河北省北坦村の虐殺と毒ガス

当時中国共産党が遊撃戦で日本に抵抗した地域は

形の上では日本に制圧されていたが、

半農半兵の村民がほとんどで敵と味方の区別も出来ず、

日本としての治安を保つことが困難でした。

特に多くの村では地下道を作って抵抗していました。

冀中(河北省中央)作戦は

1942年5月1日から6月20日までの作戦でしたが、

北坦村の虐殺は作戦第3期の5月27日に起きました。

参加した部隊は

日本軍第110師団(師団長飯沼守中将)

163連隊(連隊長上坂勝)大江大隊です。

 

●大江大隊長の回想 歴史叢書 北支の治安戦(2) 原文カナ

 当地区は中共側が平原地拠点の

 モデル地区と称していた所であり、

 交通壕、地下壕の構築が進み、

 ほとんどの部落が地下施設を設け、

 三ケ村約7~8キロの間を

 地下壕で連接したところさえあった。

 また部落民の抗日意識が強く、

 半農半兵の状態で、

 老幼婦女すら何らかの抗日団対を組織しており、

 ために各隊の実施する粛清は極めて困難であった。

 (5月27日)・・・・大隊は払暁までに北坦村を完全に包囲した。・・・・

 直ちに部落外囲の坑道及び

 部落内の坑道を捜索し、

 隣村に通ずる坑道は遮断した。

 部落内の坑道、地下道には敵兵が充満しており、

 頑固に抵抗するので手間取ったが、

 これをことごとく殲滅し多数の鹵獲品を得た。・・・・

 敵は苦しまぎれに次々と穴の中から出てきた。・・・・

 本当の住民もいたであろう。

 

日本軍はこの時地下の入口に毒ガスを投入しました。

毒ガスは通称「あか」ジフェニ-ルシアンアルシンでした。

多くの人はガスで死にましたが、

地下から引きずり出された瀕死の赤ん坊や

老人民兵は皆殺しされました。

女性は強姦されてから殺されました

被害は800人とも1000人とも言われています。

 

●日本軍第163連隊長上坂勝の供述 

     1956年中国人民共和国最高人民法院軍事法廷にて

 ・・・・内容は全て事実である。

 私がその虐殺を直接に命令した・・・・

 私の命令により、

 この地域で人間の目玉をくり抜き、

 鼻をそぎ、耳をそいで殺した

 

●1955年5月14日の上坂勝の供述記録には

 毒ガス兵器の赤筒と緑筒を傘下の大隊に配った

 第一大隊はそれを使用した

 毒ガスの使用は110師団の命令であった