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キーワード「華北労工協会」を含む投稿一覧

  • 連行された人の証言

    2020/07/29
    16:40

    ●傳寿亭さん

     1944年8月、私は保定市で

     日本軍第1417宮島部隊に捕まりました。

     「八路軍だろう」という嫌疑により、

     何度も訊問や拷問をされましたが、

     絶対に認めませんでした。

     その後石門労工訓練所へ送られました。

     そこの住まいはアンペラ小屋で、

     夜になると着ている服も脱がされました。

     食物は生煮えのコウリャンで、

     お湯も飲ませてもらえず生水だけでした。

     雨が降ると雨漏りがして床には水が溜まりました。

     服は薄い半袖で、寒さと飢えで多くの人が死にました。

     1日に17~8人死んだのを見たことがあります。

     1ケ月もたたない内に私たちは、

     300人を1つの大隊として編成されました。

     2つの中隊、6つの小隊という編成でした。

     日本人の松浦(華北労工協会職員)に護送され

     塘沽へ連行されました。

     

    ●魏永禄さん

     私は定県の梅家村の生まれです。

     1944年6月に河北省完県で

     日本の憲兵隊に捕まりました。

     その夜訊問・拷問が加えられました。

     30分以上も革のベルトで殴り、

     革靴でけり痛めつけるという拷問が続けられました。

     現在も背中にかなりの後遺症が残っています。

     その後、望都へ連れて行かれました。

     そこでも拷問されました。

     水を無理やり飲ませるための特別製の刑具があり、

     両手両足を縛りつけ、

     さらに首の所には半円形の

     首を固定させる器具が付いていました。

     それで首を押えられると、

     頭を動かす事が出来ません。

     それで鼻をつまんで

     無理やり水を流し込むやり方でした。

     腹一杯になると、私の腹を踏みつけて

     水を吐き出させるということを繰り返しました。

     本当に死線をさまようひどい拷問でした。・・・・

     その後水牢に入れられました。

     水牢は2部屋位ある大きなもので、

     真ん中は非常に水位が深くなっていました。

     これでは殺されると思い、

     やむなく「そうだ」と言ってしまいました。

     その後石門俘虜収容所に送られました。

     石門では寝る時には

     掛布団も敷布団もなくムシロだけでした。

     逃亡を防止するためとして、

     すべての服を脱がされて

     パンツをはくことさえ許されませんでした。

     収容所のまわりに電気鉄条網を引き、

     軍用犬を放していました。

     1ケ月位で塘沽に運ばれました。

     

    ●范振華さん

     私は定州市の家で捕まりました。

     日本の憲兵隊の高野と田中に

     8回も訊問・拷問されました。

     八路軍だと認めないでいると、

     針金で私の小指と小指をくくりつけ、

     そのままに上に吊り上げました。

     その為私の小指はこの様になってしまいました。

     背中もこの様になってしまいました。

     さらに口を開けさせて、

     粟の入っている水を無理やり飲ませ、

     腹一杯まで水を注ぎました。

     その後革靴で腹を踏みつけ水を押し出します。

     また、水を飲ませる。

     さらに、床に膝まづけせ、

     太股に太い丸太を押し付け痛めました。

     そのせいで今でも足が痛みます。

     次には鉄の檻に中に入れられ

     尖った釘で身体を刺されました。

     その後、石門俘虜収容所に入れられました。

     食事は虫が湧いているコウリャンでした。

     1ケ月位で塘沽に連れて行かれました。

     痩せて皮1枚の状態で

     歩く事すらできないくらい弱っていました。

     

    ●鎖計さん

     日本軍に捕まったのは1944年6月、22歳でした。

     日本軍が私の村を包囲して

     「集会を行なう」と称して村民を集めて、取囲みました。

     その村民の中から20数名を選び出して

     鄭家荘に連行しました。

     そこではすぐに拷問されました。

     針金で両手を縛って、

     かがませて、足の前に手を組ませて、

     手と足の膝の裏に棒を通して

     動けないようにされたのです。

     それから背中を床につけられて

     日本兵4人に押さえつけられました。

     1人が頭を押えて後の2人は棒のところを押えていました。

     また、鼻をつまんで口から石鹸水を注がれました。

     ずっと殴られたり拷問されるので殺されると思い、

     嘘をついて「破壊活動をした」と言いました。

     しかしその後も更に酷い拷問が続きました。

     その後石門俘虜収容所に連行されました。

     収容所では布団や衣服は一切ありませんでした。

     半月位いて塘沽に連行されました。

     

    ●張来栄さん

     1944年11月山東省で農業をしていた私は

     町の市場へ買い物に時連行されました。

     銃を構えた日本兵が数十人現れ、

     市場を包囲しました。

     年齢の若い男だけが1ケ所に集められたのです。

     そして全員トラックに乗せられてしまったのです。

     30人近くはいました。

     青島では何千人もの中国人が、

     ほうぼうから集められていました。

      

    ●石玉海さん

     1943年7月のある晩、

     私は急用のため友達を訪ねる途中でした。

     暗がりでバラバラと4~5人の日本の憲兵が現れて、

     私をすばやくホロの付いたトラックに

     押し込むと走り去ったのです。

     ホロの隙間から家族のいる私の家の灯りが見え、

     それがドンドン遠ざかりました。

     上海郊外の家は

     もう2度と見る事は出来ませんでした。

     この時私は16歳でした。

     

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  • 石門俘虜収容所と訓練供出

    2020/07/29
    16:27

    討伐で強制連行された中国人は

    収容所に収容されました。

    いくつかあった収容所の内、

    石家荘(石門とも言う)戦争俘虜収容所が

    一番大きい収容所でした。

    石家荘は華北の要衝で

    日本軍も多くの部隊を駐屯させていました。

    収容所は第110師団司令部と

    特務情報機構(六条公館)に直属し、

    華北労工協会が管理していました。

    場所は石家荘駅の東南にあって

    面積は約18.5ヘクタ-ル(約56,000坪)と言われています。

    通称は俘虜収容所、労工教習所、労工訓練所と呼んでいました。

     

     注:収容所は北京、保定、済南、徐州、塘沽、大連にもありました。

     

    討伐で連行された中国人が軍人であった場合、

    ジュネ-ブ条約違反になりますので、

    一定期間訓練所で訓練し、

    元俘虜、元帰順兵として、

    供出機関を通じて日本へ送り出したのです。

    収容所の訓練とは

    重労働と虐待を機械的に繰り返すことや、

    洗脳(日の丸、君が代、皇居遥拝)で

    反抗する気力を失わせる事でした。

    また、ぎっしり詰込まれていたため

    病気や事故などでかなりの死亡者があったようです。

     

    ●曹栄躍 回想記「我所知道的南兵営」 1984年7月

     収容所で戦争捕虜に最も脅威となったのは

     疾病と疫病であった。

     数百人が1部屋にぎっしりと詰込まれ、

     虱、蚤、南京虫が固まっていた。

     オデキ、疥癬が蔓延し、恐ろしい伝染病が流行し、

     死の恐怖がすべての人を脅かしていた。・・・・

     収容所の病棟は3棟あった。・・・・

     伝染病と老弱重病者は3等病棟に入れられ、

     死ぬのが早められた。

     病棟は板を寝床とし、

     伝染病棟には地面に厚く石灰が敷かれて、

     赤痢、チフス、コレラ、猩紅熱に罹った病人は

     ここに隔離され、医療も薬品もなく、

     食事もとれず、水も飲めず、

     自然のままに任せるしかなく・・・・

     まだ息をしており治療すれば助かるのに

     死体置場に運ばれた者もいた。・・・

     厳寒の冬には・・・・

     病棟で凍死し、耳や鼻、睾丸が

     鼠に噛み切られているのがしばしば見かけられ、

     まことに凄惨な状況であった。・・・・

     死体をまるで刈り取った後の

     コウリャンのように束ねて、

     車に積み込んで運び出した。・・・・

     死体は休門義地の「万人坑」に投げ込んだ。

     1944年、日本軍は洛陽作戦で、

     短期間で石家荘に

     1,300人あまりの国民党の捕虜を送ってきたが、

     距離が遠かったので傷病捕虜は

     食事も摂れず水も飲めないまま、

     有蓋貨車に何日も閉じ込められ、

     石家荘に着いて汽車を降りない内に大量の死者が出た。

     収容所に入れられてから、

     人が増え過ぎたため条件が劣悪で、

     毎日数十人が死亡、

     最も多い時は、1晩に290人以上も死に、

     三輪人力車は運びきれず、

     トラックで外に運び出した。

     

    1939年設立から1945年の6年間で

    約50,000人が収容され、

    20,000人余りが虐待されて死亡し、

    約30,000人が労務者として

    日本に連行されたと言われています。

      (元・労工訓練所副所長 張子元 回想録)

     

     

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  • 供出機関

    2020/07/29
    10:40

    供出機関として華北労工協会を始めとした

    5つの機関が窓口になっています。

    実際にどのような機関だったのでしょうか?

     

    ●華北労工協会

     設立  1941年7月

     資本金 40万円  

      内訳 中国側 華北政務委員会 20万円

         日本側 北支那開発(株) 20万円

       注:北支那開発は華北の鉱山資源の

         掠奪を目的にして日本の帝国議会の

         承認を受けた国策会社。

         興亜院の管轄下に置かれる

     目的  

      華北の労働力を

      現地、華北・満州・日本に調整配分する

      賃金の統制、労働者の郵送手配をする

     地位  

      形式上は中国法人だったが、

      実際は北支那方面軍や

      興亜院華北連絡部の指導下にあった。

        注:興亜院に付いては

          「日本軍による阿片政策」に書きました

     

    ●華北運輸公司(華北交通(株))

     設立  

      1939年4月 

      中国臨時政府(日本の傀儡政権)の特殊法人として設立

      南満州鉄道の業務を引き継いだ

     目的  

      軍事輸送と石炭、鉱石、綿花等の資源輸送

      会社自体が警務機関を持ち

      政府と企業の権益を守る義務を負っていた

      主として満州へ年間数万人を

      徴発(強制連行)し送り込んだ

        以下省略

     

    直接日本本土ではありませんが、

    満州国への労働力供給の資料があります。

    満州国へも日本へも強制連行は

    同じようなものなので参考までに書きます。

     

    1941年4月、北京で「満州・北支労務対策会議」が

    関東軍の申し入れで開かれました。

    理由は満州国の労働力が不足したためです。

     

    ●満州・北支労務対策会議

     出席者 満州国側 関東軍 黒川参謀以下

              満州労工協会

              満州土建協会

              満州炭鉱

         華北側  北支那方面軍

              興亜院華北連絡部

              華北交通 他

     

    会議では昭和16年度の

    華北から満州への労働力供出、

    110万を絶対確保する事とし、

    その方策として「治安工作と労働者募集との連携」や

    「討伐作戦及びこれに伴う

    政治工作と労働者募集」等が決まりました。

     

    詳しい内容は不明なため、会議に出席した者の日記を参考にします。

     

    ●榊谷仙次郎 日記 満州土木建設協会理事

     4月4日 

      ・・・・有末参謀副長出席され、

      労力募集について色々御話もあり協議されたが、

      中馬少佐と塚本その他の北支那参謀との間に

      大分意見の衝突がある。

      中馬さんは、北支那は満州国において必要な労力は

      当然協力して送るべきだと言う態度。

      しかしながら参謀中佐(北支那軍)がなかなか聞かず、

      そんな勝手なことを言われても

      北支には北支の建設があり、責任がある。

      関東軍の命令的支配は

      受くるべきではないと主張した。・・・・

      どちらも意見を主張してこのまま喧嘩別れに

      なりはしないかと心配もされたので、

      僕も口ばしをいれ、

      現在のところでは27万募集の予定が

      3分の1の9万も難しいのです。・・・・

      せめて15万位になるように

      北支軍のご協力をお願いしたいのです。・・・・

      北支那軍としては募集に最も有利な地区に

      討伐をやって頂ければよいのです、と話したところ、

      有末大佐は、よし討伐しよう、

      どの方面を討伐するか・・・・

     4月5日 

     ・・・・本日は討伐の打合せをなす。

     滄州県、塩山県、済南、青島の

     重要な所を10日頃より討伐を始め、

     1週間位で終了するから、

     その後に募集従事者は乗込んで募集してもらいたい・・・・

     

    この時点では、満州国へ労務者を

    供出することも困難になり、

    強引な討伐に頼るようになったのです。

    更に日本本土にも労務者を供出する事が

    決まったので更に強引な連行が行なわれるようになりました。

    ウサギ狩りのように

    軍隊を使って手当たり次第狩り集めたのです。

     

     

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  • 移入の具体的実施に向けて

    2020/07/29
    10:15

    移入の手続きを大まかに言えば

    1 企業は労働者の希望人数を厚生省に申し込む

    2 厚生省は大東亜省に通知する

    3 大東亜省は北京日本大使館に指示する

    4 大使館は供出機関や日本軍に依頼し、

       集める(強制連行)

    5 企業は募集金を支払い労務者を受け取り、

       各事業所で働かせる(強制労働)

    6 金は現地日本軍に入る

       注:まるで奴隷の売買と同じ仕組みです。

     

    昭和17年11月、閣議決定の後に

    企画院第三部は「華北労働事情調査団」を組織します。

    その時に希望者リストが準備されたました。

     

    ●調査団の人員

     12月11日の極秘文書「華人労務者移入に関する件」より

     ☆関係諸官庁   

       大東亜省・企画院・厚生省・内務省・商工省・・・・

       7官庁から各1名

     ☆民間側統制会  

       石炭・鉱山・鉄鋼・土木等

     ☆企業(20名)   

       鉱山-三井、三菱、他

       炭鉱-北海道、他

       港湾-新潟、伏木、他

     

    視察団は12月19日に北京に向かいました。

     

    中国側(現地の日本組織)担当者は

    華北労工協会、新民会、日本大使館労務課、

    華北運輸等、30名でした。

      注:新民会は1937年に出来た啓蒙思想団体、

        1940年には北支那方面軍の宣撫班と統合

     

    視察の結果、移入は困難な見通しとなりました。

    ☆華北の労働力不足に加え、

     食糧難と物価高騰で日本への移入困難

    ☆同一資本系統の炭鉱より熟練工を出す事は、

     現地炭鉱側で難色、

     特に三井系の炭鉱では反対

     

    しかし、それでは困るということで次のようになりました。

    ☆俘虜は作戦行動でいくらでもあつめられる。

     収容設備等にもよるが内地移入なら喜んで供出する。

     

    その結果、まずは少人数を1年間移入してみて、

    その結果で本格移入するという事に決まりました。

    そして1年後の次官会議決定になるのです。

     

    この視察の結果を受けて、

    まともな手段では労務者を集められないとし、

    強制連行が始まったのです。

     

    また、俘虜(捕虜)に付いては

    「ジュネ-ブ条約」加盟していたため、

    元俘虜、元帰順兵という名称にして

    「元は捕虜や兵士だったが、

    改心して良民になった」としたのです。

     

    改心する場所として

    「俘虜収容所」「労工訓練所」が作られました。

    注:ジュネ-ブ条約 

      捕虜の人道的取扱、捕虜酷使の禁止等の条約。

    日本は調印はしたが、

    軍部の反対で批准できなかった。

    第二次世界大戦が始まってから、

    連合国は日本人捕虜と抑留者には

    ジュネ-ブ条約を守るので、

    日本にも守るよう求めてきた。

    1942年1月陸軍省が了解したので

    日本もジュネ-ブ条約を守ることを発表した。

     

     

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  • 強制連行の決定

    2020/07/28
    17:00

    中国人の日本への連行は

    どの様にして決められたのでしょうか。

    昭和17年11月27日の

    閣議決定「特殊工人」と、

    昭和19年2月28日の次官会議決定

    「華人労務者内地移入の促進に関する件」の

    2つによって行なわれました。

     

    ●最初の閣議決定時の内閣

     内閣総理大臣・陸軍大臣 東条英機

     大蔵大臣        賀屋興宣

     商工大臣        岸信介

     外務大臣        谷正之

     内務大臣        湯沢三千男

     内閣書記官       星野直樹

         以下省略

       注:黄色線の岸信介は戦後の国会で、

         中国人強制連行に付いては

         良く分からないと答弁していますが、

         実は強制連行を閣議決定したときのメンバ-でした

     

    ●華人労務者内地移入に関する件  

        昭和17年11月27日 閣議決定 (原文カナ)

    第1 方針 

     内地における労務者需給は

     いよいよ逼迫をきたし、

     特に重筋労働部門における

     労力不足の著しき現状に鑑み、

     先要綱により華人労務者を内地に移入して、

     もって大東亜共栄圏の遂行に協力せしめんとす・・・・

    第2 要領 

     1 ・・・・移入する華人労務者は・・・・

         差当たり重要なる鉱山・荷役及工場雑役に限る事

     2 華人労務者は主として華北の労務者をもって充る・・・・

        同種労務者並びに訓練せる俘虜、帰順兵にして素質優良なる者を・・・・

     3 華人労務者の募集又は斡旋は

        華北労工協会をして新民会その他の現地機関との

        連携の下にこれに当たらしむること

     4~12  省略

     第3    措置 

     ・・・・試験的にこれを行い、

     その成績により暫時本方針の全面実施に移るものとする

     

    この法律により、

    荷役労務者500人、炭鉱労務者500人の合計1,000人が

    試験的に1年計画で移入されました。

    そして昭和19年、

    次官会議決定で連行は本格的に増えていきます。

    この時、岸信介は軍需省次官として参画しています。

     

    ●華人労務者内地移入の促進に関する件  

       昭和19年2月28日 次官会議決定(原文カナ 要約)

     ・・・・試験移入の成績は概ね良好なるを以って・・・・

     左記要領により本格的移入を促進せんとす

    第1    通則

     1   ・・・・華人労務者の供出又はその斡旋は

       大使館、現地軍並びに国民政府

       (華北よりの場合は華北政務委員会)指導の下に  

       現地労務統制機関(華北よりの場合は華北労工協会)をして

       これにあたらしむること

     2 華人労務者は訓練せる元俘虜又は

        元帰順兵の他、募集による者とすること・・・・

     3 華人労務者は移入に先立ちなるべく一定期間(1ケ月以内)

        現地の適当なる訓練機関において必要なる訓練をなすこ     と・・・・

     4 華人労務者はこれを国民動員計画産業中、

        鉱山業、国防土木建築業及び重要鉱業  

        その他特に必要と認むるものに従事せしむること・・・・

     5 華人労務者の契約期間は原則として2年とし・・・・

              以下省略

    第2    使用条件

     1 ・・・・使用を認める工場事業所は

      華人労務者の相当数を集団的に就労せしむることを条件とし、  

      関係庁と協議の上厚生相がこれを選定すること

     2 -1~-5  省略

        -6 食事はなるべく華人労務者の通常食を給するものとし、

           これが食料の手当てに付いては

        農商省において特別の措置を講ずること

     3 華人労務者の賃金は内地における賃金を標準となすも、

        内地と現地の賃金及び物価の間に

        はなはだいしき懸隔ある実情なるをもって    

        残留家族に対する送金及び持帰金を確保するため、  

        所要の措置を講ずる事・・・・

    第3 移入及送還方法

     1 移入及送還に要する経費は

        労務者の賃金より控除せざることとし、

       原則として工場事業所の負担とするも

      差当たり要すれば国家補償等適当の方法を講ずること

     2 華人労務者の輸送は

        日満関係機関において之が手配を為すこと

    第4 其の他

     1 工場事業所は華人労務者の防諜

        並びに逃亡防止に付特段の配慮を為すこと

     

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