林憲高第236号参照同上

     

    ●東憲高第760号

    ソ諜の特移送に関する件報告「通牒」

      昭和16年8月20日 東安憲兵隊長白濱重夫

      関東憲兵隊司令官原守殿

    主題の件左記の通り特移送したるに付報告「通牒」す

    (注:全員特移扱いです)

    原籍、住所、職業、氏名年令特移送日時場所摘要

    原籍 山東省高塘県十里堡

    住所 東安省密山県鶏寧街

    煉瓦工 趙成忠 当33年

    8月8日21時

    ハルビン隊本部

    7月25日関憲高第755号に
    基き半截河分遣隊下士官以下
    2名をして特移送せしめたり

    原籍 河北省天津揚柳青

    住所 東安省虎林県虎頭村

    無職 劉元傑 当25年

    8月9日18時30分

    ハルビン隊本部

    7月26日関憲電第438号に基き

    (特移送)

    原籍 山東省牟平県段家村

    住所 東安省虎林件虎頭村

    靴屋 段鳳樓 当43年

    (同上)

    7月26日関憲電第438号に基き

    (特移送)

    原籍 山東省菜陽県佳化

    住所 東安省饒河県大代河

    農  楊吉林 当54年

    (同上)7月28日関憲電第765号に基き

    原籍 山東省菜陽県林格村

    住所 東安省虎林県虎頭村

    料理業 劉文斗 当39年

    (同上)

    7月30日関憲電第774号に基き

    虎頭分遣隊下士官以下4名をして特移送せしめたり

    原籍 山東省?霞県?格庄

    住所 東安省密山県東安街

    雑貨小売商 劉恩 当39年

    8月11日18時30分

    ハルビン隊本部

    8月7日関憲電第488号に基き

    東安分遣隊下士官以下2名をして特移送せしめたり

      (了)

       発送先
        関憲司、哈憲、写 東安、虎頭、半截河

     

    ●佳憲高第413号

      ソ諜 王明春の抑留取調状況に関する件報告「通牒」

      昭和16年7月4日   佳木斯憲兵隊長宇津木孟雄

      関東憲兵隊長  原守殿

    満洲第834部隊配属憲兵は6月17日13時頃

    鶴立県梧鎮軍工事地域内に於いて

    旅行者に対する不審満人を発見し之を追及したるに

    略々ソ諜たるの確信を得たるを以って興山鎮分隊に隠密抑留せり。

    中略   

    状況左記報告「通牒」す

     左記

    1.省略

    2.国籍 中国  

     原籍 河北省保定府青元県于家庄 

     出生地 右仝 

     住所不定

     農業働夫  王明春
    3.4.省略 

    5.身柄の処置  

     本名は入満直後抑留せられたるを以て

     何ら実害なかりしと言えども  

     ソ連指令を確実に実行する

     意図を有しありたるものなるを以て  

     時局の推移に鑑み「特移」と致し度に付認可相成り度し

    以下省略

     

    半分焼け焦げたこのような証拠書類が

    沢山発見されたのです。

    これでもまだ一部でしょう。

    生体実験の対象になる人間が

    足りないからという勝手な理由で

    (時局の推移に鑑み・・・・)、

    特移扱いとして何千人もの庶民が

    いきなり731部隊に放り込まれたのです。

     

    [ 特移扱いの被害者の名前 ]
    被害者の数が1000人、2000人、3000人と言っても、

    それはただの数字です。

    物や材料扱いです。

    被害者一人一人の人生が特移扱いとなった

    瞬間に絶たれてしまうのです。

    どんな人にもかけがえのない人生があります。

    ここで、人の悲しみ、辛さ、後に残された者の

    苦しみに思いを寄せるため

    焼き焦げた「特移扱文書」から読み

    取れる範囲で被害者の実名を書いてみます。

    これらの方々は全員731部隊で生体実験の生贄になり殺されました。

    一人一人の人生を考えていただければと思います。

    同時にその行為に関わった日本軍憲兵の名前も列挙します。

    憲兵の家族や遺族で不快な思いをされる方が

    いらっしゃるかもしれませんがお許し下さい。

    氏名年齢男女職業住所
    劉元傑25男無職東安省虎林県虎頭村
    段鳳楼43男靴屋東安省虎林県虎頭村
    劉文斗39男料理業東安省虎頭県虎頭村
    楊吉林54男農業東安省饒河県大代河
    趙成忠33男煉瓦工東安省密山県鶏寧街
    劉恩39男雑貨小売商東安省密山県東安街花楽区
    劉宝湖32男 東安県密山県滴道村金剛大路
    王振達25? 東安県密山県城子河村宝山屯
    朱雲岫32? 東安省密山県城子河村保山屯
    王明春34?農業働夫住所不定(原籍)河北省保定村青元県于家庄
    黄文華不明? 不明
    李長義不明? 不明
    任殿曹38男農業三江省撫遠県東安鎮下営
    周景生不明? 不明
    徐子峯不明? 不明
    李興田51男果物商東安省密山県滴道村金剛路五牌
    劉漢升48?農業東安省虎林県虎頭村撲實屯
    長生文28男商業東安省虎林県虎頭村撲實屯
    盛桂題35男商業住所不定(原籍)山東省掖県小瑯冴村
    董殿全55?農業東安省虎林県虎頭村撲實屯
    劉世傑38?警察東安省密山県城内朝陽区13牌
    田立順40男警察東安省虎林県独木河村
    安鴻勛42男無職東安省虎林県虎頭村29牌
    國恩章32男調理師東安省虎林県虎頭村西順街20牌
    李厚彬32?無職東安省虎林県虎林街虎林区40牌
    蘇介臣41男飯店炊事夫東安章虎林県虎頭村西順街
    張振起37男炊事夫東安省虎林県虎頭村飯塚木材部
    原美瑧40?飲食店主東安省虎林県虎林街安楽区2牌
    張汝成47男雑貨商東安密山県黄泥河子安楽屯30牌
    于金喜32男苦力東安省虎林県虎頭村興隆街
    矯吉明44男苦力東安省虎林県虎頭村平安街
    王勤山33男農民 
    馬尚文27男苦力 
    劉維平60男商人 

    以下名前だけ追悼の意味で列挙します。

    王照儒 呉春福 唐永金 尹文生 趙新貴 呉天貴  

    樂仁璞 劉文秀 孫福発 薛孟祥 冉慶順 李福林  

    李懐顕 周殿平 ?憲度 張興華 丁元英 于興飛  

    于成海 于進堂 于忠 于嘉盛 馬伝林 馬伝鈞 

    馬連発 馬青山 馬相田 馬徳富 馬徳祥 王子明

    王鳳玉 王長生 王雲峰 王守礼 王兆臣 王守金  

    王安岩 王秀貴 王和 王忠興 王国財 王宝信 

    王宝珍 王金信 王貴? 王登雲 王徳富 王徳福  

    王毓栄 王懐吉 尤長発 孔慶玉 孔慶有 牛殿禄 

    白永財 申永祥 付良民 盧振海 馮興全 馮瑞年

    田永 石明玉 石福廷 石徳発 祁鳳亭 伊明俊  

    任相臣 西毓賢 劉口 劉義清 劉鳳山 劉鳳山  

    劉元志 劉中海 劉文軒 劉存国 劉発成 劉学義  

    劉青山 劉昆玉 劉宝林 劉宝貴 劉項 劉栄吉  

    劉蔭生 劉振玉 劉振奎 劉恩起 劉清柱 劉喜山  

    劉徳盛 朱鳳 朱雲? 朱鳳洲 朱喜真 許長城 

    許春甫 許富 孫芳 孫学君 孫国民 孫紹徳 孫祥  

    孫登俊 孫祥 孫日生 孫玉文 孫清楼 蘇長峰 辛永山  

    辛培源 呉誠斉 鄒殿章 鄒啓忠 宋世志 宋栄興 

    宋緒倹 陳憲  陳伝志 陳紹夷 楊九祥 楊永和

    楊守業 楊吉田 楊景雲 張士君 張広盛 張公挙 

    張長海 長天源 張立山 張玉田 張慶 張伝盛  

    張抻 張紹文 張学江 長宝清 張桂舟 張海林  

    張煥張 宗武張晋 張鴻珠 張福恒 張徳君 李万財  

    李文剛 李長海 李長潤 李守純 李興徳 李寿山

    李良文 李金生 李宝生 李明順 李学梅 李秉衝  

    李樹春 李洪安 李湘雲 李品三 李樹民 李桂海  

    李煥晋 李桂奎 李殿山 李徳山 李鵬閣 李徳福  

    尚慎霖 金士貴 宗昌徳 羅玉菅 周潮周 殿兵 

    聞徳清 胡重禄 侯文田 ?清玉 砂利盛 姜栄泉

    賀伯珍 姚子明 姚万福 姚振声 姚振昌 費立林  

    費立徳 ?文臣 ?振広 趙成財 趙廷忠 趙忠 趙泰松  

    趙連城 趙清章 凌玉忠 聘郷 夏春発 秦化雕 

    顧福先 袁淑貴 袁永利 徐発廷 徐兆田 高維金  

    高惠郷 高喜文 高福  郭明山 郭臨喜 郭喜山  

    郭増漢 康永昌 蕭振梅 隋広文 隋忠盛 崔玉山  

    崔学瑞 崔畑栄 蒋瑞臣 彭鳳昌 程茂積 葛成池  

    葛成? 葛煥清 韓子明 韓文忠 韓忠挙 韓福  

    路柱風 甄永書 崔作元 蔡鳳春 蔡明慶 臧希如  

    潘玉剛 潘樹太 霍万順 載寛 載文来 戴好善  

    戴鴻河 ?万祥 ?義盛 ?元譲 ?振興 ?殿祥  

    バスロ-(ロシア人・女52才) 李基洙 韓成鎮 

    金聖瑞 高昌律 他氏名不明者2名

     

    [ 特移扱いをした憲兵の名前 ]

    焼け焦げた特移扱文書で判読できた氏名のみです。

    東安憲兵隊長       白濱重夫 

    東安憲兵分隊長      辻本信一

    佳木斯(チャムス)憲兵隊長 宇津木盂雄

    関東憲兵隊司令官     原守

    半截河憲兵分遣隊長    日比野亀三郎

    虎頭憲兵分遣隊長     樺澤静茂

    虎林憲兵分隊長      長島恒雄

    ハルビン憲兵隊長     加藤圭二

    下城子憲兵分遣隊長    稲邑六之丞

    延吉憲兵隊長        阿部起吉

    東寧憲兵隊長       谷川岩吉

    北安憲兵分隊長      打道武正

    孫呉憲兵隊長       和田昌雄

    チチハル憲兵隊長     星実敏

    新京憲兵隊長       門田善美

    ?琿憲兵分遣隊長       角西秀

    東寧憲兵隊長       坂元正

    佳木斯憲兵隊長      出口元明

     

    [元憲兵の証言]

    前の方で元憲兵三尾豊さんの証言を書きました。

    今回は三尾さんと共に証言と謝罪活動をしている

    長沼節二さんの証言を掲載します。

    長沼さんは1913年生まれ、

    1936年から関東軍憲兵隊の所属で

    山海関、密山、虎林の憲兵隊を経て

    1943年大連憲兵隊の時に「特移扱」で

    4人を731部隊に送りました。

    敗戦時ソ連の捕虜になりましたが、

    その後中国に引き渡され

    1956年瀋陽の軍事裁判で釈放になり帰国しました。

     

    ●長沼節二 証言  2002年 (一部手直ししています)

    私は天皇制のもとで皇国教育を受けて育ち、

    「上官の命令は朕の命令と心得えよ」との

    教えのままに殺人ロボッット皇軍兵士となった。

    憲兵となり、満洲国で「人から鬼」になり鬼の所業を続けた。

    731部隊へ「特移扱」という形で

    中国人4人を送り、虐殺した。

    特移扱いにする書類を私は書いたのです。

    その結果4人の中国人は731部隊で人体実験され、

    生体解剖されて、虐殺されたのです。

    敗戦後、ソ連のスタ-リンによりシベリアに抑留され、

    1950年に新中国へ戦犯として送り返されました。

    撫順戦犯管理所で「鬼から人」へと

    生まれ変わる6年間の教育を受け、

    あり余る時間の中で自分を見つめ、

    自分の頭で考える事の大切さを学び、

    罪業を告白し、罪を許されて帰国しました。

    それでも私にはまだ「自分の手で直接殺してはいない」

    という気持ちがあったのです。

    家族にも誰にも「特移扱」のことは話せなかったのです。

    帰国した当時の日本社会は、

    我々を「共産主義に洗脳されたアカ集団、危険分子」

    として白い目で迎えました。

    しかし当時の迎え入れた日本人こそが

    天皇制教育に洗脳されていた

    戦前の日本人のことをすっかり忘れ去っていたのです。

    教育は人を変えます。

    教育の持つ力は恐ろしい。

    教育は人をどのようにでも変え得るのです。

    メスを握った医者達と自分は同罪であると心の底から悟ったのは

    1993年新宿で731部隊展はが開催された時でした。

    私は80歳になってようやく

    自分の犯した罪の深さを自覚したのです。

    「特移扱」の証言が出来たのは1994年になってからです。

    ・・・・若者にしっかりと歴史を学ばせること、

    自分の頭で考える教育をするためには、

    戦争体験を伝えることが重要です。

    広島や長崎の原爆被害の記憶だけではなく、

    加害の歴史、加害の記憶を引き継ぐことが大切なのです。

    私は自分の加害証言を死ぬまで続けます。

    証言することは辛いのです。

    前の晩は興奮し、

    かっての自分の行為を思い出し、慙愧の念で眠れません。

    しかし証言しないわけにはいかないのです。

    先に天国に行った三尾豊君と約束しました。

     

    「ワシも死ぬまで証言を続ける」と。

    どうか応援してください。

    命の続く限り証言をします。・・・・

     

    つづきを読む

  • 特別移送

    2020/08/08
    12:06

    普通はどんな犯罪者でも裁判にかけられます。

    細菌研究をする731部隊では

    生体実験に使用する人間が大量に必要でした。

    秘密裏に生体実験を行う事は

    国際条約はもとより日本国内でも許されない事ですし、

    人道的にあってはいけないことです。

    捕虜を裁判にかけていたら

    証拠が残りますし時間もかかります。

    一切秘密で後でバレない方法が考えられました。

    それが特別移送です。

    憲兵が道を歩いている人をいきなり捕まえて、

    簡単に取調べをして書類に特別移送と書けば、

    その瞬間から、個人の名前はなくなり、番号で扱われ、

    一切秘密裡に生体実験の犠牲者としての道をたどったのです。

    その様な犠牲者が少なくとも3000人以上はいたのです。


    特別移送は関東軍司令官植田謙吉、参謀長東条英機、

    警務部長梶栄次郎、731部隊長石井四郎などが計画し、

    1938年1月26日関東憲兵隊司令部警務部が出した

    58号文書「特移(特別移送)扱ニ関スル通牒」から

    スタートしたと言われています。

    殆ど資料が残っていませんが、

    ハバロフスク裁判の資料から

    平野部隊の陣中日誌にある、

    関係する命令書を書きます。

    (読み易く少し手直ししてあります)

     

    ●平野部隊「陣中日誌」抄録 1939年7月17-9月19日

      特殊輸送(注:特別移送の事)護衛に関する命令

      関憲作命第224号

      関東憲兵隊命令 8月8日16時関東憲兵隊司令部

    1.  関憲作命第222号に基く第2回特殊輸送人員は

     約90名とし、8月9日山海関駅到着、  

     山海関よりの輸送は客車1輌とし、   

     8月10日11時15分山海関駅発(山海関・奉天間旅客列車に連結)、

     同13時零時(?)13分孫呉駅到着とす。

    2. 錦州憲兵隊長は前項山海関より

     孫呉間輸送の護衛を担任すべし。   

     但し被輸送人員中60名を除く他は

     ハルピン駅に於いて石井部隊長に交付するものとす。  

     之がため予め石井部隊長に交付人員を区分し

     交付に当り遺憾なきを期すべし。  

     前項護衛の為承徳憲兵隊より将校1、

     平野部隊より下士官兵25、  

     関東憲兵隊教育隊より衛生下士官1を配属す。  

     通訳1は錦州憲兵隊より差出すものとす。
    3. 承徳憲兵隊長は承徳憲兵分隊柴尾大尉を、

     平野部隊長は下士官兵2(曹長1を含む)を、 

     関東憲兵隊教育隊長は衛生下士官1を、

     8月9日中に山海関に派遣し、  

     錦州憲兵隊長の指揮を受けしむべし。

    4. ハルピン憲兵隊長は石井部隊長と密に連繋し、  

     ハルピン駅並びに爾後の輸送に当り

     防諜並取締に遺憾なきを期すべし。

    5. 平野部隊並関東憲兵隊教育隊よりの

     派遣者の旅費は憲兵隊司令部より支給す。

    6. 其他細部事項は関憲作命222号に拠るべし。

    関東憲兵隊司令官城倉少将

     

    1943年(昭和18年)憲兵隊司令部は

    再度「特移扱」に関する通牒を出しています。

    731部隊の人体実験の材料が不足したため

    再度集める必要が出たのかもしれません。

     

    ●関憲高第120号 (原文カナ、読みやすく直しました)

    特移扱に関する件通牒

    昭和18年3月12日  関東憲兵隊司令部警務部長

    主題の件に関しては

    昭和13年1月26日関憲警第58号によるも

    其の取扱は概ね別紙を標準とせられたく依命通牒す

    発送先

    関各隊長(含独立分隊長 除86、教務隊長)

    -別紙-「特移扱」により輸送される者の区別表

    別紙

    区別

     

        犯状

     

    具備条件

    前歴

    性状

    見込み

    その他

    諜者

    (謀略員)

    事件送致するも当然死刑

    又は無期と予想せらるる者

     

     

    逆利用価値

    なき者

     

    諜者謀略員として出入満

    数回以上にして

    現に活動中の者

     

    親「ソ」

    又は抗日

    逆利用価値

    なき者

     

    事件送致するも不起訴乃至

    短期刑にて出獄を

    予想せらるる者

    住所不定無頼の徒

    にして身寄りなきもの

    阿片中毒

    親「ソ」

    又は抗日

    性格不逞

    改悛の情

    認められず

    且再犯

    虞大なるもの

     

    過去に於いて

    活動の経歴を有する者

    匪賊又は之に準ずる

    悪辣行為ありたる者

     

     

     

    他の工作に関係あり或いは

    重要なる機密事項に携わる

    者等にして其の生存が

    軍乃至国家に

    著しく不利なる者

     

     

     

     

    特移扱相当人物の一味

     

     

     

    罪状軽しと

    言えども

    釈放すること

    不可とするも者

    思想犯人

    (民族共産

    主義運動

    事犯)

    事件送致するも当然

    死刑又は無期と

    予想せらるる者

     

     

     

     

    他の工作に関係あり或いは

    重要なる機密事項

    携りたる者等にして

    其の生存が軍乃至国家に

    著しく不利なる者

     

     

     

     

    備考

    各部隊長は右標準に依り個々の人物の処分に当りては満州国の国情に鑑み国政上或いは社会上

    に与える影響、公徳上の感作等十分に考慮し検討の上確信を以って司令官に特移扱を申請

    するものとす

     

     [ 証言 ]

    特別移送に関する証言ですが、

    最初に1997年10月1日に、

    東京地裁で原告(中国人被害者)側証人なった

    三尾豊の陳述から要約します。

    三尾豊は大連憲兵隊から天津に派遣され、

    王耀軒、王学年をスパイ容疑で逮捕し

    大連憲兵隊に連行しました。

    スパイ容疑の関連で逮捕者は

    10数名になり大連黒石事件と呼ばれました。

    容疑者は厳しい拷問の末

    「特別移送」として731部隊に送られました。

    当時12歳だった王耀軒の息子王亦兵は、

    行方不明の父親を探し続けていましたが、

    1990年憲兵隊の特移扱の文書に父親の名前を発見しました。

    戦後平和活動をしていた三尾豊はこの事を知り、

    自分が父親を731部隊に送った憲兵であると名乗り出て、

    その後死ぬまで謝罪を続け、

    裁判の翌年1998年7月に亡くなりました。

     

    ●三尾豊陳述書

    憲兵の本来の任務は、

    軍の秩序維持のための軍事警察一般でありますが、

    戦時にあっては、戦争地域における

    防諜・民心の動向の査察が主な任務とされていました。

    (中略)

    すなわち関東軍憲兵隊司令官は、

    満州国の警察統制委員長となり、

    カイライ国家満洲の警察・鉄道警護

    並びに満洲軍憲兵隊を統制指揮していたわけであります。

    当時の満洲には、

    日本の県に相当する18省の自治体があり、

    そのほか租借地関東州に本部があったわけですから、

    全部で18の憲兵隊が満洲における3000万の中国人を

    厳重な暴力的支配の下においていたわけであります。

    ・・・・憲兵隊が15年間に行った活動は、

    ソ連から間断なく派遣されて進入してくるスパイ対策、

    「西南国境」であった熱河省に侵入する

    中国共産党に対する対策、

    及び関東軍が極秘裏に推進した

    細菌戦部隊731部隊への積極的協力と

    化学兵器部隊516部隊・526部隊に関する

    防諜活動などでありました。

    ・・・・当時細菌兵器について、

    対ソ作戦上不可欠の兵器と考えられていましたので、

    その実験手段としての生きた人間の確保が

    是非とも必要であったと言われています。

    その為に関東軍司令官植田謙吉、参謀長東条英機、

    軍医石井四郎、関東軍憲兵司令官田中静壱などの

    協議によって、731部隊における生きた人間の

    実験材料を充分に確保する目的で生み出された手段が

    「特移扱」でありました。・・・・

    当時の満洲における憲兵隊は、

    客観的に見る限り法的に処刑することの

    不可能ないわゆる被疑者を確実に、

    何らかの法的手続きもなしで、

    処分することのできる手段を

    手に入れたわけでありました。

    憲兵は、逮捕した被疑者をいつでも恣意に

    「特移扱」として、憲兵隊司令官に上申し、

    その許可を得ることによって、

    731部隊へ生体実験用人間として

    移送することができたのであります。

    ・・・・憲兵隊は、何時でも、何処でも

    人を逮捕し、731部隊に送って、

    これを抹消することができたのであります。

    憲兵はやっかいな通常の尋問調書や

    意見書を必要とする事件の送致手続きよりも、

    より簡単な意見書1本で申請することができ、

    しかもそうすることが、自分にとって

    より多くの功績と評価される「特移扱」に、

    より一層積極的に取り組んでいました。

    731部隊の石井四郎は、部隊所属の軍医はもとより、

    日本の大学から連れ込んだ医師にしても、

    「実験材料」として監禁されている「マルタ」は、

    すべて死刑囚であると誤魔化していたのであります。

    医師たちは「死刑囚ならどうせ死ぬんだ、

    医学のために貢献できるのなら本望であろう」などと

    勝手に決め込んで、残酷極まる生体実験を

    何の躊躇もなく、やっていたのであります。

    しかし事実はそうではなかったのです。

    そこに強制的に移送されたほとんどすべての人々は、

    「死刑囚」ではありません。

    死刑囚を生体実験に使えるなら

    「特移扱」を考え出したりする必要はなかったのです。

    ・・・・私が思うに「特移扱」とは、非人道的で

    世界の何処にも存在し得ない「狂気の沙汰」でありました。

    カイライ国家満洲でなければ

    絶対にできないことであったと言えます。

    ・・・・そしてこれに協力し、多

    くの無辜の中国人民を実験材料とするために、

    生体実験室に送り込んだ憲兵の、

    具体的な「特移扱」手続または制度の利用行為もまた、

    石井四郎の生体実験と同じく

    人道上も国際法上も許されることの

    無い重大な犯罪行為であったのです。

    ・・・・生体実験が日本軍の組織的な行為として行われ、

    3000人を超える人々が、実験材料として

    処理されたといわれています。

    かくも多くの人々を実験材料として

    実験室に送り込む役割を引き受けていた者こそ

    日本軍の憲兵であったのであります。

    このような意味において、

    王耀軒外3名の人々を731部隊に引き渡した

    私の行為は殺人行為であり、

    私自身はその行為によって

    殺人者になったのだと言わなければなりません。


    次には特別移送に関する証言を

    中国での戦犯裁判での供述からいくつか見てみます。

     

    ●太田秀清自筆供述書 1954年7月7日

    1939年5月上旬、

    私は日本関東軍承徳憲兵分隊警務係上等兵であった。

    興隆に派遣した憲兵が

    中国共産党員1名(男、45歳前後、氏名不詳)を逮捕し、

    承徳憲兵分隊内に拘禁した。

    拷問を加えたのち、承徳憲兵分隊柴尾大尉の指揮で、

    捕虜移送列車を利用して、ハルピンの石井部隊に護送した。

    拘禁期間および護送の途中、私は監視として警戒にあたり、

    ハルピン駅で石井部隊から派遣されてきた人に引き渡した。

     

    ●津田玄郎 自筆供述書  1954年10月19日

    1939年10月、私は山海関連合外事班で特務伍長をしていた。

    輸送されるべき荷物を調べたさい、

    手がかりを発見し、奉天憲兵隊に電報を打ち、

    荷主であった中国抗日愛国者馬文焔を逮捕した。

    またこれをきっかけに、

    満州国奉天、ハルピンにおいて

    「暁工作」の暗号名で、10名の中国抗日愛国者を逮捕し、

    石井部隊に送致して殺害に至らしめた

     

    ●今関喜太郎 (関東憲兵隊司令部警務部勤務) 

          自筆供述書  1954年10月19日

    1939年10月から40年1月まで、

    私は命令によって前後3回にわたり、

    東安憲兵隊などに対し、5名の抗日工作員を石井部隊に送って

    細菌実験にあてよと命令する指示を

    暗号電報に訳し、通信所から発した。

    1940年12月から41年6月まで、

    私は命令にしたがって、チャムス、東安、

    孫呉憲兵隊隊長の提出した抗日工作員計15名を

    石井部隊移送に関する報告を審査した。

    審査が終わると「電報にて上申された事柄は、

    執行を許可する」との命令を起草し、

    司令官の裁可を得たうえで、

    前述の各部隊に伝達して移送を執行させ、

    15名の抗日工作員を細菌実験の材料にした。

     

    ●笹嶋松夫  自筆供述書 1954年8月11日

    1939年10月から40年11月まで、

    北安憲兵分隊長田附常隣中尉および

    武下虎一大尉は部下の宮崎信伍長に命じ、

    北鶴線列車上で身分証の検査をおこなったさい、

    中国情報工作員3名を逮捕し、

    分隊で訊問したのち、

    石井部隊に移送して殺害にいたらしめた。

    当時私は北安憲兵隊本部功績係軍曹として、

    石井部隊に移送せよとの命令を伝達した。

     

    ●原口一八  自筆供述書 1954年8月26日

    1940年10月から43年3月頃まで、

    私は興安北省地方保安局(分室)において

    事務官局長代理および理事官の職務に就いていた。

    保安局に勤務した2年4ケ月の間に、

    命令を受けて保安局防諜機関

    および各国境警察隊に指示し、

    通ソ容疑者などの名義で、

    中国人70余名、ソ連人6名、モンゴル人15名、

    合わせて90余名を前後して逮捕した。

    訊問ののち、中央保安局の指示にしたがって、

    4通りの方法でそれぞれ処理した。

     1.殺害

     2.ハルピンの石井部隊送り

     3.阜新炭鉱に送って労役に就かせる

     4.特務として逆用

    内訳は、殺害されたものが、

    中国人、ソ連人、モンゴル人21人。

    ハルピンの石井部隊に送られ細菌実験に供されたものが、

    中国人、モンゴル人40人。

    阜新炭鉱で労役に就かされたソ連人が5人....

      (以下省略)

    注:保安局

    1937年12月に設立された満州国の秘密のスパイ組織。

    国境警備、防諜、対外諜報などを任務とし、

    各地に地下組織網をもっていた。

    1943年3月から44年10月まで満州国牡丹江市警察局で、

    特務科長をしていた期間に「浮浪者」という名目で、

    中国人の善良な住民797人を逮捕し、

    労務興国会の労働訓練所に拘留した。

    そのうち牡丹江の731部隊支部に送って

    細菌実験に供し死亡したものが25名いた。

    注:労務興国会

    1941年10月、満洲労工協会を改組して

    成立した労働力調達・統制組織。

    強制連行の手段ともなった。

     

    ●松本英雄 自筆供述書  1954年12月23日

    1941年7月、私がハルピン警察庁司法科捜査係にいたさい、

    司法科が2名、外事科が6名のソ連人を逮捕した。

    のちに、これら8名のソ連人はいずれも731部隊に送られた。

    聞くところによると、

    細菌実験のために送りこまれたということだった。


    次にハバロフスクの軍事裁判訊問を見てみます。

     

    ●橘武夫   佳木斯憲兵隊長 大佐

    (尋問は長いので質問の部分を省略し答えのみ書きます。)

    (原文カナ、読みやすくしました)

    (答) 何れかの犯罪の嫌疑で憲兵隊が拘引し

      検挙した者の一定の部類を、

      我々は実験材料として第731部隊に送致しました。 

      我々はこれらの者を予備的な部分的取調べの後

      裁判に付さず事件送致をせずに 

      憲兵隊司令部より我々が受領した指令によって

      第731部隊に送っていました。 

      これは特殊の措置でありましたので、

      かかる取り扱いは「特移扱」と呼ばれていました。 

      かかるいわゆる「特移扱」にされた者は、

      次の如き部類の者でありました。

      ◎即ち他国家を利する諜報行為の罪を負わされた者、 

      ◎外国諜報機関の関係者の嫌疑を

       かけられた者並びにいわゆる匪賊、 

      ◎即ち中国のパルチザン、それから、抗日分子の部類、 

      ◎改悛の見込みなし刑事犯、即ち常習犯がこれであります。

       ・・・・私の在職中少なくとも6人が第731部隊に送られ、

      これらの者はそこから戻らず、 

      実験に使用された結果そこで死亡しました。

    (答) 私に見せられたこの文書は1943年に作成されました。 

      当時私は関東憲兵隊司令部刑事部に

      勤務していましたところ、 

      かかる文書の作成を命ずる指令が、

      関東軍司令部から入りました。

    (答) この文書はタイプで打たれて、

      満洲各都市の憲兵隊本部に送達されました。 

      「特移扱」に該当する人物は

      憲兵隊本部の留置所に留置され、 

      しかる後彼らの尋問調書の抜粋及び

      「特移扱」許可申請書を憲兵隊司令部に送りました。 

      そこではこの書類を検討し、問題を決定して、

      申請してきた当該憲兵隊本部に 

      これらの人物を「特移扱」の名目で

       第731部隊に送致すべきことに関する

      命令が発せられました。 

      かかる書類が地方の本部から憲兵隊司令部に入りますと、 

      庶務部を経てこれ等は刑事部に引き渡され、 

      それから私が長でありました防諜班に渡されました。 

      私の班の勤務員辻本は、これらの書類検討し決定を下し、 

      かかる後これらの決定を私に提出しました。 

      私はこれを承認してさらに刑事部長に送りました。 

      刑事部長は関東憲兵隊司令官の

      採決を得た後憲兵隊司令官の名を持って、 

      書類を提出した憲兵隊本部に命令を発しました。

    (答)関東憲兵隊は関東軍司令官の指令によってこれを行いました。  

      通常、憲兵隊は事犯者の事件を

      裁判所或いは軍事裁判に送致していましたが、 

      これらの場合には、特別命令が法律に代わり、 

      人間は裁判なしで送致されていました。

    (答) 憲兵隊司令部から「特移扱」正式採決があった後、

      申請書一部が戻され、 

      囚人は憲兵隊本部に留置されていました。 

      その後第731部隊から実験材料、  

      即ち「特移扱」に運命ずけられた

      人間の送致要求があって後、 

      囚人は調書一部と共にハルビンに送られ、 

      ハルビン駅で憲兵隊員に囚人が引き渡されていました。


    ここまで、特移扱いについての証言を書きました。

    731部隊が大量の生体実験が出来たのは、

    特移扱いの制度があったからです。

    三尾さんの証言にもありますように、

    世界にも例の無いほどの残酷な制度です。

    私(筆者)は研究会で直接三尾さんから話を伺いました。

    右隣で立つことも不自由に衰弱した三尾さんは

    その後間もなくして亡くなりました。

    次の項目では特移扱いを行った

    憲兵隊の送致書類を見て見ます。

     

    つづきを読む

  • 731部隊の土地と建物

    2020/08/07
    16:12

    ハルビン市の近くの平房(ピンファン)に作られた

    731部隊は8キロ四方以上にもなる広大な土地で,

    70~150棟もの建物があった巨大な秘密都市として

    特別軍事地域に指定されました。

    特別軍事地域の為、回りは高い塀に囲まれ、

    上空は飛行禁止とされ、

    たとえ日本軍人であろうとも

    通行証のないものは部隊に入れないくらい

    機密が守られました。

    また部隊内に勤務する者でも

    自分の所属する建物以外で

    何が行なわれていたのか知ってはいけないほど

    秘密に包まれていたこともあって、

    戦後長い間公けにならなかったのです。

    秘密都市には多くの研究施設が作られ、

    日夜身の毛もよだつような微生物の研究、

    特に細菌の研究が行なわれていました。

    敷地と建物に関しては、「731部隊の組織」に

    見取り図を載せたので参考にしてください。
                     
    [ ロ号棟とマルタ ]
    731部隊では細菌を実戦に使用するために

    生体実験を繰り返していました。

    人体実験の犠牲になった人は

    3000人以上と言われています。

    人種による細菌の効力の違いを調べるために

    色々な人種の人達が犠牲になりましたが、

    やはり中国人が大多数を占めていました。

    人体実験をするために捕虜収容所を作りました。

    捕虜収容所は丁度カタカナの

    「ロ(四角)」の形状のためロ号棟と呼ばれていました。

    中国側では四方楼と呼んでいます。

    ロの内側は7号牢獄と8号牢獄という2階建てで

    長さ約40m、巾18mの監獄になっていました。

    一度731部隊の門をくぐりロ号棟に入ったものは

    名前を剥奪され番号をつけられ、

    「マルタ(丸太)」と呼ばれ

    単なる材料として1本2本と数えられました。

    そして再び生きて帰ってくることはありませんでした。

    ロ号棟に入れられた(人体実験用の)捕虜は

    表面上犯罪者で死刑囚と言う名目でしたが、

    実際は関東軍の憲兵隊が町から集めてきて

    特移扱(特別移送扱い)として

    731部隊に送り込んだ一般人も多かったのです。

     

    つづきを読む

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