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キーワード「生体実験」を含む投稿一覧

  • 1944年の細菌戦

    2020/11/08
    16:17

    [浙江省温州市のペスト菌実験]

    日本軍では普通の村で村人に対し

    ペスト菌の生体実験をしています。

    その記録です。

    浙江文史資料「鉄証」-侵華日軍在浙江暴行紀実-から

                 1995年

    ●  村を封鎖し予防接種

     1944年9月19日、

     日本侵略軍・峰岸部隊約7~80人は、

     隊長伊藤に連れられて楽清翁垟に進駐し、

     九房村、陳叔興の新しい村を接収した。

     10月21日九房村を封鎖し、

     白いつなぎを着た数人の日本軍医療関係者が、

     人々に予防注射を打ち九房村に

     ペストが発生したといった。

     九房村は300戸余1000人余りの人口で

     住居がかなり密集している大きな村だった。

    ●  ペスト患者を次々実験に

     間もなく封鎖地区内で

     予防接種をした人が予定通り

     ペストを患い始めた。

     しかしこれがペストだとは誰もわからず

     脇や太腿に肉団子のような

     しこりが出来たと思うだけだった。

     屋外のあちらこちらで

     黒いネズミの屍骸が見つかった。

     白衣を着た日本軍医療関係者は

     いつも封鎖地区内を巡視し、

     家の中からうめき声や子どもの泣き声がり、

     あたふたした村民を見かけると、

     すぐに入って検査をした。

     村人の陳永盖は病気で床につき、

     日本軍医が検査した時に、

     リンパ腺が何ケ所か腫れているのが見つかった。

     日本軍はすぐに命令して

     彼を前祠堂の実験所に運び込ませ

     始めて実験をした。

     それから封鎖地区の疫病は

     非常な速さで蔓延し、

     病気にかかった者は100例近い。

     このように5人が実験された。

    ●棺をこじあけて採取

     封鎖が解かれた後も

     九房村は引き続きペストが発生し、

     後街・中街・前街でさえ感染者が出た。

     半月ほどたった後、

     突然白衣を着マスクをした

     数人の日本軍医務員がやって来た。

     かれらは1ケ月前に実験所で死亡した

     陳俊順と陳余千の母親の家族に案内させて、

     棺をこじ開けて死体から何かを取り出し、

     ガラスビンの薬液の中に入れて持ち帰った。

     実験で犠牲になった5人以外に病死したものは15人であった。

     

     

     

    つづきを読む

  • はじめに

    2020/11/08
    10:22

    この原稿は1997年に書いたものを基本にして、大幅に加筆しました。

     

    731部隊を始めとしたいわゆる4つの細菌部隊の目的は

    捕虜を使った実験だけをしていただけではありません。

    実はこれらの残虐行為はそれ自体が目的ではなく,

    細菌の毒力強化や,効果判定や,大量生産のシステムを

    作り上げるための研究として行なわれていたのです。

    そして本当の目的は実際の戦争で細菌戦を実行する事でした。

    もともと日本の軍事医学は非常に優れていました。

    昔から世界のどの戦争でも、実際の戦闘で死ぬ人よりも

    伝染病その他の病気で死ぬ人の方が多かったそうです。

    ところが日露戦争では日本軍の病死者が少ない事が

    世界の驚異となりました。

    しかも日本軍はとても人道的で,

    多くのロシア人捕虜の病気や怪我を治療して

    送り返した事が欧米諸国から賞賛されたと言う

    エピソ-ドが残っている位です。

     

    しかし石井四郎率いる731部隊が登場してから

    戦争医学は人命を救う事から,

    戦争の手段つまり細菌攻撃をする目的に

    180度変ってしまったのです。

    資源の乏しい日本が大国であるソビエトや

    アメリカと戦争するためには

    最も安上がりな生物兵器が必要だと言う

    石井四郎の意見が通ったせいです。

     

    ●  関東軍司令官 山田乙三大将 ハバロフスク公判供述

     ・・・・731部隊は、主としてソビエト同盟

     並びに蒙古人民共和国及び中国に対する細菌戦の

     準備を目的として編成されたものである

     

    ●  元 731部隊隊員 軍属 篠塚良雄 証言

     生体解剖ともなれば,確かに医者たちは

     自分の研究や野心を満足させるので喜々としてやる。

     植付けた細菌がどの部位でどのような

     変化を与えているか大変興味をもって調べる。

     しかしそれは731部隊の目的からすれば2次的なことだ。

     本来は,そこで細菌の毒力がどれだけ強化されたかを調べ,

     より強力な細菌をとり出すということだ。

     したがって生体実験というものは、

     細菌の毒力、感染力の強化実験と言ってもよい。

     生体解剖が必要なのは、死後の雑菌によって

     植付けた菌の毒力が低下しないためだ。

     

    ●  大阪大学名誉教授 中川米蔵   1994年証言

     私は昭和20年に京都帝国大学に入学した時、

     731部隊幹部である軍医の話を聞きました。

     「医学と言うのは,病気を治したり,

     ケガを治したりするものではない。

     日本は世界を相手に戦っている。

     医学もまた兵器だ」

     

    そして細菌戦はその通り実行されました。

    1938年に日本軍機による細菌爆弾の投下や井戸への

    コレラ・チフス菌の投下などの記録がありますが、

    裏づけの証拠や資料が不足しています。

     

    確実なのは1939年のノモンハン事件からです。

     

    ●  証言 西俊英軍医中佐 731部隊教育部長  

     (1949年12月26日、ハバロフスク裁判公判記録から)

    注:検事の質問は短くして、答えを中心に書きます

     ◎ハルハ河方面事件の際、石井部隊が

      細菌兵器を実用したことを知っています。

      1944年7月、私は孫呉の支部から平房駅の

      第731部隊教育部長に転任せしめられました。

      私は前任者園田中佐から事務を引き継ぎました。

      同日、園田中佐は日本に向けて出発しました。

      私は彼の書類箱を開け、ノモンハン事件、

      すなわちハルハ河畔の事件で、

      細菌兵器を使用したことについて書類を発見しました。

      そこには当時の写真の原版、

      この作戦に参加した決死隊の名簿、

      碇少佐の命令がありました。

      決死隊は将校が2人、下士官、兵役20名からなっていました。

      この名簿の下には血で認めた署名があったのを記憶しています。

     ◎(誰の署名か?)

      隊長碇の署名です。

      ついで碇の一連の詳細な命令、

      すなわち如何に自動車に分乗し、

      如何にガソリン瓶を利用するか等、

      さらに帰還するかについての指示が若干ありました。

      これら2つの文書から20人乃至30人からなる決死隊が河-

      私はハルハ河と思いますが-を

      汚染したことが明らかになりました。

      翌日私は、これ等の書類を碇少佐に手渡しました。

      私がこれ等の書類を碇に手渡した時、

      さてこの結果はどうであったのかと興味を持ちました。

      碇は黙ったまま書類を引取りました。

      この作戦が行われた事実は争う余地がありませんが、

      その結果に就いては、私は何も知りません。

     

    ●  証言 元731部隊少年隊 千葉和雄、鶴田兼敏、石橋直方

     1989年8月24日 朝日新聞  (要約)

     「ノモンハン事件の戦場に川に、

     私たちの手で大量の腸チフス菌を流した」

     ホルステン川の上流から病原菌を流し、

     下流のソ連軍に感染させる目的で,

     ハルビン平房から軽爆撃機で輸送されて来た

     18リットルの石油缶22~3個に入った

     寒天状の腸チフス菌を川にぶちまけた。

     その際隊員の中に感染者が出て、

     死亡したものもあった。

     腸チフス菌を川に投入すれば流されて

     すぐにも効力がなくなることぐらいは

     石井らも知らないはずはない。

     あの作戦は細菌戦というよりも、私らの士気を高め、

     能力がどのくらいあるのかを調べる訓練のように思う。

     

    その後中国各地で細菌戦を行ない,

    最後には東南アジア、オ-ストラリア、

    アメリカまでが目標になってきます。

    しかし戦後の東京裁判では

    日本は731部隊の事は免責され、

    存在すら認めていなかったのですから、

    細菌戦も当然無かった事とされてきました。

    ところが最近になって細菌戦の実体が

    少しづつ明らかになってきました。

     

    まず1994年10月浙江省崇山村の農民たちが

    損害賠償を求める文書を日本大使館に

    提出しましたが、日本政府は無視しました。

    この動きがきっかけになって,

    1997年8月11日にはその細菌戦で被害をこうむったとして

    108人余りの内、代表で4人の中国人が来日し

    日本政府を訴えました。

    原告の108人は浙江省,湖南省の6ケ所の地域の人達です。

    今回述べる細菌戦は主として

    満州の731部隊と南京の栄1644部隊との

    合同で行なわれたものです。

    細菌戦による被害は1940年から出ていますが,

    米軍による空襲が始った1942年4月からは、

    その米軍基地が浙江省にあると判断した大本営は

    支那派遣軍に対し同省附近の掃討戦を命令し

    浙かん作戦と称され、その一環として

    細菌戦が強化されたのです。

     

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  • 生体実験の証言

    2020/08/10
    10:46

    ●秋元寿恵 東京帝大出身の血清学者  1984年12月の証言

    部隊に着任して人体実験のことを知った時は

    非常にショックを受けました。

    あそこにいた科学者たちで

    良心の呵責を感じている者は

    ほとんどいませんでした。

    彼らは囚人たちを動物のように扱っていました。

    ・・・・死にゆく過程で医学の発展に

    貢献できるなら名誉の死となると考えていたわけです。

    私の仕事には人体実験は

    関係していませんでしたが、

    私は恐れおののいてしまいました。

    私は所属部の部長である菊地少将に

    3回も4回も辞表を出しました。

    しかしあそこから抜け出すことは出来ませんでした。

    もし出て行こうとするならば

    秘かに処刑されると脅されました。

     

    ● 鎌田信雄 731部隊少年隊  1923年生 1995年10月 証言

    私は石井部隊長の発案で集められた

    「まぼろしの少年隊1期生」でした。

    注:正式な1期から4期まではこの後に組織された

    総勢22~23人だったと思います。

    平房の本部では朝8時から午後2時までぶっ通しで

    一般教養、外国語、衛生学などを勉強させられ、

    3時間しか寝られないほどでした。

    午後は隊員の助手をやりました。

    2年半の教育が終ったときは、昭和14年7月でした。

    その後、ある細菌増殖を研究する班に所属しました。

    平房からハルビンに中国語を習いに行きましたが、

    その時白華寮(731部隊の秘密連絡所)に立ち寄りました

    ・・・・200部隊(731部隊の支隊・馬疫研究所)では、

    実験用のネズミを30万匹買い付けました。

    ハルビン市北方の郊外に毒ガス実験場が何ケ所かあって、

    安達実験場の隣に山を背景にした実験場があり、

    そこでの生体実験に立ち合ったことがあります。

    安達には2回行ったことがありますが、

    1~2日おきに何らかの実験をしていました。

    20~30人のマルタが木柱に後手に縛られていて、

    毒ガスボンベの栓が開きました。

    その日は関東軍のお偉方がたくさん視察に来ていました。

    竹田宮(天皇の従兄弟)も来ていました。

    気象班が1週間以上も前から風向きや天候を調べていて

    大丈夫だということでしたが、

    風向きが変わり、ガスがこちら側に流れてきて、

    あわてて逃げたこともあります

    ・・・・ホルマリン漬けの人

    体標本もたくさんつくりました。

    全身のものもあれば頭や手足だけ、

    内臓などおびただしい数の標本が並べてありました。

    初めてその部屋に入ったときには気持ちが悪くなって、

    何日か食事もできないほどでした。

    しかし、すぐに慣れてしまいましたが、

    赤ん坊や子供の標本もありました

    ・・・・全身標本にはマルタの国籍、性別、

    年齢、死亡日時が書いてありましたが、

    名前は書いてありませんでした。

    中国人、ロシア人、朝鮮族の他にイギリス人、

    アメリカ人、フランス人と書いてあるのもありました。

    これはここで解剖されたのか、

    他の支部から送られてきたものなのかはわかりません。

    ヨーロッパでガラス細工の勉強をして来た人が

    ピペットやシャ-レを造っていて、

    ホルマリン漬けをいれるコルペもつくっていました。

    731部隊には、子どももいました。

    私は屋上から何度も、中庭で足かせを

    はめられたままで運動している

    “マルタ”を見たことがあります。

    1939年の春頃のことだったと思いますが、

    3組の母子の“マルタ”を見ました。

    1組は中国人の女が女の赤ちゃんを抱いていました。

    もう1組は白系ロシア人の女と、4~5歳の女の子、

    そしてもう1組は、これも白系ロシアの女で,

    6~7歳の男の子がそばにいました

    ・・・・見学という形で解剖に立ち合ったことがあります。

    解剖後に取り出した内臓を入れた

    血だらけのバケツを運ぶなどの仕事を手伝いました。

    それを経験してから1度だけでしたが、

    メスを持たされたことがありました。

    “マルタ”の首の喉ぼとけの下から

    まっすぐに下にメスを入れて胸を開くのです。

    これは簡単なのでだれにでもできるためやらされたのですが、

    それからは解剖専門の人が細かくメスを入れていきました。

    正確なデータを得るためには、

    できるだけ“マルタ”を普通の状態で

    解剖するのが望ましいわけです。

    通常はクロロホルムなどの麻酔で

    眠らせておいてから解剖するのですが、

    このときは麻酔をかけないで

    意識がはっきりしているマルタの手足を

    解剖台に縛りつけて、

    意識がはっきりしているままの

    “マルタ”を解剖しました。

    はじめは凄まじい悲鳴をあげたのですが、

    すぐに声はしなくなりました。

    臓器を取り出して、色や重さなど、

    健康状態のものと比較し検定した後に、

    それも標本にしたのです。

    他の班では、コレラ菌やチフス菌を

    スイカや麦の種子に植えつけて栽培し、

    どのくらい毒性が残るかを究していたところもあります。

    菌に侵された種を敵地に撒くための研究だと聞きました。

    片道分の燃料しか積まずに敵に体当りして

    死んだ特攻隊員は、

    天皇から頂く恩賜の酒を飲んで出撃しました。

    731部隊のある人から、

    「あの酒には覚醒剤が入っており、部隊で開発したものだ」

    と聞きました

    ・・・・部隊には,入れかわり立ちかわり

    日本全国から医者の先生方がやってきて、

    自分たちが研究したり、

    部隊の研究の指導をしたりしていました。

    今の岩手医大の学長を勤めたこともある医者も、

    細菌学の研究のために部隊にきていました。

    チフス、コレラ、赤痢などの研究では

    日本でも屈指の人物です。

    私が解剖学を教わった石川太刀雄丸先生は、

    戦後金沢大学医学部の主任教授になった人物です。

    チフス菌とかコレラ菌とかを

    低空を飛ぶ飛行機からばらまくのが「雨下」という実験でした。

    航空班の人と、その細菌を扱うことができる者が

    飛行機に乗り込んで、

    村など人のいるところへ細菌をまきます。

    その後どのような効果があったか調査に入りました。

    ペスト菌は、ノミを介しているので

    陶器爆弾を使いました。

    当初は陶器爆弾ではなく、

    ガラス爆弾が使われましたが、

    ガラスはだめでした。

    ・・・・ペストに感染したネズミ1匹に

    ノミを600グラム、だいたい3000~6000匹たからせて落とすと、

    ノミが地上に散らばるというやり方です

    ・・ベトナム戦争で使った枯葉剤の主剤はダイオキシンです。

    もちろん731部隊でもダイオキシンの

    基礎研究をやっていました。

    アメリカは、この研究成果をもって行って使いました。

    朝鮮戦争のときは石井部隊の医師達が朝鮮に行って、

    この効果などを調べているのですが、

    このことは絶対に誰も話さないと思います。

    アメリカが朝鮮で細菌兵器を使って

    自分の軍隊を防衛できなくなると困るので

    連れて行ったのです。

    1940年に新京でペストが大流行したことがありました。

    (注:731部隊がやったと言われている)

    ・・・・そのとき隊長の命令で、

    ペストで死んで埋められていた死体を掘り出して、

    肺や肝臓などを取り出して標本にし、

    本部に持って帰ったこともありました。

    各車両部隊から使役に来ていた人たちに

    掘らせ、メスで死体の胸を割って

    肺、肝臓、腎臓をとってシャ-レの培地に塗る、

    明らかにペストにかかっていると

    わかる死体の臓器をまるまる

    持っていったこともあります。

    私にとっては、これが1番いやなことでした。

    人の墓をあばくのですから・・・・

     

    ● 匿名 731部隊少佐 薬学専門家

    1981年11月27日 毎日新聞に掲載されたインタビュ-から

    昭和17年4月、731と516両部隊が

    ソ満国境近くの都市ハイラル郊外の草原で

    3日間、合同実験をした。

    「丸太」と呼ばれた囚人約100人が使われ、

    4つのトーチカに1回2~3人ずつが入れられた。

    防毒マスクの将校が、

    液体青酸をびんに詰めた「茶びん」と呼ぶ毒ガス弾を

    トーチカ内に投げ、

    窒息性ガスのホスゲンをボンベから放射した。

    「丸太」にはあらかじめ心臓の動きや

    脈拍を見るため体にコードをつけ、

    約50メートル離れた机の上に置いた心電図の計器などで、

    「死に至る体の変化」を記録した。

    死が確認されると将校たちは、

    毒ガス残留を調べる試験紙を手に

    トーチカに近づき、死体を引きずり出した。

    1回の実験で死ななかった者には

    もう1回実験を繰り返し、全員を殺した。

    死体はすべて近くに張ったテントの中で解剖した。

    「丸太」の中に68歳の中国人の男性がいた。

    この人は731部隊内でペスト菌を注射されたが、

    死ななかったので毒ガス実験に連れて来られた。

    ホスゲンを浴びせても死なず、

    ある軍医が血管に空気を注射した。

    すぐに死ぬと思われたが、死なないので

    かなり太い注射器でさらに空気を入れた。

    それでも生き続け、最後は木に首を吊って殺した。

    この人の死体を解剖すると、

    内臓が若者のようだったので、

    軍医たちが驚きの声を上げたのを覚えている。

    昭和17年当時、

    部隊の監獄に白系ロシア人の婦人5人がいた。

    佐官級の陸軍技師(吉村寿人?)は

    箱状の冷凍装置の中に彼女等の手を突っ込ませ、

    マイナス10度から同70度まで順々に温度を下げ、

    凍傷になっていく状況を調べた。

    婦人たちの手は肉が落ち、骨が見えた。

    婦人の1人は監獄内で子供を産んだが、

    その子もこの実験に使われた。

    その後しばらくして監獄をのぞいたが、

    5人の婦人と子供の姿は見えなくなっていた。

    死んだのだと思う。

     

    ●山内豊紀 証言  1951年11月4日 中国档案館他編「人体実験」

    われわれ研究室の小窓から、

    寒い冬の日に実験を受けている人がみえた。

    吉村博士は6名の中国人に一定の負荷を背負わせ、

    一定の時間内に一定の距離を往復させ、

    どんなに寒くても夏服しか着用させなかった。

    みていると彼らは日ましに痩せ衰え、

    徐々に凍傷に冒されて、一人ひとり減っていった。

     

    ●秦正 自筆供述書 1954年9月7日 中国档案館他編「人体実験」

    私はこの文献にもとづいて

    第一部吉村技師をそそのかし残酷な実験を行わせた。

    1944年冬、彼は出産まもない

    ソ連人女性愛国者に対して凍傷実験を行った。

    まず手の指を水槽に浸してから、

    外に連れだして寒気の中にさらし、

    激痛から組織凍傷にまでいたらしめた。

    これは凍傷病態生理学の実験で、

    その上で様々な温度の温水を使って「治療」を施した。

    日を改めてこれをくり返し実施した結果、

    その指はとうとう壊死して脱落してしまった。

    (このことは、冬期凍傷における手指の

    具体的な変化の様子を描くよう命じられた画家から聞いた)

    その他、ソ連人青年1名も同様の実験に使われた。

     

    ●上田弥太郎 供述書 731部隊の研究者 1953年11月11日 

            中国档案館他編「人体実験」

    1943年4月上旬、7・8号棟で体温を測っていたとき

    中国人の叫び声が聞こえたので、すぐに見に行った。

    すると、警備班員2名、凍傷班員3名が、

    氷水を入れた桶に1人の中国人の手を浸し、

    一定の時間が経過してから取り出した手を、

    こんどは小型扇風機の風にあてていて、

    被実験者は痛みで床に倒れて叫び声をあげていた。

    残酷な凍傷実験を行っていたのである。

     

    ●同上 上田弥太郎 中国人民抗日戦争記念館所蔵の証言

    ・・・・すでに立ち上がることさえできない

    彼の足には、依然として重い足かせがくいこんで、

    足を動かすたびにチャラチャラと

    鈍い鉄の触れ合う音をたてる

    ・・・・外では拳銃をぶら下げたものものしい

    警備員が監視の目をひからせており、

    警備司令も覗いている。

    しかし誰一人としてこの断末魔の叫びを

    気にとめようともしない。

    こうしたことは毎日の出来事であり、

    別に珍しいものではない。

    警備員は、ただこの中にいる200名くらいの

    中国人が素直に殺されること、

    殺されるのに反抗しないこと、

    よりよきモルモット代用となることを監視すればよいのだ

    ・・・・ここに押し込められている人々は、

    すでに人間として何一つ権利がない。

    彼らはこの中に入れば、

    その名前はアラビア数字の番号と

    マルタという名前に変わるのだ。

    私たちはマルタ何本と呼んでいる。

    そのマルタ000号、彼がいつどこから

    どのようにしてここに来たかはわからない。

     

    ● 篠塚良雄  731部隊少年隊 1923年生  1994年10月証言

    ・・・1939年4月1日、

    「陸軍軍医学校防疫研究室に集まれ」という指示を受けました

    ・・・・5月12日中国の平房に転属になりました

    ・・・・731部隊本部に着いて、まず目に入ったのは

    「関東軍司令官の許可なき者は

    何人といえども立入りを禁ず」と

    書かれた立て看板でした。

    建物の回りには壕が掘られ

    鉄条網が張り巡らされていました。

    「夜になると高圧電流が流されるから気をつけろ」

    という注意が与えられました

    ・・・・当時私は16歳でした。

    私たちに教育が開始されました・・・・

    「ここは特別軍事地域に指定されており、

    日本軍の飛行機であってもこの上空を飛ぶことはできない。

    見るな、聞くな、言うな、これが部隊の鉄則だ」

    というようなことも言われました。・・・・

    「防疫給水部は第1線部隊に跟随し、

    主として浄水を補給し直接戦力の保持増進を量り、

    併せて防疫防毒を実施するを任務とする」と強調されました

    ・・・・石井式衛生濾水機は甲乙丙丁と

    車載用、駄載用、携帯用と分類されていました

    ・・・・濾過管は硅藻土と澱粉を混ぜて焼いたもので

    “ミクロコックス”と言われていました

    ・・・・細菌の中で1番小さいものも

    通さないほど性能がいいと聞きました

    ・・・・私は最初は動物を殺すことさえ

    直視できませんでした。

    ウサギなどの動物に硝酸ストリキニ-ネとか

    青酸カリなどの毒物を注射して

    痙攣するのを直視させられました。

    「目をつぶるな!」と言われ、

    もし目をつぶれば鞭が飛んでくるのです

    ・・・・私に命じられたのは、

    細菌を培養するときに使う菌株、

    通称“スタム”を研究室に取りに行き運搬する仕事でした。

    江島班では赤痢菌、田部井班ではチフス菌、

    瀬戸川班ではコレラ菌と言うように

    それぞれ専門の細菌研究が進められていました

    ・・・・生産する場所はロ号棟の1階にありました。

    大型の高圧滅菌機器が20基ありました

    ・・・・1回に1トンの培地を溶解する溶解釜が

    4基ありました

    ・・・・細菌の大量生産で使われていたのが石井式培養缶です。

    この培養缶1つで何10グラムという細菌を作ることができました。

    ノモンハンのときには1日300缶を培養したことは

    間違いありません

    ・・・・ここの設備をフル稼働させますと、

    1日1000缶の石井式培養缶を操作する事が出来ました。

    1缶何10グラムですから膨大な細菌を作ることができたわけです

    ・・・・1940年にはノミの増殖に動員されました

    ・・・・ペストの感受性の一番強い動物は

    ネズミと人間のようです。

    ペストが流行するときにはその前に

    必ず多くのネズミが死ぬと言うことでした。

    まずネズミにペスト菌を注射して感染させる。

    これにノミをたからせて低空飛行の飛行機から落とす。

    そうするとネズミは死にますが、

    ノミは体温の冷えた動物からは

    すぐに離れる習性を持っているので、

    今度は人間につく。

    おそらくこういう形で流行させたのであろうと思います

    ・・・・柄沢班でも、生体実験、生体解剖を

    毒力試験の名のもとに行ないました

    ・・・・私は5名の方を殺害いたしました。

    5名の方々に対してそれぞれの方法で

    ペストのワクチンを注射し、

    あるいはワクチンを注射しないで、

    それぞれの反応を見ました。

    ワクチンを注射しない方が1番早く発病しました。

    その方はインテリ風で頭脳明晰といった感じの方でした。

    睨みつけられると目を伏せる以外に方法がありませんでした。

    ペストの進行にしたがって、

    真黒な顔、体になっていきました。

    まだ息はありましたが、

    特別班の班員によって裸のまま解剖室に運ばれました

    ・・・・2ケ月足らずの間に5名の方を殺害しました。

    特別班の班員はこの殺害した人たちを、

    灰も残らないように焼却炉で焼いたわけであります。

     注:ノモンハン事件

       1939年5月11日、満州国とモンゴルの国境付近の

       ノモンハンで、日本側はソ連軍に攻撃を仕掛けた。

       ハルハ河事件とも言う。

       4ケ月続いたこの戦いは圧倒的な戦力の

       ソ連軍に日本軍は歯が立たず、

       約17,000人の死者を出した。

       ヒットラ-のポーランド侵攻で停戦となった。

       あまりにみっともない負け方に

       日本軍部は長い間ノモンハン事件を秘密にしていた。

       731部隊は秘密で参加し、ハルハ河、ホルステイン河に

       赤痢菌、腸チフス菌、パラチフス菌を流した。

       参加者は、隊長碇常重軍医少佐、草味正夫薬剤少佐、

       作山元治軍医大尉、瀬戸尚二軍医大尉、

       清水富士夫軍医大尉、その他合計22名だった。

       ハバロフスクの裁判記録に証言があります。

     

    ● 鶴田兼敏 731部隊少年隊 1921年生

    1994年731部隊展の報告書から

    入隊は1938年11月13日でしたが、

    まだそのときは平房の部隊建物は建設中でした

    ・・・・下を見ますと“マルタ”が収容されている

    監獄の7・8棟の中庭に、

    麻袋をかぶった3~4人の人が輪になって歩いているのです。

    不思議に思い、班長に「あれは何だ?」と聞いたら、

    「“マルタ”だ」と言います。

    しかし私には“マルタ”という意味がわかりません。

    するとマルタとは死刑囚だと言うんです。

    軍の部隊になぜ死刑囚がいるのかと疑問に思いましたが、

    「今見たことはみんな忘れてしまえ!」と言われました・・・・

    基礎教育の後私が入ったのは昆虫班でした。

    そこでは蚊、ノミ、ハエなど

    あらゆる昆虫、害虫を飼育していました。

    ノミを飼うためには、18リットル入りのブリキの缶の中に、

    半分ぐらいまでおが屑を入れ、

    その中にノミの餌にするおとなしい

    白ネズミを籠の中に入れて固定するんです。

    そうするとたいてい3日目の朝には、

    ノミに血を吸い尽くされてネズミは死んでいます。

    死んだらまた新しいネズミに取りかえるのです。

    一定の期間が過ぎると、缶の中のノミを集めます。

    ノミの採取は月に1,2度行なっていました

    ・・・・ノモンハン事件の時、

    夜中に突然集合がかかったのです

    ・・・・ホルステイン川のほとりへ連れていかれたのです。

    「今からある容器を下ろすから、

    蓋を開けて河の中に流せ」と命令されました。

    私たちは言われたままに作業をしました

    ・・・・基地に帰ってくると、

    石炭酸水という消毒液を頭から足の先までかけられました。

    「何かやばいことをやったのかなあ。

    いったい、何を流したのだろうか」という疑問を持ちました

    ・・・・後で一緒に作業した内務班長だった

    衛生軍曹はチフスで死んだことを聞き、

    あの時河に流したのはチフス菌だったとわかったわけです

    ・・・・いまだに頭に残っているものがあります。

    部隊本部の2階に標本室があったのですが、

    その部屋でペストで殺された“マルタ”の生首が

    ホルマリンの瓶の中に浮いているのを見たことです。

    中国人の男性でした。

    また1,2歳の幼児が天然痘で殺されて、

    丸ごとホルマリンの中に浮いているのも見ました。

    それもやはり中国人でした。

    今もそれが目に焼きついて離れません。

     

    ●小笠原 明 7311部隊少年隊 1928年生れ 

              1993~94年の証言から

    ・・・・部隊本部棟2階の部隊長室近くの

    標本室の掃除を命じられました

    ・・・・ドアを開けたところに、

    生首の標本がありました。

    それを見た瞬間、胸がつまって

    吐き気を催すような気持になって目をつぶりました。

    標本室の中の生首は「ロスケ(ロシア人)」の首だと思いました。

    すぐ横の方に破傷風の細菌によって死んだ人の標本がありました。

    全身が標本となっていました。

    またその横にはガス壊疽の標本があり、

    太ももから下を切り落としてありました。

    これはもう生首以上にむごたらしい、

    表現できないほどすごい標本でした。

    拭き掃除をして奥の方に行けば、

    こんどは消化器系統の病気の

    赤痢、腸チフス、コレラといったもので

    死んだ人を病理解剖した標本がたくさん並べてありました

    ・・・・田中大尉の部屋には

    病歴表というカードがおいてあって、

    人体図が描いてあって、

    どこにペストノミがついてどのようになったか

    詳しく記録されていました。

    人名も書いてありました。

    このカードはだいたい5日から10日以内で名前が変ります。

    田中班ではペストの人体実験をして数日で死んだからです

    ・・・・田中班と本部の研究室の間には

    人体焼却炉があって毎日黒い煙が出ておりました

    ・・・・私は人の血、つまり“マルタ”の血を

    毎日2000から3000CC受取ってノミを育てる研究をしました

    ・・・・陶器製の爆弾に細菌やノミやネズミを

    詰込んで投下実験を何回も行ないました

    ・・・・8月9日のソ連の参戦で

    証拠隠滅のためにマルタは全員毒ガスで殺しました。

    10日位には殺したマルタを

    中庭に掘った穴にどんどん積み重ねて焼きました。

     

    ●千田英男 1917年生れ 731部隊教育隊 1974年証言

    ・・・・「今日のマルタは何番・・・・何番・・・・何番

    ・・・・以上10本頼む」

    ここでは生体実験に供される人たちを

    ”丸太”と称し、一連番号が付けられていた

    ・・・・中庭の中央に2階建ての丸太の収容棟がある。

    4周は3層の鉄筋コンクリ-ト造りの建物に囲まれていて、

    そこには2階まで窓がなく、

    よじ登ることもはい上がることもできない。

    つまり逃亡を防ぐ構造である。通称7,8棟と称していた・・・・

     

    *石橋直方   研究助手

    私は栄養失調の実験を見ました。

    これは吉村技師の研究班がやっていたんだと思います。

    この実験の目的は、

    人間が水と乾パンだけでどれだけ生きられるかを

    調べることだったろうと思われます。

    これには2人のマルタが使われていました。

    彼らは部隊の決められたコ-スを、

    20キログラム程度の砂袋を背負わされて

    絶えず歩き回っていました。

    1人は先に倒れて、2人とも結局死にました。

    食べるものは軍隊で支給される乾パンだけ、

    飲むのは水だけでしたからね、

    そんなに長いこと生きられるはずがありません。

     

    ●越定男  731部隊第3部本部付運搬班

    1993年10月10日、山口俊明氏のインタビュ-

    -東条首相も視察に来た

     本部に隣接していた専用飛行場には、

     友軍機と言えども着陸を許されず、

     東京からの客は新京(長春)の飛行場から

     平房までは列車でした。

     しかし東条らの飛行機は専用飛行場に

     降りましたのでよく覚えています。

    -マルタの輸送について

     ・・・・最初は第3部長の送り迎え、、

     郵便物の輸送、通学バスの運転などでしたが、

     間もなく隊長車の運転、

     マルタを運ぶ特別車の運転をするようになりました。

     マルタは、ハルピンの憲兵隊本部、特務機関、

     ハルピン駅ホ-ムの端にあった憲兵隊詰所、

     それに領事館の4ケ所で受領し

     4.5トンのアメリカ製ダッジ・ブラザ-スに積んで運びました。

     日本領事館の地下室に手錠をかけた

     マルタを何人もブチ込んでいたんですからね。

     最初は驚きましたよ。

     マルタは特別班が管理し、

     本部のロ号棟に収容していました。

     ここで彼らは鉄製の足かせをはめられ、

     手錠は外せるようになっていたものの、

     足かせはリベットを潰されてしまい、

     死ぬまで外せなかった。

     いや死んでからも外されることはなかったんです。

     足かせのリベットを潰された時の

     マルタの心境を思うと、やりきれません。

    -ブリキ製の詰襟

     私はそんなマルタを度々、

     平房から約260キロ離れた安達の牢獄や

     人体実験場へ運びました。

     安達人体実験場ではマルタを十字の木にしばりつけ、

     彼らの頭上に、超低空の飛行機から

     ペスト菌やコレラ菌を何度も何度も散布したのです。

     マルタに効率よく細菌を吸い込ませるため、

     マルタの首にブリキで作った詰襟を巻き、

     頭を下げるとブリキが首に食い込む

     仕掛けになっていましたから、

     マルタは頭を上に向けて呼吸せざるを得なかったのです。

     むごい実験でした。

    -頻繁に行われた毒ガス実験

     731部隊で最も多く行われた実験は

     毒ガス実験だったと思います。

     実験場は専用飛行場のはずれにあり、

     四方を高い塀で囲まれていました。

     その中に外から視察できるようにした

     ガラス壁のチャンバ-があり、

     観察器材が台車に乗せられて

     チャンバ-の中に送り込まれました。

     使用された毒ガスはイペリットや青酸ガス、

     一酸化炭素ガスなど様々でした。

     マルタが送り込まれ、毒ガスが噴射されると、

     10人ぐらいの観察員がドイツ製の

     映写機を回したり、ライカで撮影したり、

     時間を計ったり、記録をとったりしていました。

     マルタの表情は刻々と変わり、

     泡を噴き出したり、喀血する者もいましたが、

     観察員は冷静にそれぞれの仕事をこなしていました。

     私はこの実験室へマルタを運び、

     私が実験に立ち会った回数だけでも

     年間百回ぐらいありましたから、

     毒ガス実験は頻繁に行われていたとみて間違いないでしょう。

    -逃げまどうマルタを

     あれは昭和19年のはじめ、

     凍土に雪が薄く積もっていた頃、

     ペスト弾をマルタに撃ち込む実験の日でした。

     この実験は囚人40人を円状に並べ、

     円の中央からペスト菌の詰まった細菌弾を撃ち込み、

     感染具合をみるものですが、

     私たちはそこから約3キロ離れた所から双眼鏡をのぞいて、

     爆発の瞬間を待っていました。

     その時でした。

     1人のマルタが繩をほどき、マルタ全員を助け、

     彼らは一斉に逃げ出したのです。

     驚いた憲兵が私のところへ素っ飛んで来て、

     「車で潰せ」と叫びました。

     私は無我夢中で車を飛ばし、

     マルタを追いかけ、

     足かせを引きずりながら逃げまどう

     マルタを1人ひとり潰しました。

     豚は車でひいてもなかなか死にませんが、

     人間は案外もろく、直ぐに死にました。

     残忍な行為でしたが、

     その時の私は1人でも逃がすと中国やソ連に

     731部隊のことがバレてしまって、

     我々が殺される、という思いだけしかありませんでした。

    -囚人は全員殺された

     731部隊の上層部は日本軍の敗戦を

     いち早く察知していたようで、

     敗戦数ケ月前に脱走した憲兵もいました。

     戦局はいよいよ破局を迎え、

     ソ連軍が押し寄せてきているとの情報が伝わる中、

     石井隊長は8月11日、隊員に最後の演説を行い、

     「731の秘密は墓場まで持っていけ。

     機密を漏らした者がいれば、

     この石井が最後まで追いかける」と脅迫し、

     部隊は撤収作業に入りました。

     撤収作業で緊急を要したのはマルタの処理でした。

     大半は毒ガスで殺されたようですが、

     1人残らず殺されました。

     私たちは死体の処理を命じられ、

     死体に薪と重油かけて燃やし、

     骨はカマスに入れました。

     私はそのカマスをスンガリ(松花江)に運んで捨てました。

     

    被害者は全員死んで証言はありませんが、

    部隊で働いていた中国人の証言があります。

     

    ●傳景奇 ハルピン市香坊区 1952年11月15日 証言

    私は今年33歳です。

    19歳から労工として「第731部隊」で働きました。

    班長が石井三郎という石井班で、

    ネズミ籠の世話とか他の雑用を8・15までやっていました。

    私が見た日本人の罪悪事実は以下の数件あります。

     1. 19歳で工場に着いたばかりの時は秋で

      「ロ号棟」の中でいくつかの器械が

      血をかき混ぜているのを見ました。

      当時私は若く中に入って仕事をやらされました。

      日本人が目の前にいなかったのでこっそり見ました。

     2. 19歳の春、第一倉庫で薬箱を並べていたとき

      不注意から箱がひっくりかえって壊れました。

      煙が一筋立ち上がり、我々年少者は煙に巻かれ気が遠くなり、

      涙も流れ、くしゃみで息も出来ませんでした。

     3. 21歳の年、日本人がロバ4頭を程子溝の棒杭に繋ぐと、

      しばらくして飛行機からビ-ル壜のような物が4本落ちてきた。

      壜は黒煙をはき、4頭のロバのうち

      3頭を殺してしまったのを見ました。

     4. 22歳の時のある日、日本人が昼飯を食べに帰ったとき、

      私は第一倉庫に入り西側の部屋に死体がならべてあるのを見ました。

     5. 康徳11年(1944年)陰暦9月錦州から来た

      1200人以上の労工が工藤の命令で

      日本人の兵隊に冷水をかけられ、

      半分以上が凍死しました。

     6. 工場内で仕事をしているとき

      動物の血を採っているのを見たし、

      私も何回か採られました

     

    ●関成貴 ハルピン市香坊区 1952年11月4日 証言

    私は三家子に住んで40年以上になります。

    満州国康徳3年(1936年)から第7731部隊で

    御者をして賃金をもらい生活を支えていました。

    康徳5年から私は「ロ号棟」後ろの「16棟」房舎で

    日本人が馬、ラクダ、ロバ、兎、ネズミ(畑栗鼠とシロネズミ)、

    モルモット、それにサル等の動物の血を注射器で採って、

    何に使うのかわかりませんでしたが、

    その血を「ロ号棟」の中に運んでいくのを

    毎日見るようになりました。

    その後康徳5年6月のある日

    私が煉瓦を馬車に載せて「ロ号棟」入り口でおろし、

    ちょうど数を勘定していると

    銃剣を持った日本兵が何名か現れ、

    馬車で煉瓦を運んでいた中国人を

    土壁の外に押し出した。

    しかし私は間に合わなかったので

    煉瓦の山の隙間に隠れていると

    しばらくして幌をつけた大型の自動車が

    10台やってきて建物の入り口に停まりました。

    この時私はこっそり見たのですが、

    日本人は「ロ号棟」の中から毛布で体をくるみ、

    足だけが見えている人間を担架に乗せて車に運びました。

    1台10人くらい積み込める車に10台とも全部積み終わり、

    自動車が走り去ってから私たちはやっと外に出られました。

    ほかに「ロ号棟」の大煙突から煙が吹き出る前には

    中国人をいつも外に出しました。

     

    ●羅壽山  証言日不明

    ある日私は日本兵が通りから

    3人の商人をひっぱってきて

    半死半生の目にあわせたのを

    どうすることもできず見ていました。

    彼等は2人を「ロ号棟」の中に連れて行き、

    残った1人を軍用犬の小屋に放り込みました。

    猛犬が生きた人間を食い殺すのを見ているしかなかったのです。

     

    つづきを読む

  • 特移扱証拠文書

    2020/08/09
    11:36

    特移扱と言う言葉は分かりました。

    では具体的に一人一人の人間を

    どのようにして特移扱にしたのでしょうか?

    敗戦時に日本軍は全ての書類を焼却したので

    資料はないとされていました。

    しかし焼却の焼け跡から焼け残りの

    貴重な憲兵隊の特移扱文書が発見されて

    中国に保存されていました。

    黒龍江省档案館は1999年8月2日、

    保存していた資料の一般公開に踏み切りました。

    その後2001年に吉林省档案館でも資料が発見されました。

    その2つの資料から実際の憲兵隊の特移扱文書を転記します。

    原資料はカナで縦書きです。

    見やすく手直ししました。

     

    表の右側に「特機移牒」とか「特移送」」と書かれている人が

    731部隊に送られて、氏名を消されて

    単に番号で呼ばれて生体実験にあった人です。

     

    ●東憲高第613号

    整理諜者第1次抑留者の処置等に関する件報告

       7.4東憲作命第15号参照
       7.14東件高第532号参照

      昭和16年7月25日  東安憲兵隊長 白濱重夫

      関東憲兵隊司令官 原守殿

     6月28日関憲高第625号に基き

     第1次抑留せる諜者並仝容疑者は

     ・・・・各隊所に於いて誠意真相究明に努め

     夫々別表の如く処置したるに付報告す 
    別表
     整理諜者第1次抑留者の処置一覧表 東安憲兵隊本部 

     整理担任隊所   虎林分隊

    系統 楠工作

    氏名年齢取締概況処置
    呉祥55厳重真相究明に努めたるも容疑事実なし放遣せしむ
    宮俊卿33同上同上
    李鳳閣37

    昭14.4月「ソ」連謀略員孫炳興の勧誘を受け

    列車転覆謀略に加担セル外日軍情報蒐集の上

    孫炳興に提報しあること判明す

    司法処分せしむる予定

    (取調べ状況は近く調整発送す)

     

    系統 張旭武関係

    氏名年齢取締概況処置
    黄炳文557.19虎林憲高第259号参照 特機移牒(特別移送)
    劉遠聲 7.19虎林憲高第257号参照 同上
    柳鳳魁637.14虎林憲高第238号参照 厳諭放遣せしむ
    李家驂397.14虎林憲高第239号参照 特機移牒
      以下省略 

     系統 其の他

    氏名年齢取締概況処置
    李桂山 46通蘇容疑者として抑留厳重究明せるも容疑事実なし放遣せしむ
    萬希全 45 7.13虎林憲高第235号参照特機移牒
    李興田  取調中 
    李長玉427.15虎林憲高第244号参照特機移牒
    李玉恒257.15虎林憲高第245号参照事件送致
    王克明59通蘇容疑者として抑留厳重究明せるも容疑事実なし放遣せしむ
    徐貴珍567.16虎林憲高第244号参照特機移牒
    曲景生477.19虎林憲高第258号参照同上
    魏傳突467.16虎林憲高第254号参照同上
    陳元明487.14虎林憲高第236号参照同上

     

    ●東憲高第760号

    ソ諜の特移送に関する件報告「通牒」

      昭和16年8月20日 東安憲兵隊長白濱重夫

      関東憲兵隊司令官原守殿

    主題の件左記の通り特移送したるに付報告「通牒」す

    (注:全員特移扱いです)

    原籍、住所、職業、氏名年令特移送日時場所摘要

    原籍 山東省高塘県十里堡

    住所 東安省密山県鶏寧街

    煉瓦工 趙成忠 当33年

    8月8日21時

    ハルビン隊本部

    7月25日関憲高第755号に
    基き半截河分遣隊下士官以下
    2名をして特移送せしめたり

    原籍 河北省天津揚柳青

    住所 東安省虎林県虎頭村

    無職 劉元傑 当25年

    8月9日18時30分

    ハルビン隊本部

    7月26日関憲電第438号に基き

    (特移送)

    原籍 山東省牟平県段家村

    住所 東安省虎林件虎頭村

    靴屋 段鳳樓 当43年

    (同上)

    7月26日関憲電第438号に基き

    (特移送)

    原籍 山東省菜陽県佳化

    住所 東安省饒河県大代河

    農  楊吉林 当54年

    (同上)7月28日関憲電第765号に基き

    原籍 山東省菜陽県林格村

    住所 東安省虎林県虎頭村

    料理業 劉文斗 当39年

    (同上)

    7月30日関憲電第774号に基き

    虎頭分遣隊下士官以下4名をして特移送せしめたり

    原籍 山東省?霞県?格庄

    住所 東安省密山県東安街

    雑貨小売商 劉恩 当39年

    8月11日18時30分

    ハルビン隊本部

    8月7日関憲電第488号に基き

    東安分遣隊下士官以下2名をして特移送せしめたり

      (了)

       発送先
        関憲司、哈憲、写 東安、虎頭、半截河

     

    ●佳憲高第413号

      ソ諜 王明春の抑留取調状況に関する件報告「通牒」

      昭和16年7月4日   佳木斯憲兵隊長宇津木孟雄

      関東憲兵隊長  原守殿

    満洲第834部隊配属憲兵は6月17日13時頃

    鶴立県梧鎮軍工事地域内に於いて

    旅行者に対する不審満人を発見し之を追及したるに

    略々ソ諜たるの確信を得たるを以って興山鎮分隊に隠密抑留せり。

    中略   

    状況左記報告「通牒」す

     左記

    1.省略

    2.国籍 中国  

     原籍 河北省保定府青元県于家庄 

     出生地 右仝 

     住所不定

     農業働夫  王明春
    3.4.省略 

    5.身柄の処置  

     本名は入満直後抑留せられたるを以て

     何ら実害なかりしと言えども  

     ソ連指令を確実に実行する

     意図を有しありたるものなるを以て  

     時局の推移に鑑み「特移」と致し度に付認可相成り度し

    以下省略

     

    半分焼け焦げたこのような証拠書類が

    沢山発見されたのです。

    これでもまだ一部でしょう。

    生体実験の対象になる人間が

    足りないからという勝手な理由で

    (時局の推移に鑑み・・・・)、

    特移扱いとして何千人もの庶民が

    いきなり731部隊に放り込まれたのです。

     

    [ 特移扱いの被害者の名前 ]
    被害者の数が1000人、2000人、3000人と言っても、

    それはただの数字です。

    物や材料扱いです。

    被害者一人一人の人生が特移扱いとなった

    瞬間に絶たれてしまうのです。

    どんな人にもかけがえのない人生があります。

    ここで、人の悲しみ、辛さ、後に残された者の

    苦しみに思いを寄せるため

    焼き焦げた「特移扱文書」から読み

    取れる範囲で被害者の実名を書いてみます。

    これらの方々は全員731部隊で生体実験の生贄になり殺されました。

    一人一人の人生を考えていただければと思います。

    同時にその行為に関わった日本軍憲兵の名前も列挙します。

    憲兵の家族や遺族で不快な思いをされる方が

    いらっしゃるかもしれませんがお許し下さい。

    氏名年齢男女職業住所
    劉元傑25男無職東安省虎林県虎頭村
    段鳳楼43男靴屋東安省虎林県虎頭村
    劉文斗39男料理業東安省虎頭県虎頭村
    楊吉林54男農業東安省饒河県大代河
    趙成忠33男煉瓦工東安省密山県鶏寧街
    劉恩39男雑貨小売商東安省密山県東安街花楽区
    劉宝湖32男 東安県密山県滴道村金剛大路
    王振達25? 東安県密山県城子河村宝山屯
    朱雲岫32? 東安省密山県城子河村保山屯
    王明春34?農業働夫住所不定(原籍)河北省保定村青元県于家庄
    黄文華不明? 不明
    李長義不明? 不明
    任殿曹38男農業三江省撫遠県東安鎮下営
    周景生不明? 不明
    徐子峯不明? 不明
    李興田51男果物商東安省密山県滴道村金剛路五牌
    劉漢升48?農業東安省虎林県虎頭村撲實屯
    長生文28男商業東安省虎林県虎頭村撲實屯
    盛桂題35男商業住所不定(原籍)山東省掖県小瑯冴村
    董殿全55?農業東安省虎林県虎頭村撲實屯
    劉世傑38?警察東安省密山県城内朝陽区13牌
    田立順40男警察東安省虎林県独木河村
    安鴻勛42男無職東安省虎林県虎頭村29牌
    國恩章32男調理師東安省虎林県虎頭村西順街20牌
    李厚彬32?無職東安省虎林県虎林街虎林区40牌
    蘇介臣41男飯店炊事夫東安章虎林県虎頭村西順街
    張振起37男炊事夫東安省虎林県虎頭村飯塚木材部
    原美瑧40?飲食店主東安省虎林県虎林街安楽区2牌
    張汝成47男雑貨商東安密山県黄泥河子安楽屯30牌
    于金喜32男苦力東安省虎林県虎頭村興隆街
    矯吉明44男苦力東安省虎林県虎頭村平安街
    王勤山33男農民 
    馬尚文27男苦力 
    劉維平60男商人 

    以下名前だけ追悼の意味で列挙します。

    王照儒 呉春福 唐永金 尹文生 趙新貴 呉天貴  

    樂仁璞 劉文秀 孫福発 薛孟祥 冉慶順 李福林  

    李懐顕 周殿平 ?憲度 張興華 丁元英 于興飛  

    于成海 于進堂 于忠 于嘉盛 馬伝林 馬伝鈞 

    馬連発 馬青山 馬相田 馬徳富 馬徳祥 王子明

    王鳳玉 王長生 王雲峰 王守礼 王兆臣 王守金  

    王安岩 王秀貴 王和 王忠興 王国財 王宝信 

    王宝珍 王金信 王貴? 王登雲 王徳富 王徳福  

    王毓栄 王懐吉 尤長発 孔慶玉 孔慶有 牛殿禄 

    白永財 申永祥 付良民 盧振海 馮興全 馮瑞年

    田永 石明玉 石福廷 石徳発 祁鳳亭 伊明俊  

    任相臣 西毓賢 劉口 劉義清 劉鳳山 劉鳳山  

    劉元志 劉中海 劉文軒 劉存国 劉発成 劉学義  

    劉青山 劉昆玉 劉宝林 劉宝貴 劉項 劉栄吉  

    劉蔭生 劉振玉 劉振奎 劉恩起 劉清柱 劉喜山  

    劉徳盛 朱鳳 朱雲? 朱鳳洲 朱喜真 許長城 

    許春甫 許富 孫芳 孫学君 孫国民 孫紹徳 孫祥  

    孫登俊 孫祥 孫日生 孫玉文 孫清楼 蘇長峰 辛永山  

    辛培源 呉誠斉 鄒殿章 鄒啓忠 宋世志 宋栄興 

    宋緒倹 陳憲  陳伝志 陳紹夷 楊九祥 楊永和

    楊守業 楊吉田 楊景雲 張士君 張広盛 張公挙 

    張長海 長天源 張立山 張玉田 張慶 張伝盛  

    張抻 張紹文 張学江 長宝清 張桂舟 張海林  

    張煥張 宗武張晋 張鴻珠 張福恒 張徳君 李万財  

    李文剛 李長海 李長潤 李守純 李興徳 李寿山

    李良文 李金生 李宝生 李明順 李学梅 李秉衝  

    李樹春 李洪安 李湘雲 李品三 李樹民 李桂海  

    李煥晋 李桂奎 李殿山 李徳山 李鵬閣 李徳福  

    尚慎霖 金士貴 宗昌徳 羅玉菅 周潮周 殿兵 

    聞徳清 胡重禄 侯文田 ?清玉 砂利盛 姜栄泉

    賀伯珍 姚子明 姚万福 姚振声 姚振昌 費立林  

    費立徳 ?文臣 ?振広 趙成財 趙廷忠 趙忠 趙泰松  

    趙連城 趙清章 凌玉忠 聘郷 夏春発 秦化雕 

    顧福先 袁淑貴 袁永利 徐発廷 徐兆田 高維金  

    高惠郷 高喜文 高福  郭明山 郭臨喜 郭喜山  

    郭増漢 康永昌 蕭振梅 隋広文 隋忠盛 崔玉山  

    崔学瑞 崔畑栄 蒋瑞臣 彭鳳昌 程茂積 葛成池  

    葛成? 葛煥清 韓子明 韓文忠 韓忠挙 韓福  

    路柱風 甄永書 崔作元 蔡鳳春 蔡明慶 臧希如  

    潘玉剛 潘樹太 霍万順 載寛 載文来 戴好善  

    戴鴻河 ?万祥 ?義盛 ?元譲 ?振興 ?殿祥  

    バスロ-(ロシア人・女52才) 李基洙 韓成鎮 

    金聖瑞 高昌律 他氏名不明者2名

     

    [ 特移扱いをした憲兵の名前 ]

    焼け焦げた特移扱文書で判読できた氏名のみです。

    東安憲兵隊長       白濱重夫 

    東安憲兵分隊長      辻本信一

    佳木斯(チャムス)憲兵隊長 宇津木盂雄

    関東憲兵隊司令官     原守

    半截河憲兵分遣隊長    日比野亀三郎

    虎頭憲兵分遣隊長     樺澤静茂

    虎林憲兵分隊長      長島恒雄

    ハルビン憲兵隊長     加藤圭二

    下城子憲兵分遣隊長    稲邑六之丞

    延吉憲兵隊長        阿部起吉

    東寧憲兵隊長       谷川岩吉

    北安憲兵分隊長      打道武正

    孫呉憲兵隊長       和田昌雄

    チチハル憲兵隊長     星実敏

    新京憲兵隊長       門田善美

    ?琿憲兵分遣隊長       角西秀

    東寧憲兵隊長       坂元正

    佳木斯憲兵隊長      出口元明

     

    [元憲兵の証言]

    前の方で元憲兵三尾豊さんの証言を書きました。

    今回は三尾さんと共に証言と謝罪活動をしている

    長沼節二さんの証言を掲載します。

    長沼さんは1913年生まれ、

    1936年から関東軍憲兵隊の所属で

    山海関、密山、虎林の憲兵隊を経て

    1943年大連憲兵隊の時に「特移扱」で

    4人を731部隊に送りました。

    敗戦時ソ連の捕虜になりましたが、

    その後中国に引き渡され

    1956年瀋陽の軍事裁判で釈放になり帰国しました。

     

    ●長沼節二 証言  2002年 (一部手直ししています)

    私は天皇制のもとで皇国教育を受けて育ち、

    「上官の命令は朕の命令と心得えよ」との

    教えのままに殺人ロボッット皇軍兵士となった。

    憲兵となり、満洲国で「人から鬼」になり鬼の所業を続けた。

    731部隊へ「特移扱」という形で

    中国人4人を送り、虐殺した。

    特移扱いにする書類を私は書いたのです。

    その結果4人の中国人は731部隊で人体実験され、

    生体解剖されて、虐殺されたのです。

    敗戦後、ソ連のスタ-リンによりシベリアに抑留され、

    1950年に新中国へ戦犯として送り返されました。

    撫順戦犯管理所で「鬼から人」へと

    生まれ変わる6年間の教育を受け、

    あり余る時間の中で自分を見つめ、

    自分の頭で考える事の大切さを学び、

    罪業を告白し、罪を許されて帰国しました。

    それでも私にはまだ「自分の手で直接殺してはいない」

    という気持ちがあったのです。

    家族にも誰にも「特移扱」のことは話せなかったのです。

    帰国した当時の日本社会は、

    我々を「共産主義に洗脳されたアカ集団、危険分子」

    として白い目で迎えました。

    しかし当時の迎え入れた日本人こそが

    天皇制教育に洗脳されていた

    戦前の日本人のことをすっかり忘れ去っていたのです。

    教育は人を変えます。

    教育の持つ力は恐ろしい。

    教育は人をどのようにでも変え得るのです。

    メスを握った医者達と自分は同罪であると心の底から悟ったのは

    1993年新宿で731部隊展はが開催された時でした。

    私は80歳になってようやく

    自分の犯した罪の深さを自覚したのです。

    「特移扱」の証言が出来たのは1994年になってからです。

    ・・・・若者にしっかりと歴史を学ばせること、

    自分の頭で考える教育をするためには、

    戦争体験を伝えることが重要です。

    広島や長崎の原爆被害の記憶だけではなく、

    加害の歴史、加害の記憶を引き継ぐことが大切なのです。

    私は自分の加害証言を死ぬまで続けます。

    証言することは辛いのです。

    前の晩は興奮し、

    かっての自分の行為を思い出し、慙愧の念で眠れません。

    しかし証言しないわけにはいかないのです。

    先に天国に行った三尾豊君と約束しました。

     

    「ワシも死ぬまで証言を続ける」と。

    どうか応援してください。

    命の続く限り証言をします。・・・・

     

    つづきを読む

  • 特別移送

    2020/08/08
    12:06

    普通はどんな犯罪者でも裁判にかけられます。

    細菌研究をする731部隊では

    生体実験に使用する人間が大量に必要でした。

    秘密裏に生体実験を行う事は

    国際条約はもとより日本国内でも許されない事ですし、

    人道的にあってはいけないことです。

    捕虜を裁判にかけていたら

    証拠が残りますし時間もかかります。

    一切秘密で後でバレない方法が考えられました。

    それが特別移送です。

    憲兵が道を歩いている人をいきなり捕まえて、

    簡単に取調べをして書類に特別移送と書けば、

    その瞬間から、個人の名前はなくなり、番号で扱われ、

    一切秘密裡に生体実験の犠牲者としての道をたどったのです。

    その様な犠牲者が少なくとも3000人以上はいたのです。


    特別移送は関東軍司令官植田謙吉、参謀長東条英機、

    警務部長梶栄次郎、731部隊長石井四郎などが計画し、

    1938年1月26日関東憲兵隊司令部警務部が出した

    58号文書「特移(特別移送)扱ニ関スル通牒」から

    スタートしたと言われています。

    殆ど資料が残っていませんが、

    ハバロフスク裁判の資料から

    平野部隊の陣中日誌にある、

    関係する命令書を書きます。

    (読み易く少し手直ししてあります)

     

    ●平野部隊「陣中日誌」抄録 1939年7月17-9月19日

      特殊輸送(注:特別移送の事)護衛に関する命令

      関憲作命第224号

      関東憲兵隊命令 8月8日16時関東憲兵隊司令部

    1.  関憲作命第222号に基く第2回特殊輸送人員は

     約90名とし、8月9日山海関駅到着、  

     山海関よりの輸送は客車1輌とし、   

     8月10日11時15分山海関駅発(山海関・奉天間旅客列車に連結)、

     同13時零時(?)13分孫呉駅到着とす。

    2. 錦州憲兵隊長は前項山海関より

     孫呉間輸送の護衛を担任すべし。   

     但し被輸送人員中60名を除く他は

     ハルピン駅に於いて石井部隊長に交付するものとす。  

     之がため予め石井部隊長に交付人員を区分し

     交付に当り遺憾なきを期すべし。  

     前項護衛の為承徳憲兵隊より将校1、

     平野部隊より下士官兵25、  

     関東憲兵隊教育隊より衛生下士官1を配属す。  

     通訳1は錦州憲兵隊より差出すものとす。
    3. 承徳憲兵隊長は承徳憲兵分隊柴尾大尉を、

     平野部隊長は下士官兵2(曹長1を含む)を、 

     関東憲兵隊教育隊長は衛生下士官1を、

     8月9日中に山海関に派遣し、  

     錦州憲兵隊長の指揮を受けしむべし。

    4. ハルピン憲兵隊長は石井部隊長と密に連繋し、  

     ハルピン駅並びに爾後の輸送に当り

     防諜並取締に遺憾なきを期すべし。

    5. 平野部隊並関東憲兵隊教育隊よりの

     派遣者の旅費は憲兵隊司令部より支給す。

    6. 其他細部事項は関憲作命222号に拠るべし。

    関東憲兵隊司令官城倉少将

     

    1943年(昭和18年)憲兵隊司令部は

    再度「特移扱」に関する通牒を出しています。

    731部隊の人体実験の材料が不足したため

    再度集める必要が出たのかもしれません。

     

    ●関憲高第120号 (原文カナ、読みやすく直しました)

    特移扱に関する件通牒

    昭和18年3月12日  関東憲兵隊司令部警務部長

    主題の件に関しては

    昭和13年1月26日関憲警第58号によるも

    其の取扱は概ね別紙を標準とせられたく依命通牒す

    発送先

    関各隊長(含独立分隊長 除86、教務隊長)

    -別紙-「特移扱」により輸送される者の区別表

    別紙

    区別

     

        犯状

     

    具備条件

    前歴

    性状

    見込み

    その他

    諜者

    (謀略員)

    事件送致するも当然死刑

    又は無期と予想せらるる者

     

     

    逆利用価値

    なき者

     

    諜者謀略員として出入満

    数回以上にして

    現に活動中の者

     

    親「ソ」

    又は抗日

    逆利用価値

    なき者

     

    事件送致するも不起訴乃至

    短期刑にて出獄を

    予想せらるる者

    住所不定無頼の徒

    にして身寄りなきもの

    阿片中毒

    親「ソ」

    又は抗日

    性格不逞

    改悛の情

    認められず

    且再犯

    虞大なるもの

     

    過去に於いて

    活動の経歴を有する者

    匪賊又は之に準ずる

    悪辣行為ありたる者

     

     

     

    他の工作に関係あり或いは

    重要なる機密事項に携わる

    者等にして其の生存が

    軍乃至国家に

    著しく不利なる者

     

     

     

     

    特移扱相当人物の一味

     

     

     

    罪状軽しと

    言えども

    釈放すること

    不可とするも者

    思想犯人

    (民族共産

    主義運動

    事犯)

    事件送致するも当然

    死刑又は無期と

    予想せらるる者

     

     

     

     

    他の工作に関係あり或いは

    重要なる機密事項

    携りたる者等にして

    其の生存が軍乃至国家に

    著しく不利なる者

     

     

     

     

    備考

    各部隊長は右標準に依り個々の人物の処分に当りては満州国の国情に鑑み国政上或いは社会上

    に与える影響、公徳上の感作等十分に考慮し検討の上確信を以って司令官に特移扱を申請

    するものとす

     

     [ 証言 ]

    特別移送に関する証言ですが、

    最初に1997年10月1日に、

    東京地裁で原告(中国人被害者)側証人なった

    三尾豊の陳述から要約します。

    三尾豊は大連憲兵隊から天津に派遣され、

    王耀軒、王学年をスパイ容疑で逮捕し

    大連憲兵隊に連行しました。

    スパイ容疑の関連で逮捕者は

    10数名になり大連黒石事件と呼ばれました。

    容疑者は厳しい拷問の末

    「特別移送」として731部隊に送られました。

    当時12歳だった王耀軒の息子王亦兵は、

    行方不明の父親を探し続けていましたが、

    1990年憲兵隊の特移扱の文書に父親の名前を発見しました。

    戦後平和活動をしていた三尾豊はこの事を知り、

    自分が父親を731部隊に送った憲兵であると名乗り出て、

    その後死ぬまで謝罪を続け、

    裁判の翌年1998年7月に亡くなりました。

     

    ●三尾豊陳述書

    憲兵の本来の任務は、

    軍の秩序維持のための軍事警察一般でありますが、

    戦時にあっては、戦争地域における

    防諜・民心の動向の査察が主な任務とされていました。

    (中略)

    すなわち関東軍憲兵隊司令官は、

    満州国の警察統制委員長となり、

    カイライ国家満洲の警察・鉄道警護

    並びに満洲軍憲兵隊を統制指揮していたわけであります。

    当時の満洲には、

    日本の県に相当する18省の自治体があり、

    そのほか租借地関東州に本部があったわけですから、

    全部で18の憲兵隊が満洲における3000万の中国人を

    厳重な暴力的支配の下においていたわけであります。

    ・・・・憲兵隊が15年間に行った活動は、

    ソ連から間断なく派遣されて進入してくるスパイ対策、

    「西南国境」であった熱河省に侵入する

    中国共産党に対する対策、

    及び関東軍が極秘裏に推進した

    細菌戦部隊731部隊への積極的協力と

    化学兵器部隊516部隊・526部隊に関する

    防諜活動などでありました。

    ・・・・当時細菌兵器について、

    対ソ作戦上不可欠の兵器と考えられていましたので、

    その実験手段としての生きた人間の確保が

    是非とも必要であったと言われています。

    その為に関東軍司令官植田謙吉、参謀長東条英機、

    軍医石井四郎、関東軍憲兵司令官田中静壱などの

    協議によって、731部隊における生きた人間の

    実験材料を充分に確保する目的で生み出された手段が

    「特移扱」でありました。・・・・

    当時の満洲における憲兵隊は、

    客観的に見る限り法的に処刑することの

    不可能ないわゆる被疑者を確実に、

    何らかの法的手続きもなしで、

    処分することのできる手段を

    手に入れたわけでありました。

    憲兵は、逮捕した被疑者をいつでも恣意に

    「特移扱」として、憲兵隊司令官に上申し、

    その許可を得ることによって、

    731部隊へ生体実験用人間として

    移送することができたのであります。

    ・・・・憲兵隊は、何時でも、何処でも

    人を逮捕し、731部隊に送って、

    これを抹消することができたのであります。

    憲兵はやっかいな通常の尋問調書や

    意見書を必要とする事件の送致手続きよりも、

    より簡単な意見書1本で申請することができ、

    しかもそうすることが、自分にとって

    より多くの功績と評価される「特移扱」に、

    より一層積極的に取り組んでいました。

    731部隊の石井四郎は、部隊所属の軍医はもとより、

    日本の大学から連れ込んだ医師にしても、

    「実験材料」として監禁されている「マルタ」は、

    すべて死刑囚であると誤魔化していたのであります。

    医師たちは「死刑囚ならどうせ死ぬんだ、

    医学のために貢献できるのなら本望であろう」などと

    勝手に決め込んで、残酷極まる生体実験を

    何の躊躇もなく、やっていたのであります。

    しかし事実はそうではなかったのです。

    そこに強制的に移送されたほとんどすべての人々は、

    「死刑囚」ではありません。

    死刑囚を生体実験に使えるなら

    「特移扱」を考え出したりする必要はなかったのです。

    ・・・・私が思うに「特移扱」とは、非人道的で

    世界の何処にも存在し得ない「狂気の沙汰」でありました。

    カイライ国家満洲でなければ

    絶対にできないことであったと言えます。

    ・・・・そしてこれに協力し、多

    くの無辜の中国人民を実験材料とするために、

    生体実験室に送り込んだ憲兵の、

    具体的な「特移扱」手続または制度の利用行為もまた、

    石井四郎の生体実験と同じく

    人道上も国際法上も許されることの

    無い重大な犯罪行為であったのです。

    ・・・・生体実験が日本軍の組織的な行為として行われ、

    3000人を超える人々が、実験材料として

    処理されたといわれています。

    かくも多くの人々を実験材料として

    実験室に送り込む役割を引き受けていた者こそ

    日本軍の憲兵であったのであります。

    このような意味において、

    王耀軒外3名の人々を731部隊に引き渡した

    私の行為は殺人行為であり、

    私自身はその行為によって

    殺人者になったのだと言わなければなりません。


    次には特別移送に関する証言を

    中国での戦犯裁判での供述からいくつか見てみます。

     

    ●太田秀清自筆供述書 1954年7月7日

    1939年5月上旬、

    私は日本関東軍承徳憲兵分隊警務係上等兵であった。

    興隆に派遣した憲兵が

    中国共産党員1名(男、45歳前後、氏名不詳)を逮捕し、

    承徳憲兵分隊内に拘禁した。

    拷問を加えたのち、承徳憲兵分隊柴尾大尉の指揮で、

    捕虜移送列車を利用して、ハルピンの石井部隊に護送した。

    拘禁期間および護送の途中、私は監視として警戒にあたり、

    ハルピン駅で石井部隊から派遣されてきた人に引き渡した。

     

    ●津田玄郎 自筆供述書  1954年10月19日

    1939年10月、私は山海関連合外事班で特務伍長をしていた。

    輸送されるべき荷物を調べたさい、

    手がかりを発見し、奉天憲兵隊に電報を打ち、

    荷主であった中国抗日愛国者馬文焔を逮捕した。

    またこれをきっかけに、

    満州国奉天、ハルピンにおいて

    「暁工作」の暗号名で、10名の中国抗日愛国者を逮捕し、

    石井部隊に送致して殺害に至らしめた

     

    ●今関喜太郎 (関東憲兵隊司令部警務部勤務) 

          自筆供述書  1954年10月19日

    1939年10月から40年1月まで、

    私は命令によって前後3回にわたり、

    東安憲兵隊などに対し、5名の抗日工作員を石井部隊に送って

    細菌実験にあてよと命令する指示を

    暗号電報に訳し、通信所から発した。

    1940年12月から41年6月まで、

    私は命令にしたがって、チャムス、東安、

    孫呉憲兵隊隊長の提出した抗日工作員計15名を

    石井部隊移送に関する報告を審査した。

    審査が終わると「電報にて上申された事柄は、

    執行を許可する」との命令を起草し、

    司令官の裁可を得たうえで、

    前述の各部隊に伝達して移送を執行させ、

    15名の抗日工作員を細菌実験の材料にした。

     

    ●笹嶋松夫  自筆供述書 1954年8月11日

    1939年10月から40年11月まで、

    北安憲兵分隊長田附常隣中尉および

    武下虎一大尉は部下の宮崎信伍長に命じ、

    北鶴線列車上で身分証の検査をおこなったさい、

    中国情報工作員3名を逮捕し、

    分隊で訊問したのち、

    石井部隊に移送して殺害にいたらしめた。

    当時私は北安憲兵隊本部功績係軍曹として、

    石井部隊に移送せよとの命令を伝達した。

     

    ●原口一八  自筆供述書 1954年8月26日

    1940年10月から43年3月頃まで、

    私は興安北省地方保安局(分室)において

    事務官局長代理および理事官の職務に就いていた。

    保安局に勤務した2年4ケ月の間に、

    命令を受けて保安局防諜機関

    および各国境警察隊に指示し、

    通ソ容疑者などの名義で、

    中国人70余名、ソ連人6名、モンゴル人15名、

    合わせて90余名を前後して逮捕した。

    訊問ののち、中央保安局の指示にしたがって、

    4通りの方法でそれぞれ処理した。

     1.殺害

     2.ハルピンの石井部隊送り

     3.阜新炭鉱に送って労役に就かせる

     4.特務として逆用

    内訳は、殺害されたものが、

    中国人、ソ連人、モンゴル人21人。

    ハルピンの石井部隊に送られ細菌実験に供されたものが、

    中国人、モンゴル人40人。

    阜新炭鉱で労役に就かされたソ連人が5人....

      (以下省略)

    注:保安局

    1937年12月に設立された満州国の秘密のスパイ組織。

    国境警備、防諜、対外諜報などを任務とし、

    各地に地下組織網をもっていた。

    1943年3月から44年10月まで満州国牡丹江市警察局で、

    特務科長をしていた期間に「浮浪者」という名目で、

    中国人の善良な住民797人を逮捕し、

    労務興国会の労働訓練所に拘留した。

    そのうち牡丹江の731部隊支部に送って

    細菌実験に供し死亡したものが25名いた。

    注:労務興国会

    1941年10月、満洲労工協会を改組して

    成立した労働力調達・統制組織。

    強制連行の手段ともなった。

     

    ●松本英雄 自筆供述書  1954年12月23日

    1941年7月、私がハルピン警察庁司法科捜査係にいたさい、

    司法科が2名、外事科が6名のソ連人を逮捕した。

    のちに、これら8名のソ連人はいずれも731部隊に送られた。

    聞くところによると、

    細菌実験のために送りこまれたということだった。


    次にハバロフスクの軍事裁判訊問を見てみます。

     

    ●橘武夫   佳木斯憲兵隊長 大佐

    (尋問は長いので質問の部分を省略し答えのみ書きます。)

    (原文カナ、読みやすくしました)

    (答) 何れかの犯罪の嫌疑で憲兵隊が拘引し

      検挙した者の一定の部類を、

      我々は実験材料として第731部隊に送致しました。 

      我々はこれらの者を予備的な部分的取調べの後

      裁判に付さず事件送致をせずに 

      憲兵隊司令部より我々が受領した指令によって

      第731部隊に送っていました。 

      これは特殊の措置でありましたので、

      かかる取り扱いは「特移扱」と呼ばれていました。 

      かかるいわゆる「特移扱」にされた者は、

      次の如き部類の者でありました。

      ◎即ち他国家を利する諜報行為の罪を負わされた者、 

      ◎外国諜報機関の関係者の嫌疑を

       かけられた者並びにいわゆる匪賊、 

      ◎即ち中国のパルチザン、それから、抗日分子の部類、 

      ◎改悛の見込みなし刑事犯、即ち常習犯がこれであります。

       ・・・・私の在職中少なくとも6人が第731部隊に送られ、

      これらの者はそこから戻らず、 

      実験に使用された結果そこで死亡しました。

    (答) 私に見せられたこの文書は1943年に作成されました。 

      当時私は関東憲兵隊司令部刑事部に

      勤務していましたところ、 

      かかる文書の作成を命ずる指令が、

      関東軍司令部から入りました。

    (答) この文書はタイプで打たれて、

      満洲各都市の憲兵隊本部に送達されました。 

      「特移扱」に該当する人物は

      憲兵隊本部の留置所に留置され、 

      しかる後彼らの尋問調書の抜粋及び

      「特移扱」許可申請書を憲兵隊司令部に送りました。 

      そこではこの書類を検討し、問題を決定して、

      申請してきた当該憲兵隊本部に 

      これらの人物を「特移扱」の名目で

       第731部隊に送致すべきことに関する

      命令が発せられました。 

      かかる書類が地方の本部から憲兵隊司令部に入りますと、 

      庶務部を経てこれ等は刑事部に引き渡され、 

      それから私が長でありました防諜班に渡されました。 

      私の班の勤務員辻本は、これらの書類検討し決定を下し、 

      かかる後これらの決定を私に提出しました。 

      私はこれを承認してさらに刑事部長に送りました。 

      刑事部長は関東憲兵隊司令官の

      採決を得た後憲兵隊司令官の名を持って、 

      書類を提出した憲兵隊本部に命令を発しました。

    (答)関東憲兵隊は関東軍司令官の指令によってこれを行いました。  

      通常、憲兵隊は事犯者の事件を

      裁判所或いは軍事裁判に送致していましたが、 

      これらの場合には、特別命令が法律に代わり、 

      人間は裁判なしで送致されていました。

    (答) 憲兵隊司令部から「特移扱」正式採決があった後、

      申請書一部が戻され、 

      囚人は憲兵隊本部に留置されていました。 

      その後第731部隊から実験材料、  

      即ち「特移扱」に運命ずけられた

      人間の送致要求があって後、 

      囚人は調書一部と共にハルビンに送られ、 

      ハルビン駅で憲兵隊員に囚人が引き渡されていました。


    ここまで、特移扱いについての証言を書きました。

    731部隊が大量の生体実験が出来たのは、

    特移扱いの制度があったからです。

    三尾さんの証言にもありますように、

    世界にも例の無いほどの残酷な制度です。

    私(筆者)は研究会で直接三尾さんから話を伺いました。

    右隣で立つことも不自由に衰弱した三尾さんは

    その後間もなくして亡くなりました。

    次の項目では特移扱いを行った

    憲兵隊の送致書類を見て見ます。

     

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