放火の多発と毒ガス使用

日本軍では食料もさることながら

露天に泊まる露営の装備を

殆ど持っていなかったため、

中国人の民家に泊まる舎営が中心でした。

田舎に行くと民家が少なかったり、

先行した日本軍に焼かれていたりして

泊まる場所に困ったようです。

 

◎山田支隊長日記から

 夏野鎮に出てさらに常州よりの本道に出て、

 商家村に宿営す、

 ますますの田舎なり、宿営力も乏し

 

◎歩兵第20連隊 北山与 日記

 晩になって宿営しようと思うが

 大変な混雑である。

 道路から少し入った所で

 青天井を仰いで冷え切った

 大地を布団にして寝る。・・・・

 夜気が身にしみて寝入れない。

 焚き火をして暖を取る。

 

民家から住民を追い出して

泊まることが日常化していました

少しでも抵抗すれば殺害されました。

民家の食料を掠奪し、

燃えるものはすべて

薪代わりに燃料にしたのです。

そして翌朝出発するときには

宿営した家に放火をしたのです。

 

◎北山与 日記

 ☆誰が火をつけたのか昨日の宿舎が
  黒々とした煙を出している。 

  もったいないことをするものだと想う

 ☆どの村もこの町もみんな

  濛々と黒煙を吐いている。 

  路辺の農家の軒に積まれた稲が

  ほとんど火をつけられてハイになっている。 

  もったいないものである。 

  たとえ敵国のものとはいえ、

  一年間粒々辛苦して収穫した農

  民の気持ちになると可哀想である。 

  そうしてこうしたことをして

  楽しむ質の悪い分子が少しでも

  我々の戦友のなかにあることは

  悲しいことである

 

◎歩兵第20連隊 牧原信夫上等兵 日記

 出発と同時に付近の家全部に

 火をつけたからたまらない。

 逆風にあおられて煙に包まれ、

 まるでガス攻撃を受けたようなもので

 まったく困った

 

◎歩兵第36連隊 菅原茂俊少尉 日記

 余は残留員を連れ呑気に行軍す。

 崑山で火をつけた奴があり、

 ドンドン3ケ所火事。

 崑山で居った家はよほどの大人の住居だった

 

◎南京第二碇泊場司令部 梶谷健郎 日記

 横山村に午後8時頃着、

 クリ-ク地図と合わず、

 やむなく民家を起こさんとせしが

 何れも戸締り厳重にして起き来らず。

 1時間の後、表戸にワラを積み

 これに放火し2棟を全焼せしむ。・・・・

 村民来たりて盛んに消火ににつとめおれり

 

次は毒ガスの使用についてです。

日本軍は当初から毒ガスを

使用することを計画し、

毒ガスに対する訓練をしてから

戦地に行ったようです。

実際に南京戦で使用したかどうか

はっきりとした証拠はありませんが、

その前後の戦闘では使用しています。

しかし毒ガスを使用する計画があった

具体的な文書があります。

 

◎南京攻略に関する意見送付の件、

   丁集団参謀長発次官あて 

   (丁集団とは第10軍の事  原文カナ) 

   昭和12年11月30日付               

 南京を急襲により奪取し得えざる場合の

 攻略案

 この場合に於いても正攻法の要領に

 力攻することを避け左記の要領に依り攻略す

 急襲案と同一要領により先ず

 南京に急迫して包囲態勢を完了し

 主として南京市街に対し徹底的に空爆

 特に「イペリット」及び

 焼夷弾を以ってする爆撃を

 約一週間連続的に実行し

 南京市街を廃墟たらしむ・・・

 本攻撃に於いては徹底的に

 毒瓦斯使用を使用すること極めて肝要にして

 此際毒瓦斯使用を躊躇して

 再び上海戦の如き多大の犠牲を払う如きは

 忍び得ざるところなり

  注:上海上陸の際、毒ガスを使用して

    日本軍にも被害が出ました

 

◎永井仁左右 従軍手帖から

 昭和14年3月4日の注意書きに・・・

 この頃、赤弾青弾の我々のガス弾に

 敵弾が当たり、皆やられたが一

 時性のガスのため被害が少なかった・・・・・

 と書かれている。