住民虐殺

米軍は初期から沖縄の一般住民を

日本軍から救出する準備をしていました。

空からは「命を助けるビラ」がまかれ、

スピ-カ-でも呼びかけましたが住民はなかなか出てこなかったのです。

住民は日本兵に監視され、

「敵に投降する者はスパイとみなして射殺する」と

脅かされていたからです。

両手を挙げて米軍に投降する住民や兵士は

日本軍から狙撃されました。

また泣き叫ぶ子どもは絞め殺されました。

まるで日本軍は沖縄の住民を盾にして時間をかせいだ感じですが、

住民のスパイ視には国士隊という組織が一役買っていました。

住民虐殺の多くは闇に埋もれたまま不明ですが、

明確に分かっているだけで40件以上、

犠牲者は200人以上です。

いくつかの例をあげてみます。

 

●知念村の前城さん 名目 非協力分子

 球部隊に陣地構築用の資材を納入、

 代金を請求に行ったが、

 資材を協力するのは当然として射殺された。

●知念村の大城さん 名目 反軍的非国民

 日本兵の泥棒の振る舞いを注意してその場で銃殺刑

●知念村の与那城さん 名目 危険分子(スペイン語がわかるため)

 南米移民からの帰国者で、避難小屋で斬冊された

●久志村      名目 敵への投降

 米軍の収容所にいた避難住民の

 女性40名が日本兵に連行され、

 手榴弾を投げられ何人かが即死。

●本部    名目 スパイ容疑

 耳が遠い校長がウロウロしていたが、

 スパイとみなされ射殺。

●真壁村(糸満) 真栄平 名目 反軍的非国民

 6月21日頃、米軍の包囲が迫ってきた時、

 日本軍避難していた墓や洞窟から住民を追い出し、

 命令に従わない者を射殺した。

 被害者は100人以上。

●大宣味村

 住民役90名が米軍に保護されていたが、

 5月中頃山から降りてきた敗残日本兵は、

 男数名を斬殺し、

 婦女子に手榴弾を投げ25名を殺害、

 15名に重傷を負わせた。

 食料、毛布等は全て盗まれた。

●国頭ではハワイ帰りの人が中学1年生位の孫を射殺された。

 英語が話せる為。

 

「久米島・鹿山隊の虐殺」

久米島には海軍見張所があり、

隊長は鹿山正海軍兵曹長だったが、

そこでも26人の虐殺が行われた。

●久米島郵便局

 有線電話保守係の安里正二郎さんは米軍の捕虜になり、

 その後米軍の使いとして

 投降勧告状を届けに来たところを殺された。

●北原区長、警防班長等9名は、

 米軍上陸時捕虜になったが即日帰宅を許された。

 2日後9名は鹿山隊に射殺された。

●仲村渠さんは沖縄本島で捕虜になり、

 8月18日米軍とともに久米島にわたり、

 戦争終了を伝えて歩いたが鹿山隊に捕まり、

 親子3人手榴弾で虐殺された(子どもは1歳)

●朝鮮出身の谷川さんはスパイ容疑をかけられ

 8月末一家全員7人が日本刀で斬殺された。

 合計26名が殺害されたと思われています。

 

久米島虐殺の責任者・鹿山曹長は

戦後徳島県に住んでいる事がわかり、

1972年にサンデ-毎日の取材を受けています。

 

●サンデ-毎日 1972年4月2日 沖縄のソンミ事件より

 問:あなたは久米島の住民を

   数回にわたって処刑しているといわれるが、真実は?

 答:そのとおりです。

   それはその、スパイ行為ということですね。

   処刑は銃剣でやるように命令しました。突くようにね。

 問:突き殺して、放火した?

 答:ええ、火葬にしました。

   家と一緒にね。

   それから後片付けをするように村長に命令しました。

   え~と、ワシの見解はね、

   当時スパイ行為に対して厳然たる措置を取らなければ、

   アメリカ軍にやられるより先に、

   島民にやられていまうということだったんだ・・・・

   だから島民の日本に対する忠誠心を

   ゆるぎないものにするためにも、

   断固たる措置が必要だった。

   島民を掌握するためにワシはやったんです。

 問:安里電信保守係はどうしたのですか?

   ピストルで撃ってドブに蹴落としたといわれているが・・・・

 答:それはですね、ドブではないですよ。

   ちゃんと見張所の近くに埋める穴を掘って、

   そこに銃殺して埋めたということなんだ。

   これはわたし自ら拳銃で処刑しました。

            途中 省略

 問:今、あなたはどう思っていますか?

 答:少しも弁明はしません。

   私は日本軍人として、

   最高指揮官として当時の処置に

   間違いがあったとは全然思っていないからです。・・・・

   ワシは悪いことをしたとは考えていないから。

   良心の呵責もない。

   ワシは日本軍人としての誇りを持っていますよ。

 

このインタビュ-は、旧日本軍の亡霊にあったとか、

同じ軍人として恥ずかしい・・・・

等の非難が起きました。

特に沖縄での怒りは激しいものでした。

 

「渡嘉敷島・赤松隊による虐殺」

渡嘉敷島は海上艇進第3戦隊(隊長赤松嘉次大尉)が守っていました。

この島では強制自決で300人以上の人が

犠牲になった上、虐殺もありました。

1970年、元隊長だった赤松元大尉が

慰霊祭で島を訪れようとしたとき、

住民の怒りの抗議行動で追い返されました。

●4月中頃○○さんは集団自決で妻子を失い

 放心状態でさまよっていたところ某伍長に斬殺

● 5月始め、難民収容所から

 男性1名女性5名が米軍の使者として

 赤松隊に降伏勧告状を届けに行ったが斬殺された。

●集団自決で重傷を負って米軍に救出され

 回復した16歳の少年2名が捕まり、スパイ容疑で斬殺。

●妊娠中の妻の安否を気遣って避難所に行った教師、

 大城徳安さんが敵前逃亡で斬殺された。

●8月16日、防衛隊員2名が赤松隊に

 降伏勧告状を届けに行ったが斬殺された。

●斬殺された朝鮮人軍夫の死体が

 各所で発見されているが実数は不明

ここにあげた住民虐殺の例はほんの一部ですので

今後の調査でさらに増えるかもしれません。

 

このような住民虐殺は同じ国民に対して行なわれました。

世界でも稀な事でしょう。

沖縄に対しては中国や朝鮮その他アジアで

行なったと同じ残虐行為をしたのです。

そこにはやはり差別感が共通しています。

そして人を殺すことにマヒした戦争の異常さの前には、

武器を持たない住民への思いやりなどひとかかけらもありません。

あったのは天皇の軍隊という特権意識で、

天皇つまり国体を守るためには

何をしても許されるという独善でした。

 

●「沖縄県史・ある兵隊の話」

        住民が兵隊から言われた言葉です

 ・・・・あなた方さえいなければ、

 戦争は勝てたのに、

 どうして疎開しなかったか・・・・

・・・・お前たちは戦争の邪魔者だ・・・・と壕に入れなかった。