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キーワード「第16師団」を含む投稿一覧

  • 第16師団の記録 1

    2020/10/09
    13:24

    南京戦の証言を聞くと、

    「京都師団はひどかった」という話を聞きます。

    京都師団の正式名称は第16師団です。

    青木書店出版の「南京事件 京都師団関係資料集」から

    少し抜粋して転載します。

    有名な師団なので、

    内容的にはこのホームページの各所に

    証言内容が重複して出てきますが、ご容赦下さい。

     

    第16師団の編成については

    「南京戦に参加した日本軍」を参考にしてください。

    個人の陣中日記や手記等を、

    2回に分けて書きます

     

    「東日記」      

        

       第16師団第20連隊第3中隊上等兵(分隊長)

    10月11日頃

     師団長は女、子供に至るまで殺してしまえと

     言っていると云うことだった。

     我々は片端から住民をつまみ出して来た。

     連隊長大野大佐は住民を殺せと命令した。

     敵の居た部落であるが故に、

     住民は敵に加担しているものと

     断定されたのだ。

     広場に30数名が集められた。

     彼らは完全に観念していた。

     逃走しようとも、哀願しようともしなかった。

     ヤッ、と云う突刺の気合と、

     血潮を吹き出すうめきと、

     断末魔の低い地獄の悲鳴とが交錯した。

     血潮は彼等の胸にあふれ地面に這い、

     凄惨が漂い、銃剣が電光のように光り、

     突刺せられた住民達の目玉が鋭く光って、

     全く地獄図絵を現出した。

     1人の老人と、1人の子供が連れて来られた。

     子供は刺し殺された彼の一族の痛烈な

     うめき声を聞き、

     惨酷な血を見て恐怖に戦いた。

     老人はおろおろと子供を防御するように、

     身代わりになるように、ひしとかき抱いた。

     此処では、生命は塵芥ほどの

     値打ちしかなかった。

     ヤァ、鋭い気合と共に子供と老人は殪れた。

     おゝ何たる事だ!

     言い知れぬ熱愛と苦痛の表情で

     老人は最愛の孫の或は子の

     血をすすっているではないか!

     子供の胸からあふれ出る血を、

     ずうずう吸っている老人。 

     何のために?何故?

     それほど彼は子供を愛し、

     消えゆく生命がいとおしいのだ。

     惨憺たる崇高!建設への犠牲か。

     破壊故の犠牲か。

     これが戦争のあるが儘の姿だ。

     これが戦争の感傷だ。

     此の言い難い悲惨は電光のように

     我々の胸を打った。

     子供の鮮血は老人の口から吸われて行く。

     子供の生命を老人の生命の中に

     生かそうとするが如くに。

     子供の残り少ない生命は痙攣し

     最後の一呼吸が来て、死神が肉体を覆った。

     ヤァ、老人が刺された。

     刺した兵士はあまりにも強い兵士だ。

     老人はウウ・・・・とうめいて、

     彼が、己が血の中で生かそうとした

     子供の赤い生命と共に、

     己が赤い年寄った生命を噴出した。

     30数名の死骸が無慙に重なっている。

     人間屠殺工業!彼らは忠実なる職工だ。

     死は至る所に骨の種をまき散らしている。

     種をまかれた所に死が芽生える。

     残酷獰な殺戮が終った。

     再び前進だ。   

    11月24日    

     少尉(梅原)は家の中を探して

     怪しい者の居ないのを確かめると

     出て行きかけて、

     「此の部落民も隣村のように

     皆殺しにするんだ。

     隣村では3才の童子も殺した。

     用事が終ったら逃がさぬようにしておけ。

     明朝は全部息の根を止める!」

     少尉はこう憎らしく言いすてると

     軍刀をガチャリとならして出て行った。

     何のためにかような女子供を殺すのだろう。

     乳呑児を抱きいだきふるえる女達を

     殺したとて何の得があるのだ。

     さっきも、木に縛られた男が

     銃剣で突かれ悲鳴をあげ血を吹いて

     血にまみれた様を見て、

     7~8つの児が火のついたように

     泣き叫び打ち震えていた・・・・   

    12月5日頃    

     それから直ちに部落に火を放って

     次の部落へ出発した。

     放火する、という事は此頃の我々には

     何でもない事であって、

     子供が火遊びをするよりも

     面白がってやるのである。

     「オイ、今日はさむいね」

     「じゃ一軒も焚やしてあたろうか」

     これが今日の私達なのだ。

     私達は殺人鬼であり放火魔である・・・・   

    12月6日    

     私達は宿営するに当って

     先ず部落を掃蕩し、農民を殺して寝た。

     農民の死が私達の睡眠の安全を

     保ってくれるのだ。

     私達が僅か夜の明けるまでの

     3時間程を安眠する為に

     多数の農民の血が犠牲にされる。

     これも亦戦場の悲惨な姿だ。   

    12月16日    

     私達が広場に集合して

     歩哨配置から宿舎割に時を過しているうちに、

     突然捕虜収容の命令が来た。

     捕虜は約2万人だという。

     私達は軽装で強行軍した。

     夕暮が足元に拡がりやがて

     夜の幕が下りすっかり暗くなって

     星がまたたいても歩いていた。

     3~4里も歩いたと思われる頃、

     無数の煙草の火が明滅し

     蛙のような喧騒をきいた。

     約7千人の捕虜が畑の中に

     武装を解除されて座っている。

     あり合せの白布をあり合わせの

     木枝に結びつけて、降参するために

     堂々と前進して来たであろう様を

     想像すると、おかしくもあり哀れでもある。

     我々は2ケ中隊いたが、

     もし7千の彼らが素手であるとはいえ、

     決死一番反乱したら2ケ中隊の兵力は

     完全に全滅させられたであろう。

     我々は白旗を先頭に

     4列縦隊に彼らを並べ、

     所々に私達が並行して前進を開始した。

     捕虜の収容を終った私達は、コ

     ンクリ-トの柱と床だけ焼け残った家に

     宿営する事になった。

     翌朝私達は郡馬鎮の警備を命ぜられた。

     私達が郡馬鎮の警備についている間に、

     捕虜達は2~3百人あて割り当てられ

     殺されたという。

     何故此の多数の捕虜が殺されたのか

     私達には解らない。

     然し何となく非人道的であり、

     悲惨な事に思えてならない。

     私には何となく割り切れない

     不当な事のように思える。

     7千の生命が一度に消えさせらたという事は

     信じられないような事実である。

     戦場で命なんていうものは、

     全く一握りの飯よりも価値がないようだ   

    12月21日    

     道路の向う側に沼があった。

     何処からか1人の支那人が引っぱられて来た。

     戦友達は、仔犬をつかまえらた

     子供のように彼をなぶっていたが、

     橋本は残酷な一つの提案を出した。

     つまり、彼を袋の中へ入れ

     自動車のガソリンをかけ

     火をつけようというのである。

     泣きさけぶ支那人は

     郵便袋の中へ入れられ、

     袋の口はしっかり締められた。

     彼は袋の中で暴れ泣き怒鳴った。

     袋はフットボ-ルのように蹴られ、

     野菜のように小便をかけられた。

     ぐしゃりつぶれた自動車の中から

     ガソリンを出した橋本は袋にぶっかけ、

     袋に長い紐をつけて引きずり

     廻せるようにした。

     心ある者は眉をひそめて

     此の惨酷な処置を見守っている。

     心なき者は面白がって声援する。

     橋本は火をつけた。

     ガソリンは一度に燃えあがった。

     と思うと、袋の中で言い知れぬ

     恐怖のわめきがあがって、

     渾身の力で袋が飛びあがった。

     袋は自ら飛び上がり自ら転げた。

     戦友のある者達は、

     此の惨虐な火遊びに打ち興じて面白がった。

     袋は地獄の悲鳴をあげて

     火玉のように転げまわった。

     袋の紐を持っていた橋本は、

     「オイ、そんなにあつければ

     冷たくしてやろうか」と言うと、

     手榴弾を3発袋の紐に結びつけて

     沼の中へ放り込んだ。

     火が消え袋が沈み波紋のうねりが

     静まらろうとしている時、

     手榴弾が水中で炸裂した。

     水がごぼっと盛りあがって静まり遊びが終った。

     こんな事は、戦場では何の罪悪でもない。

     ただ橋本の残忍性に私達があきれただけである。

     次の時間には此のような事は

     少しの記憶も残さず鼻唄を唄って

     歩いている一隊であった。   

    1938年1月21日    

     夜がすっかり明けた。

     夜が明けると、私

     達の眼前にセイサンな光景が展開した。

     岸壁に牛や豚のように

     虐殺され放り込まれた敵兵の死体

     私達が今日まで、

     常に見かけた特有のドス黒い色の死体、

     はち切れる程空気を入れたかと思われる程の、

     ボウ張しきってふくれ上がった黒い死体が、

     揚子江のなぎさに山となって転がっている。

     全くよく肥えた豚のような死体だ。

     此の汚ない黒い死体の上を、

     黄色い河水がひたひた洗っている。

     或る死体は流された丸太棒のように

     水にゆられている。

     或る死体は連絡船の下敷になっている。

     兵士達は、踏めばぐしゃりと腐った

     泥の臭いのする臓物の出て来そうな

     はれあがった死体の上を、

     飛石でもあるかのように、

     鉄のビョウの打った堅い靴で

     ポンポンポンと飛んで連絡船に乗る。

     水上工兵達は、ボ-トの上から

     長い柄の先についた鉄の鉤に、

     これらの死体を腐った大根にでもするように

     グイと引っかけて、沖へ流しに行く。

     ハレもののように体全体が

     むくみあがった死体に、

     工兵たちの鉤がぶすりと刺し込まれ、

     1人の工兵が1ケづつ、

     計5ケがボ-トに引っぱられて行く。

     岸壁に1人の兵士が立っていた。

     彼は毎日トラックで一杯、

     敗残兵を積んで来た奴を、

     波止場にずらりと並べておいて、

     河の中へ突き落し、

     泳ぐ奴をズドンズドンと射ち殺すのだ。

     これが俺の毎日の仕事だよ、と

     グッと顎をしゃくって言った。

     嫌な仕事だ

     

    「増田日記」      

       増田六郎 

       第16師団第20連隊第1大隊第3中隊第2小隊 

       伍長

    12月14日    

     外国租界に入り避難民中に混りて居る

     敗残兵を掃蕩す。

     第4中隊のみにても500人を下らず。

     武門側にて銃殺せり。

     各隊にても又同じと云う。   

    12月17日    

     出発し白水橋に帰り

     1週間の予定にて駐屯勤務 

     敗残兵の掃蕩を行う。

     多数の捕虜広場に居るを見る

     

    「増田六郎の手記」   

     中山門を逸早く占領して武名を輝したる

     大野部隊(歩兵第20連隊)の花形たる坂隊は、

     午後1時犠牲者の遺骨を抱き

     血達磨隊長(注:第20連隊第4中隊坂清中尉)を

     先頭に堂々と入城したのであった。

     中隊は息つぐ遑もなく田中少尉指揮の下に

     城内の敗残兵掃蕩を開始した。

     中山門を入って5~600米の

     南京大衆病院に這入った。

     鉄筋コンクリ-トの4階建ての

     立派な建物が幾棟もある

     実に立派な広壮な病院だ。

     之は上海、常熟、無錫方面より後送されたる

     戦傷患者を収容して居た所である。

     各分隊ごとに一団となり、

     一兵たりとも許さじと意気込んで踏込んだが、

     其処には血まみれの軍服や

     破れた帽子や毛布等があるばかりであったが、

     憎き支那軍の収容所であっただけでも腹がたつ。

     戸棚と云わず机と言わず

     手当たり次第に打ち壊した。

     薬棚、器具、函時計等の硝子戸も破壊した。

     色々の写真標本の類も、

     ことごとく銃剣で突き出した。

     明くれば14日、

     今日は国際委員会の設置して居る

     難民区へ掃蕩に行くのである。

     昨日まで必死で抵抗して居た

     数万の敗残兵は八方より包囲され

     唯一人も逃げていない。

     結局此の難民区へ逃込んで居るのだ。

     今日こそ虱潰しに草の根を分けても捜し出し、

     亡き戦友の恨を晴らしてやろうと

     意気込んで配置に付いた。

     各小隊に分れてそれぞれ複雑な支那家屋を

     一々索して男は全部取調べた。

     其○○大きな建物の中に

     数百名の敗残兵が軍服を脱いで

     便服と着換えつつある所を

     第2小隊の連絡係前原伍長等が見付た。

     傍には小銃、拳銃、青龍刀等兵器が

     山程積んであるではないか。

     軍服のままの者もあれば、

     早くも支那服に着替えて居る者もあり、

     又下に軍服を着て上に

     支那服を纏って居る者もあるが、

     何れも時候はずれのものや

     不釣合の物を着て居るので、

     俄拵である事が一目で解った。

     片っ端から引張り出して

     裸にして持物の検査をし、

     道路へ垂下っている電線で

     引くくり数珠つなぎにした。

     大西伍長、井本伍長を始め

     気の立って居る者共は

     木の枝や電線で力任せにしばき付け乍ら

     「きさま達の為に俺達は此んな苦労を

     しているんだ、エイ」シャン、

     「貴様等のためにどんなに多くの戦友が

     犠牲となっているか知れんのじゃ、エイ」ピシリ。

     「貴様等のためにどんなに多くの国民が

     泣いてるか知れんのだぞ」エイ。

     ピシリピシリ、エイ、この餓鬼奴、

     ポン「こら此の餓鬼もだ」ポン、

     素裸の頭と言わず背中と言わず蹴る、

     しばく、たたく、思い思いの気晴をやった。

     少なくとも300人位は居る、

     一寸多すぎて始末に困った。

     夕刻迫るころ600人近くの

     敗残兵の大群を引立てて

     玄武門に至り其の近くで

     一度に銃殺したのだった。

     

     

    つづきを読む

  • 地域別・中国

    2020/08/27
    11:26

    兵隊達が慰安所を利用した事や

    捕虜虐殺、放火等は、旧軍人の日記や

    回想録にはある程度出てきます。

    しかし強姦になると加害者側の

    記録があまりありません。

    強姦は恥であると同時に

    軍規で厳しく禁止されていたからです。

    ですから強姦の記録を集めようとすると

    どうしても被害者の証言が

    中心になるのは当然の事です。

     

    1995年に中国の政治協商会議文史資料委員会が

    「侵華日軍暴行総録」という本を出版しました。

    台湾、香港を含む中国全省の聞き取り調査です。

    その中から性暴力に関する部分を

    河北省のみ掲載します。(北京、天津は除く)

     

    「河北省」

    河北省だけで97件ありますので書き切れません、

    適当に省きます。

    番号は原本にある番号のままです。

    尚、この調査では全部で2,272件の

    暴行や強姦が記録されています。

    しかしこれは調査をした範囲ですから

    実際にはこの数倍あったかもしれません。

    強姦事件は中国全域全期間で発生していますが、

    特に三光作戦の時多発しています。

    さらにその中でも解放区

    (中国側が制圧し日本から解放された地区)を

    再度攻めた時、日本軍は腹いせに

    「八路軍地区では何をやってもよい、

    殺人、放火、掠奪、強姦、勝手次第(第1軍田中隆吉少将)」

    ・・・・という政策をとったからです。

    番号

    県

    鎮・郷・村

    年月日

    性犯罪の事例及び概要

    被害者

    1

    万全

    県城

    37.8.27

    30人余の兵士が1女性を輪姦殺害、9名の女性を

    任意に陵辱、屈辱に耐えられず自殺した女性あり

    11

    2

    青県

    流河

    37.9.9

    人妻を輪姦後銃殺、70歳の老女も強姦殺害

    13

    5

    永清

    瓦屋辛庄

    37.9.16

    7ケ月の妊婦を割腹、2人を強姦殺害、他村から

    避難してきた20余名の婦女を発見して輪姦

    多数

    6

    固安

    辛倉村

    37.9.16

    3歳幼女の陰部に銃剣を突き刺し、空中に投げる

    1

    7

    永清

    白?村

    37.9.15

    他村から避難してきた少女7人を強姦殺害

    7

    9

    永清

    徐官営

    37.9.15

    干し草に隠れていた9人の娘を輪姦後刺殺、

    逃げ遅れた女性を輪姦殺害

    10

    11

    滄県

    捷地

    37.9.25

    女子青年を裸にして縛り、強姦後銃剣で刺殺

    不明

    12

    正定

    近郊13村

    37.10.8

    女子青年28名が陵辱を逃れるため6名の幼児を抱えて井戸に投身、24名惨死、娘を輪姦後裸にして殺害

    25

    13

    正定

    カソリック協会

    37.10.9

    9名の外国人聖職者を殺害、多くの修道女を陵辱

    多数

    14

    藁城

    梅花鎮

    37.10.12

    200余名の婦女に対して陵辱、暴力、虐殺、11名の妊婦を割腹輪姦後女性の乳房を切除

    200

    33

    安次

    葛魚城

    38.4.21

    街中を掠奪殺戮、婦女陵辱。人妻を輪姦後斬り殺す

    30

    59

    深県

    北周堡

    42.6.16

    若い女性を陵辱、輪姦後数日後に死亡した女性もいた。

    20余名の女性を日本軍の駐屯地に連行、陵辱

    20以上

    73

    霊寿

    大寨山

    43.10.22

    村の婦女22名を捕縛、数名を陵辱した後、全員を裸にし、

    踊りを強制、不従者は刺殺、最後は大寨山に連行してがけから突き落とし、更に射殺

    20余

    74

    平山

    蘇家庄

    43.秋

    掃討作戦で全村民を監禁し若い婦女を陵辱

    100余

     

    「南京」

    日本の中国侵略の象徴的事件として

    南京事件があります。

    南京大虐殺として有名です。

    加害者、被害者、世界中の報道機関、

    右寄りの学者さえ(きちんとした学者)

    事実としていることです。

    それでもこの事件をまぼろしと主張する

    困った人たちがいます。

    虐殺については別の原稿で詳細に述べますが、

    南京では壮絶が強姦も行なわれています。

    東京裁判の資料では1ケ月に20,000件の

    強姦があったとされています。

    日本軍ではあまりの強姦事件の多さに困って

    軍慰安所を急ピッチで作りました。

    被害者と加害者の証言を書きます。

    このような強姦の被害者が

    南京だけで20,000人いたことを

    想像して読んでください。

     

    ● 蔡玉英さん 証言日 1998年12月15日

     当時(1937年)の住所は、

     南京城内通済門の北大中橋東文思巷に住んでいた。

     家族構成は53歳の父、53歳の母、

     7歳の私の3人家族で父親は竹細工師であった。

     日本軍が侵攻して来ることを知って、

     近所の人々は国際安全区に避難していった。

     父親は、自分たち年寄りや小さな子どもなら

     いくら日本軍が悪いといっても

     危害を加えることはないだろうと思って家に残った。

     まわりでも年寄りや子どものいる家庭は

     こうして残る家が多かった。

     12月13日   

      朝7時か8時ごろ、3~4人の銃と刀を持った

      日本兵が家の扉を開けて入ってきた。

      当時敷地内に3家族住んでいたが、

      銃を乱射して押し入ってきた日本兵に、

      まず管理人のおじいさん、

      朱という家主のおばあさんが撃たれた。

      続いて屋内にいた父が左腕を撃たれて倒れた。

      母も引きずり倒された。

      午後2~3時ころ、再び日本兵が入って来て、

      母を取り囲み、刀で母のシャツや

      身に着けていた衣服を切り裂いた。

      取られまいとしたら身に着けていた

      銀の首飾りやお金を日本兵は奪った。

      母は「やめてください」と言ったが、

      綿入れの上着や布団までなにもかも奪っていった。

     12月14日   

      午後2~3時ころ、父の傷が深いので

      近くの避難所に逃げようとしたが、

      手前で日本兵に銃で遮られ家に追い返された。

      真冬で寒かったので、

      午後庭の陽だまりで日に当たっていると、

      2人の日本兵が馬に乗って入ってきた。

      馬から降りた1人は髭が生えていて、

      急に私に近づいて抱き上げズボンを脱がそうとした。

      激しく抵抗して泣く私に父は

      「泣かないで、泣かないで」と言って、

      日本兵から私を取り戻そうとした。

      父は数度日本兵に顔を殴られ地面に倒れた。

      その場で馬乗りになり、

      首を3度も切りつけられた。

      血が止まらず血溜まりの中で父は動かなくなった。

      母は必死になって父をベッドに運んでいった。

     12月15日  

      午後2~3時ころ台所の下で

      私と母が横になっている所へ、

      再び2人の日本兵が入って来た。

      父は出血で衰弱して横たわったままだった。

      日本兵は父のところへ近づき、

      父の目を指で開き、刀を口に差し込み、

      中国語で「死了、死了」と言った。

      父は意識があったが傷がひどくて

      声も出ず抵抗も出来なかった。

      父が死んだと思って

      1人の日本兵が私に近づいてきた。

      私は恐怖で声も出なかった。

      日本兵は私を押し倒し、

      乱暴にズボンを剥ぎ取った。

      太ももを両手で開き、

      指を膣に押し込んでえぐった。

      痛くて痛くてたまらなかったが、

      殺されるのが恐くて泣く事もできなかった。

      そのまま私は日本兵に強姦された。

      母は強姦を恐れて顔に煤を塗っていたが、

      もう1人の日本兵に顔を強くこすられた。

      このときは母日本兵の手を噛んだので

      顔をひどく殴られ強姦されてしまった。

      その後銃口を膣にねじこまれて

      痛くて「やめて」と泣きながら哀願したが

      聞き入れられなかった。

      もし私も泣き叫んだら母も殺されると思っていた。

      母の下半身から沢山の血が流れ止まらなかった。

      動けなくなった父の眼前で

      母と私は日本兵から残酷な蹂躙を受けた。

      日本兵が去った後、私の性器は腫れあがり

      痛くて動くことも出来なかった。

      小便が知らないままに流れ出し

      調節が出来なくなっていた。

      父も母も動けなくなり傷の手当は

      自分でするしかなかった。

      布切れを股にあてていたが、

      小便がしみていたくて身体をうごかすことが出来ず、

      何ケ月たっても前かがみになって

      股を開いた姿でしか歩けなかった。

      父は首を切られたために身体が動かず、

      重体で食物も受け付けず、

      数日後には死んでしまった。

      母も精神的におかしくなり

      悲惨で毎日泣き暮らした。

      日本兵に強姦された時顔を

      強くこすられ目も傷ついて失明し、

      食物も受け付けなくなって

      父のすぐ後に死んでしまった。

      数日後、父の兄弟の妻が安全区から戻ってきて

      私たちの世話をしようとした。

      この人はまだ16歳で、

      家にやって来た3人の日本兵に輪姦されてしまった。

      後で戻ってきた夫はそれを知って

      「日本兵と寝た女」と彼女をひどく殴りつけた。

      夫に解ってもらえず彼女は絶望して

      間もなく池に飛び込んで自殺してしまった。

      また、近所に住んでいた自分より1歳年上の

      遊び友達の女の子は両親の前で日本兵に強姦された。

      父も母も「助けてください、助けてください」と

      跪いて哀願するのも聞き入れられず、

      銃で撃ち殺されてしまった。

      その上、女の子は強姦されたあと、

      酒の瓶の先を性器に差し込まれて

      痛くて泣き叫んでいた。

      日本兵は刀でその子を切り殺した。

      その後も日本兵はたびたびやってきたが、

      私のボロボロになったズボンをずらし、

      下半身が腫れあがっているのを見て

      強姦するのを諦めた。

      しかし、解らない言葉で怒鳴りながら

      私を殴ったり蹴ったりした。

      父も母も日本兵に殺され、

      幼い私は身体の痛みを我慢しながら、

      独りぼっちで生きていかなくてはならなかった。

      物乞いをしてその日の食物を手に入れることがあった。

      悲しくて何度も池に飛び込んで

      死んでしまおうと思った。

      ある日池の端で泣いていると、

      青年がやってきて私に泣いている訳を尋ね慰めてくれた。

      彼は早くに両親を亡くしていて、

      独りぼっちの私の悲しみを理解してくれ

      何度も食物やお金を分けてくれた。

      14歳になった時、私は14歳年上のその人と結婚した。

      彼は優しくて、私のおむつまで洗ってくれる人だったが、

      夫の姉はことごとく私に辛くあたった。

      「日本人と寝た女、汚らしい女」と罵り殴られた。

      両親を奪われ教育も受けられなかった。

      強姦のときの傷がひどく、

      私はいまだにおむつを離せない身体になり、

      60年間辛い思いをしてきた。

     

    ● 井戸 直次郎(仮名)  1914年7月生まれ   

        第16師団歩兵第33連隊第3大隊 

        2000年5月証言

     (強姦は)そこら中でやっとった。

     つきものじゃ。

     そこらじゅうで女を狙いおるのや、

     女を強姦しとるのをみたで。

     婆さんも見境いなしじゃ。

     強姦して殺すんじゃ。

     もう無茶苦茶じゃ。・・・・

     家の長持ちの蓋を開けると

     中に若い嫁さんが隠れとったんじゃ。

     纏足で速く逃げられんで、

     そいつを捕まえて、

     その場で服を脱がせて強姦したんじゃ。

     ズボン1つでパンツみたいな物をはいておらんで、

     すぐに出来た。

     やった後「やめたれ」って言うたんやけどな、

     銃で胸を撃って殺した。

     後で憲兵隊がきてばれると

     罪になるから殺したんじゃ。

     それを知っとるさかい、やった後殺すんじゃ。

     だいぶたって治安が良くなるとな、

     部隊のみんなを並ばせて、

     憲兵隊が強姦された女を連れてきて、

     誰がやったと調べたこともあった。

     平時と違って罪にはならんかったが、

     「やめとけよ!」と怒られる程度じゃった。

     悪い事し放題やった。

     10人おって9人までは強姦しとらん者はおらん。

     自慢話にもなっとる。

     慰安婦いうて、30人位の女を

     たいがいの部隊では連れ歩いておった。

     ほとんどは朝鮮人の女じゃった。

     わしらの部隊でも慰安所を作ったわな、

     中隊やなく、野田部隊の連隊で作っておった

     街の中でも女が隠れてとる所をよく知っといたわ。

     若いもんも、お婆も、みんなやった。

     それからばれたらまずいから殺すんじゃ。

     南京に入る前から、

     南京に入ったら女はやり放題、

     物は取り放題じゃ、と言われておった。

     「70くらいのお婆あをやった。腰が軽うなった」と

     自慢しよる奴もおった。

     街中にも女はぎょうさん残っておった。

     たいがい穴の中に隠れておってね。

     慰安所作っても強姦減らんわ。・・・・

     わしの分隊はまだましやったけど、

     他の兵隊は無茶苦茶や、

     分隊の兵隊はほぼ皆やっとった。

     街に行ったら「ただ」やからな。

     ほとんど女ばっかりの

     難民区(金陵大学か?)にも行って、

     部屋に入ったらこれとこれと、

     指差して、女は遊び放題やった。

     その場でやってしまうんや。・・・・

     昼夜お構いなしじゃ。

     大体1個分隊で行った。

     10数回は行ったやろうかな。

     各分隊みんなそんなもんじゃった。・・・・

     

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