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キーワード「イペリット」を含む投稿一覧

  • 永井仁左右 回顧録・メモ等 2

    2020/09/15
    16:02

    ● 毒瓦斯(注:毒ガス)

    1. 戦前の軍縮時代野重8に入隊したが、

     軍装には必らず防毒面(正式名:被服甲)を

     携行させられた。  

     演習で毒ガス訓練をやった時、

     練兵場の一部の散毒地帯の

     小石を拾い臭いを嗅ぎ別けたり、  

     晒粉で消毒したり、

     防毒面を被り馳足又防毒のゴム服

     (これは全員分ナシ)を着たり随分苦しかった    

     散毒地帯の実戦ではそのまま

     突進してから急ぎサラシ粉で消毒する。    

     車両は高速ではガスを巻き上げるから不可、

     むしろ低速で走り通過してからよく消毒する、など    

     瓦斯弾は弾の下方の胴体の上あたりに

     赤、青、黄等を胴体と同じくらいに印されてあり、 

     赤弾、青弾と呼称して訓練した。 

     実戦では、イペリット、ルイサイト等の

     永久性ガスは使われなかったようである。 

     又、学校で一年先輩の増田さんは、

     陸軍化学研究所で作業中イペリットで

     太股の一部を腐食したことがあった

    2.  南昌攻略戦 

     昭和14年2月末、紙坊鎭より武昌に出て、 

     19日船舶にて長江を下り、

     黄石港を経て、20日九江に上陸。 

     星子道を盧山を迂回して

     豪雨、寒気、泥土に腹の心まで

     濡れ困難のうちに、

     高家隋、永修車站付近に至り、 

     南昌攻略戦で修水渡河援護の為、

     陣地、壕、幕舎など準備に追われる。 

     集結する我砲兵各隊も、対岸よりの

     敵弾飛来する中それぞれ準備していたが、 

     敵弾の一発が我X隊の集積せる

     ガス弾に命中し、ガスが発散し、

     我々もやられた。 

     直ちに散開したが、気分が悪くなったり、

     鼻血を出したりして皆倒れた。 

     軍医が早速嗅ぎ薬(人差し指ぐらいの荒い布で

     くるんだガラス筒入りの薬を手で潰して嗅ぐ)で手当てした。 

     暫くして少し落ち着き、

     点呼のため集合させたら、

     又バタバタと倒れた。 

     それは集まった為衣服のシワや

     薬盆などの隙間に残っていたガスが

     又濃くなったためで、 

     又散開させ、皆バタバタ服等を叩いて、

     ガスを散らしてから集合し直した。

     

    ● 激戦地ではじめて見た一人の老婆

     昭和12年8月23日、

     2ケ師団が軍艦で緊急輸送され

     早暁上海の呉淞に強行上陸したが苦戦

     我野戦銃砲兵第15連隊は9月13日充員召集、

     装備不足のまま9月26日上海上陸戦闘参加

     逐次4ケ師団増援されるも、

     支那軍は70万、縦深5キロの陣地など優勢で、

     然も砲弾の補充少なく困難を極めた。

     勿論戦場では一般人は居る筈もなかったが、

     一度一人の老婆が何処かに隠れていたのか、

     歩兵に引張って来られた。

     暑い盛りに綿入れの黒い服を着て、

     汚れて青い顔は痩せていた。

     その内、行けと言って突き離されて逃げ出すと、

     背中へ一発小銃を打込まれ、

     倒れるとき、振り返ったその顔の

     恐ろしかったこと、今でも目に浮かぶ。

     当時夜間、あちこちで烽火のような

     火の玉があがると必らず狙っていたように

     敵弾が打込まれて来るので、

     老若男女を問わず潜伏している

     間諜の仕業と言われていたので、

     老婆もその関係か又犠牲なのか

     忘れられない出来事であった。

     その后は次第に我彼の戦死者のいろいろの姿や

     一般の人の犠牲者の有様にも馴れて来るのである

     

    ● はずみ

     徐州大会戦で我が北上軍は

     昭和13年5月5日払暁、

     懐遠で総攻撃の火蓋を切った。

     その第一夜猛烈な雷雨となり幕舎は吹飛ばされ、

     全身泥ンコの濡鼠となった。

     明けても一面のぬかるみと地雷の為め

     我々野戦銃砲は前進が捗らず

     悪戦苦闘していたところ、

     友軍の飛行機が1機飛来、

     通信筒を落として数回旋回したと思ったら、

     強風で大きく湾曲していた気球の索に触れ、

     アッと云う間に真逆様に墜落し

     畑にメリ込んでしまった。

     気球は無事だった。

     又同年11月16日、武漢攻略戦で武昌を占領、

     続く進撃戦で崇陽手前の橋梁が破壊され止むなく、

     林家咀に露営、次の朝各隊出発準備中、

     近くの気球隊では気球を少し浮上させていた。

     そこへ友軍の飛行機が3機編隊で翼を振りふり

     低空で頭上を通過、我々も手を振った。

     その瞬間1機がブルンと震えたが

     そのまま飛び去ってしまった。

     飛行機が気球の索を切断した。

     気球はフワフワと浮上し然も

     敵側に流れ始めたではないか。

     あわてて居合わせた各隊が一斉に射撃したが

     撃ち落すことが出来ず遂に敵隊深く消えてしまった。

     これは何れも私が目撃した事故で、

     気球の索と飛行機の接触した時の

     諸条件は殆ど変わりはないと思われるが、

     片や飛行機が墜落し、

     片や気球が空の彼方へ消え失せた。

     これがはずみと云うものだろう。

     

    ● 戦争で儲ける連中

     ◎ナマクラ鋸

      作戦の間には自活の為め、

      炭焼、井戸掘り等いろいろやったが、

      炭材の木や炊事の薪を作るのに

      支給された鋸は唯の鉄板で、

      グニャグニャで形だけの使えないものだった。

      他の道具も同様だった。

      又時折支給された薪に、

      納入直前にタップリ水を含ませて

      目方を増したそうである。

     ◎金銭の不思議

      武昌の奥地で民家へ

      分隊単位程度で分散駐屯していた。

      或夜半急に1ケ小隊を○○方面へ

      派遣する命令を受け、

      約3ケ月分の給料を支給することになり、

      分任官を命ぜられていた私は

      相当離れていた本部へ行き、

      受領して戻り、

      支給を終えると金が余っている。

      随分調べたが間違いなく相当多いので

      寝る間もなく出発を見送り、

      夜道を本部へ行き、

      主計将校にその旨申し上げ差し出すと、

      貴様、俺が間違える筈がないと

      怒鳴り、叩きつけた。

      私は一度言ったものだから

      持ち帰ることも出来ず逃げるように帰ったが、

      その后何の話もなかった。

      機密費か、関係納入業者との

      カカワリに依る何かがあるのか不明朗である。

      万一私が黙って懐へ入れてしまっても

      解らなかったろうとさえ思った。

      又この主計さん徐州戦で空襲を受けた時、

      逃げ足早く一番遠くへ行き、

      戻るのに時間が掛かって笑われたのである。

     

    ● 重大な責任の始末

     野戦重砲兵第15連隊は

     10糎カノン砲をキャタベラ式牽引車で引く、

     中支唯一の機械化重砲で、

     軍直轄の為め休む間もなく重要作戦に参加し、

     上海戦以来3年目になり、

     大作戦の后は必ず砲は勿論

     牽引車など整備していたが、

     砲の車輪のゴムが処々欠けて来ていたので、

     補充された新しいのが武昌に着いたので

     長江上流15キロの王家湾より下り、

     新しい車輪を取替へ大堤を戻ったが

     暫くすると車輪のゴムが

     外れて来たので驚き急ぎ戻り、

     今迄の旧のと付替へ、

     事なきを得てそのまま各戦争をしたのである。

     万一の時の不良車輪による事故は

     我々だけではなく他部隊にも及ぼす

     影響を思うと恐ろしくなった。

     命拾いをした。

     

    ● 千人針

     これは出征兵士の無事を祈って、

     関係する女の人が白木綿で腹巻を作り、

     皆さんに一針一針赤糸で結び玉を

     千個縫い付けて貰うのである。

     寒暑昼夜を問はず、

     銀座は勿論そちこちの街頭で

     一生懸命に御願いしたり、

     立ち止まり縫い付けて下さる

     女の人々の姿の真剣さには

     頭の下がる思いがしたものである。

     縫い終わってわざわざ

     息を吹き掛け拝む人もいた。

     死線を越えると言うので

     五銭を縫い付ける人もいた。

     昭和12年9月13日、

     応召入隊する前夜、

     宴の途中父が突然

     俺も千人針を縫ふと云いひ、

     皆んなが、女の人が縫うものだと云っても、

     何俺は縫うと云って

     ゴツイ手で針を持ち縫い付けた。

     品川駅頭で最后の面会の時、

     父は酒を持って来て、

     コップで別れの杯を酌み交わしたが、

     用事があると云って

     一言も云わず帰ってしまった。

     仮にも魚河岸の重役で

     時間の都合が付かぬ筈がない。

     酒は富久娘であった。

     未だその時の味は忘れない。

     父は、日露戦争で

     乃木軍の203高地攻撃の時中隊が全滅し、

     肺に近い左肩貫通の重症を負っているのだから、

     万感胸に迫る思いだったのだろう。

     その代はり兄は誰も付いて来なくなった

     ホ-ムの終わりまで晋司を抱いて

     馳け乍ら見送ってくれた。

     終始両親は何も云わなかった。

     3年後帰還して部隊から電話した時先ず母が出た。

     静かな声であった。

     後で「てい」(帰って1ケ月で結婚した家内)の話では、

     母は仁左右は必ず無事で帰えると

     口ぐせのように云っていたそうである。

     又父等へは何かに付け、

     「戦地では奉公している

     仁左右の事を思いなさい、と

     強いことを云っていたそうである。

     又父は私の武運長久を祈り

     香取神宮へ参拝百円を奉納した。

     奉賛会長の近衛文麿から感謝状を受け、

     境内の神杉で作られた硯箱と共に

     今も私の手元にある。

     上海敵前上陸、

     大場鎮など攻撃の頃は

     敵陣は縦深5キロと云はれ

     優秀で昼夜の別なく爆竹の様に敵弾が来た。

     早速銃弾でやられる者、

     砲弾命中で千切れ飛んだ者、

     又衛生最悪で、コレラで死んだ者も出た。

     殆どの者は赤痢に罹っており、

     夜、塹壕や天幕から這ひ出して

     周囲で下痢便をするので、

     足の踏み場もない有様だった。

     私は少し離れた砲弾で千切れた

     立木が少しは障害物になりそうで

     その陰で何回か用を足した。

     何回目かの朝、

     その木株に変なものが

     掛かっているので良く見ると、

     自分の千人針だ。

     前回外して掛けたまま忘れ、

     夜半の雨に打たれて

     赤色が滲み出していたのであった。

     そこで、勿体ないので

     父の縫い込んだお金を取り出し、

     腹巻は雑のうに入れ、

     余り使ふことはなかった。

     そして、お守りの入った千人針は、

     私と一緒に帰還し、

     母が大切に神棚に納め、

     またいろいろ書き込んだ

     日の丸のチョッキは

     母がよく羽織下に着ていた。   

      注:この手記に書かれた千人針の図

         手記にある千人針の図 

     

    ● 無茶な検疫

     残暑の昭和15年9月

     大陸戦線の中支各隊から一部交代帰還する。

     我々を乗せた貨物船がやっと広島に着いた。

     ところが検疫の為め沖合にに停船してしまった。

     上海で乗船する前后から、

     いろいろな調べや検査を受けたが、

     ここではコレラの検査で相当酷かった。

     全員素裸にされ、

     甲板に印されたところへ手足を置くと、

     四つん這いの惨めな格好になる。

     そのうえ尻を上げ口を開いて力を抜けと云ふ。

     丁度箸のようなガラス棒を

     各人ごとに尻の穴に差込み、

     それを試験管へ移すのだが、

     口を結んでいると入りにくく、

     強引に突込まれて、前

     につんのめったのが何人かいた。

     処置は機械的に進められた。

     後は検査の結果が出るまでは

     一切のものを海へ捨てられないので、

     甲板上に急造便器で用を足すことになった。

     唯々石油缶などを一杯並べただけの物だった。

     炎暑のさなか、

     大小便をそのまま溜めておくのだから、

     無茶な話だ。

     若しも菌が出たら上陸は勿論

     大変なことになるらしい。

     大陸焼けした、

     武運嚇々たる歴戦の勇士も流石に顔色なく。

     残念乍がら糞尿と共にあるのも、

     なにもかもすべて懐かしい。

     我が家に帰れるまではと、

     我慢に我慢をした。

     そして汚物が溢れそうになった時、

     やっと許可が出た。

     万歳万歳と皆んな躍り上ってよろこんだ。

     と同時に一斉に汚物を舷側より投捨てし始めた。

     その物凄い音はドドドゥと

     大滝のように響き、

     さらにプンプンたる悪臭、

     そして船の周囲から黄色くなった

     海面がグングンと拡がって行った。

     

    ● 戦争に於ける生と死

     あの人たちの為なら戦死してもよい、

     と思ったことが2度あった。

     先ず応召入隊の昭和12年9月13日、

     家から壮行会場の築地公園に向うふ時、

     高い幟を先頭に進む私等の行列の為め

     本願寺前の交差点は勿論交通止めになるし、

     たいへんな見送りであった。

     その中に僧侶のような方が一人

     土下座をして私を拝んでおられた。

     よしあの人たちの為めにと思った。

     次は同22日、

     輸送船が大阪港を出航するときの

     夜半12時頃甲板にでると、

     誰も居ないくらい波止場に

     カッポ-着姿の国防か

     愛国婦人会かの襷を掛けた方が二人、

     日の丸の小旗を唯捧げ深く頭を垂れて

     見えなくなるまで何時までも

     見送って下さる姿を見て、

     あの人等の為めに命掛けでやるぞと心に誓った。

     この二度である。

     超応急動員で明治神宮参拝に出発の前、

     9月の暑いさなか夏服を着せられ、

     鉄帽も間に合わず、

     不揃いのままの軍装検査の時、

     大隊長は訓示の冒頭で、

     今日唯今皆の命をこの俺が貰ったと云われた。

     当時は当然のこととして聞いたのである。

     編成4~5日の通信班の部下は

     皆優秀だが寄せ集めの老兵ばかりで、

     新しい器材の取扱を教えたり

     また点検などし乍ら、

     多忙な大阪港出航間際に、

     部下だけの時をえらび

     皆んな揃って帰れるよう

     くれぐれも命を大切にして呉れと言った。

     皆んな驚いてそんなことを云っていいのですか、

     随分度胸ががいいですねと云った。

     中支戦線では、軍直轄野重の為め、

     何時も最も重要な第一線に協力させられたので、

     今度は駄目か、これで一巻の終わりかと

     思ったことが度々あったし、

     特に決死の任務に選抜されたことも

     何回かあったが当然のことであった。

     唯一度だけこれが最后かと思った一瞬の間に、

     親兄弟は勿論いろいろな人々や、

     幼い頃から今迄の生涯すべてのことが

     走馬灯のように鮮明に脳裡を走り去った。

     この不思議な現象は説明の仕様がない。

     徐州戦の時、観砲間の通信線が

     猛烈な敵砲弾で切断された。

     危険なので止むなく自分一人で補修点検の為め、

     遠方の小山に出してある観測所まで

     誰も居ない平地を走り出したら、

     又々敵弾が激しく落下して来た。

     あたりが真暗になる程だった。

     恐ろしくなり私は夢中で駈け戻り

     小さな部落へ飛び込んだ。

     友軍の歩兵が少し居た。

     一瞬私は逃げ込んだように見られないか、

     万一卑怯な振舞いだったら第一母が許さないだろう。

     そして国では一族が皆後ろ指をさされないかと思ひ、

     自らを励まし決死の覚悟で

     又観測所へ向ひ走り出した。

     そして弾着で穴だらけの所で切断された

     電話線を修理して観測所へ着くと

     皆心配して見ていたそうである。

     その時私はつくづく若し天涯の孤児で

     自分一人だったら完全に逃げていただろうと、

     何ともいえない思いをした。

     負傷した兵が、中隊長殿と呼び、

     中隊長が何だ傷は浅いぞしっかりしろと云うと、

     天皇陛下万歳と叫ぶ者が良く居たが、

     これは決して死なない。

     本当に死ぬのは、

     お母さんと云うか唯一息深く吸うぐらいであった。

     誰でも一番大切なのは自分の命である。

     たとえ天皇陛下の為めでも

     意味なく死んでもよいと思ったことは

     一度もない。

     度胸の有る無し、

     職業軍人でも気の小さい人、

     百姓でも恐いもの知らずなど

     人それぞれであるが、蛮勇は困る。

     弾の来るなか、

     強そうに一人立ち上がっていても

     弾はなかなか命中しないものである、

     かえって狙い弾が沢山来るので

     周囲のものに無駄な犠牲者が出ることがある。

     南京城に日章旗が上がった后、

     敵大部隊の退却に当り、

     大河の流れのような勢いで

     我が大砲も乗り越え乗り越え

     我彼芋を洗うような乱戦に落ち入った時、

     皆の命を貰ったと高言した大隊長は

     地隙に伏し、踏まれても蹴られても

     一言も発しないでうずくまっていた。

     中隊長は中隊長はここありと叫び乍ら

     飛び廻って指揮していた。

     この中隊長は戦闘中でも、

     出来るだけ畑など

     荒らしてはいけないと云う優しさがあった。

     救援を命ぜられた小隊長は兵を整列させ、

     あれやこれや服装を点検、

     小銃の手入れなどまで調べ、

     何時まで出発しないので、

     流石に上官より間に合はず

     全滅してしまうぞとおこられ、

     やっとトラックで出発したが、

     乗る時俺はここが良いと荷台に乗り、

     指揮官の乗る運転台の席に兵隊を乗せた。

     一番先に狙われるからである。

     上海眞如の国際無線台を占領した時、

     観測手の老兵が命ぜられても塔に登れない。

     遂には観測将校が拳銃で撃殺すと云ひ、

     相当青くなって震え乍らも登れなかった。

     (中隊長が中に入って事なきを得た)

     世田谷の原隊出発時のことになるが

     私の部下になる筈の老兵が

     精神異常になり残置された

     又連隊段列では切腹した者がいた。

     徐州戦で皆んな蒙城を陥して

     城外に露営することになり

     充満する残敵を掃蕩することになり、

     高粱畑を各隊共同で包囲し

     次第に締めて行ったが、

     最后はなかなか近寄れず、

     敵も必死で我が方に負傷者も出るので、

     夕刻軽戦車で弾を撃込んで終った。

     その時軍人にしては紳士の武雄大尉

     (杭州湾上陸で有名な柳川中将の娘婿)は

     生来の恐れ知らずで

     丸腰でカメラを持って様子を見に近寄られたら、

     自動小銃で股を何発もやられ即死された。

     勿体ない人であった。

     やはり自重の必要があったのでは。

     その時掃蕩から私も戻ったのだが、

     指揮下だった中隊当番の

     広瀬と云う茨城出身の補充兵が

     敵兵を生捕りにして

     中隊長の土産としてつれて来た。

     中隊長はそんな素首を切ると

     俺の刀の名折れになるからいらないと云われ、

     広瀬は自分がと云って

     自慢の刀を取り出し首を切り落とした。

     夜半、幕舎からゴソゴソ出て行く者がいるので、

     どうしたと聞いたら、

     広瀬が気になると云って

     離れた首を胴体に合わせ槌を被せて、

     気がすんだと云って入ってきた。

     と思ったらすぐイビキをかいて眠ってしまった。

     或る者は、俺じゃないと怒鳴って飛起きた。

     要するに十人十色である

     又隣の中隊の召集少尉は

     日暮里の或る寺の僧侶で

     話も上手だが、何より殺すのが好きで、

     人の分まで引受けて首を切っていた。

     切っては拝んでいた。

     やはり精神に異常を来たし帰された。

     私はお蔭で一人も殺さず

     持参の日本刀はおじに返へし、

     官給の曹長刀も拳銃も使わず返納した。

     

    ● メモ

     日本軍では補給を軽視した(戦闘第一主義)

     私は徐州会戦では北上軍に属したが、

     総攻撃以来補給無く(乾パンなど食べ尽くしたあと)

     勝手に民家に有るものや、

     豚、トリなど勝手に食べていた。

     占領したあと、

     一度に沢山届いた事もあったが、

     次の戦闘に出る時、運べずに捨て置いた。

     戦后米軍のレ-ション(弁当)を見たが驚いた。

     栄養万点、更にチョコレ-ト、

     安全カミソリまで入っていた。

     

    ● 慰問娯楽

     (従軍手帖より)

     昭和13年

     3月21日  

      大戯院にて慰問挨拶あり 

      松竹の八雲 松本 里見等実演あり

      映画 結婚三羽烏等

     4月11日  

      陸軍の慰問団ポリド-ル班来鎭 

      染千代、平山ミユキ、上原敏、金波銀波等

     4月17日  

      陸軍省慰問 

      キングレコ-ド班来るも満員となりて聞かず

     

     

     

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  • 生体実験の証拠資料

    2020/08/09
    13:26

    細菌部隊については国として

    正式資料等を残しているわけではありません。、

    現在の調査はすべて周辺の状況証拠を

    集めて組立て判断しています。

    しかしわずかながら発見されている資料もあります。

    1983年秋に神田の古本屋に売りに出た資料です。

    兒嶋俊郎氏が入手し慶応大学図書館が購入したものです。

    発見された資料は次の3つです。

    ◎きい弾射撃ニ因ル皮膚障害並一般臨床的症状観察

    ◎破傷風毒素並びに芽胞接種時に於ける筋クロナキシ-に就て

    ◎関東軍防疫給水部研究報告

     

    これらの資料を少し見てみます。

     

    ●きい弾射撃に因る皮膚障害並びに

           一般臨床的症状観察

    加茂部隊      池田少佐担当

      1940年9月7日から10日にかけて実施された、

      毒ガスのイペリット弾を発射させたり、

      イペリットやルイサイトの水溶液を飲ませた

      5種類の実験結果報告書です。

      恐らくは毒ガス部隊である第516部隊と

      協力した実験だと思われます。

      イペリットはマスタ-ドガスとも言われ

      糜爛性で致死性の毒ガスです。

      ルサイトはより即効性のある致死性毒ガスです。

      その両方とも砲弾に黄色い印を付けた為きい弾といわれました。

      被験者は捕虜で柱に括り付けられ、すべて番号で呼ばれました。

      報告書表紙の加茂部隊とは731部隊の秘匿名です。

      原文はカナですが読みやすく直します。

      読み取り不明は?とします

    第一章 緒言

     自昭和15年9月97日-至昭和15年9月10日・・・・

     きい弾射撃を実施せり。 

     第一地域発射弾数は1ヘクタ-ル100発、

     総数1800発(野砲に換算して)

     射撃時間は40分、15分間射撃、15分間休み、10分間射撃なり。

     第二地域においては発射弾数は1ヘクタ-ル200発、

     総数3200発

     第三地域は発射弾数1ヘクタ-ル300発、

     総数4800発なり。

     被験者は地域内の・・・・各所に配置せり。

     第一地域陣地に配置せる者は

      無帽、満服、下着、上靴を着用せしめ無装面とす。

     第ニ地域陣地にては

      無?夏軍衣袴上靴を着用せしめ無装面者3名、装面者3名とす。 

     第三地域陣地に配置せるものは

      夏軍衣袴を着用せしめ無装面者2名、装面者3名とす。 

     き弾射撃後4時間、12時間、24時間、

     2日、3日或いは5日後における

     一般症状(神経障害を伴うものを含む)皮膚症状、

     眼部、呼吸器、消化器における症状経過を観察せり。

     尚水疱内容液の人体接種試験、血液像並びに尿検査を実施せり

    第二章 症例

     第一地域陣地内被験者の症状およびその後の経過

     ◎287号(注:731部隊の捕虜・マルタで番号で呼ばれます)

      9月7日き弾射撃後4時間全身倦怠、口囲発赤を認め、

      翌8日1時頃より全身倦怠、脱力感を覚え頚部発赤、

      顔面浮腫、眼瞼浮腫状、前臍背面部発赤、

      22時頃より口囲に粟粒大水疱発生あり

      9日22時頃より口囲に多粟粒大ないし

      米粒大の水泡発生、

      10日17時発熱37度、

      ・・・・・以下省略

     ◎280号

      攻撃後4時間頃全身倦怠、不機嫌となる、

      皮膚は顔面、頚、前胸、肩甲、陰嚢に潮紅を呈す、

      眼は羞明、流涙多量、結膜充血す。

      8日6時頃より嗜眠顔面浮腫脈拍亢進す。

      皮膚は頚、前胸、肩甲発赤、顔面

      特に口唇と陰嚢に粟粒大の水疱発生し亀頭発赤腫脹を認む。

      眼は流涙多量、眼瞼浮腫、

      結膜浮腫並びに充血角膜混濁す。

      鼻汁咳を訴ふ8日18時頃体温37度

      皮膚は顔面頚部に米粒大の水泡散在す。

      両眼瞼浮腫、結膜充血、開眼困難なり、

      しわがれ声呼吸困難を訴ふ

    ・・・・以下省略

     ・・・・その後296号、294号、376号

     第二地域陣地内

     ◎265号、464号、468号、499号、513号

    (内容省略)

     第三地域陣地内

     ◎303号、485号、486号、372号、358号

    (内容省略)

    [持続効力ならびに原水攻撃効力観察]

     持久効力観察は,き弾射撃中止後約2時間半にして

     被験物(人のこと)を配置し10日22時より

     11日4時半まで放置して後観察す。

     ◎359号

    11日9時食思不振脱力感を訴ふ。

      皮膚は顔面特に眼瞼、鼻、口周囲、頂、

      腋、頚、背、腰、右前脛、両大腿発赤潮紅す。

      眼は羞明流涙、眼瞼浮腫、結膜充血、角膜混濁す。

      鼻汁、頚内掻破感まらびに灼熱痛、咳、咽喉発赤す

    以下省略

    [原水攻撃効果観察] 

         (毒ガス液を直接飲ませるひどい試験です)

     ◎479号

      9月7日 原水飲用(攻撃)セシム

      同10日 20時右眼に原水点眼す

      同11日 右眼結膜発赤充血を認むる

      同8日 (攻撃後12時間)嘔吐、下痢、????、粘血便を排出す

    以下省略

     ◎287号

      9月9日 原水を木炭にて除毒せる水300竓飲用(攻撃)せしむ
      原水イペリット  15mg/L
      ルイサイト    15mg/L
      同10日 10日中には著変なし

      10昼9日の原水を活性炭にて除毒せる

      水600竓飲用(攻撃)せしむ
       以下省略

     ◎464号

      9月9日の朝原水(イペリット148mg/L ルイサイト26mg/L)を

      10日昼より飲用せしむるに

      12時間後、食思不振、悪心嘔吐を訴ふ

      11日食欲不振17時頃嘔吐3回悪心腹部圧痛あり  
       以下省略

    第三章 

      水疱内容液の所見並びに人体試験成績

        (以下長くなるので以降項目のみです)

     [第一節  水疱内容液の所見]

     [第二節  人体接種試験]

    第四章 血液像の所見

    第五章尿の所見

    第六章結論

    第七章 附記

    注 番号は生体実験した捕虜の番号です。

      たった一つの実験でこれだけの人間が犠牲になったのです。

     

    ●破傷風毒素並びに芽胞接種時に於ける

        筋クロナキシ-に就て(原文カナ)

    (指導 永山中佐)

    陸軍軍医少佐 池田苗夫

    陸軍技師   荒木三郎

    要点

     破傷風毒素と芽胞を人間の足背部に接種し、

     発症時の筋肉の電位変化(クロナキシ-)を

     測定した実権です。

     対象になった人間捕虜(マルタ)は14人

     全員が死亡しています。

    結果

     ◎991号

      破傷風芽胞300CCを皮下注射

      測定位置

      咬筋、鼻筋、眼輪筋、胸鎖乳頭筋、潤背筋肋骨筋、脛骨筋

      結果  約10日で死亡

     ◎691号

      破傷風毒素100MLD接種 経過極めて電撃的

      測定位置

      咬筋、鼻筋、眼輪筋、胸鎖乳頭筋、潤背筋肋骨筋、鋸歯状筋

      結果  5日で死亡

     ◎595号

      破傷風毒素10MLD接種  過極めて電撃的

      測定位置

      咬筋、鼻筋、眼輪筋、胸鎖乳頭筋、潤背筋、脛骨筋、腓腸筋

      結果  7日で死亡

     

    ●凍傷に就いて (原文カナ)

     第15回満州医学会ハルビン支部特別講演の要旨

    昭和16年10月26日

    満州第731部隊

    陸軍技師 吉村寿人

     注:吉村寿人は京都帝国大学医学部卒業

      1938年満州第731部隊に陸軍技師として所属

      終戦まで第一部細菌研究の中の

      吉村班(凍傷研究)の責任者だった。

      捕虜を使った凍傷実験で有名。

    実験 1

     凍傷の発生をみるために

     塩水に手を入れさせ、徐々に温度を下げ

     中指に装着した「ブレスチモグラフ」で

     膚温度や指容積の変化を記録した 

     塩水温度は-20℃まで下げている。

     被験者の数は不明

    実験 5

     実験3と同様にして諸種の生活条件を

     変えたる後の血管反応の状況を観察し、

     実験4に述べたる方法を以って抗凍傷指数を計算す。

     5人の被験者に就いて検査せり

     諸種生活条件変更

      水浴後      10℃水中 10分

      温浴後      40℃の湯 10分

      運動直後     背筋力計 15分連続

      満腹直後     過飽食(飯4杯 ?2人前)

      空腹 Ⅰ     絶食 2日後

      空腹 Ⅱ     絶食 3日後

      睡眠不足     一昼夜不眠

      夏季(8月初め)  室温25℃

      春季(4月中旬)  室温16℃

      温室(30℃)     4月調査

    実験 6

     苦力101名につき抗凍傷指数を求め

     之を年齢別に統計せるものなり

     

     

     

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  • 今後の課題

    2020/08/05
    16:21

    毒ガスの被害は戦争中だけではなく

    現在も続いています。

    イペリットやルイサイトのような

    糜爛性ガスはちょっと触れただけでも皮膚は爛れ、

    ひどい場合には肉が削がれ骨まで出てきます。

    視覚障害や胃腸障害も出ます。

    介抱しようとして

    他人が被害にあった人の衣類に触れただけでも

    同じ障害が出てしまいます。

    そして障害は一生治らないのです。

    サリンの後遺症を思い出してください。

    日本政府は、毒ガスをどこに埋めたのか?

    どこに投棄したのか?

    資料を一切出していません。

    70年近くたって毒ガス弾は

    腐食してボロボロになっています。

    危険が迫っています。

    中国では何も知らない

    市民や子どもが被害にあっています。

    海底ではいつ地震が起きるか分かりません。

    その場合海洋汚染が心配です。

    これから先の2次被害を防ぐために、

    国のメンツは後回しにして、

    一刻も早く全資料を公開して

    民間や外国とも協力して対策を立てるべきです。

     

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  • 屈斜路湖への毒ガス投棄

    2020/08/04
    16:34

    1995年9月、毒ガス弾と見られる

    砲弾状の物体が屈斜路湖の湖底に

    沈められているのが、潜水調査で発見され、

    自衛隊による調査の結果、

    致死性で糜爛性の猛毒ガスである

    「イペリット」と「ルイサイト」であることが判明しました。

    1996年10月18日、腐食が進み壊れかかった

    26発の砲弾が無事回収されました。

    回収された26発はとりあえず

    山林に埋められましたが、

    最終的にどう処理するかは未定です。

    (1997年現在)

     

    1996年8月に広島県竹原市で開かれた、

    毒ガス展実行委員会公開シンポジウム

    「悪魔の兵器の廃絶をめざして」の資料から要約します。

     

    ●  村田歩・森亮一 報告 731部隊展・帯広実行委員会メンバ-

    「経緯」

     1945年8月22・23日、

     弟子屈に住む合田末広さんのところへ、

     計根別飛行場に勤務していた青木軍曹が

     「国際法に触れるガス弾を隠して欲しい」と依頼した。

     相談の結果屈斜路湖に遺棄することになった。

     オウムのサリン事件で昔のことを思い出し

     合田氏は北海道に報告した。

     北海道新聞記者の池田哲哉氏が

     青木元軍曹に会い証言を得た。

     1995年9月、毒ガス弾とみられる物体が、

     屈斜路湖の湖底に沈められていることを確認

     自衛隊関係者が糜爛性ガスが詰められていると証言

    「引揚」

     1996年10月7日~14日 

     水中処理班のダイバ-による手作業で

     1    物体の強度確認

     2    水中で密閉容器に物体を詰める

     10月15日~18日 引き上げ作業開始

     26個の内4個回収

     屈斜路湖を源とする釧路川の水は、

     釧路市、標茶町、弟子屈の水源になるので、

     作業期間中は、河口付近の水質検査(砒素など)を実施する。

     10月18日、残りを全て回収

     引き揚げ後の物体は、アルミ製の密封容器に収納後、

     人の入らない山林の5m地下のコンクリ-ト質へ保管。

    「内容」

     10月15日に回収した4個を糜爛性毒ガス砲弾と断定

     イペリットとルイサイトの混合液と見られる

     直径18センチ、長さ105センチ、重量35kg、

     尾に4枚の羽形状から航空機から投下する爆弾と判明

     その他も水が入っているが、微量のイペリットが検出されている。

     

    その騒ぎのおかげで新たな証言者が現れ、

    網走沖にも投下した事が分かりました。

    屈斜路湖の26発の毒ガス弾を引上げて埋めるのに、

    1億2千万円もの費用がかかったそうです。

    中国に置いてきた毒ガス弾の処理を考えると、

    気の遠くなるような金額が予想されます。

    屈斜路湖の場所と発見された毒ガス弾の図です。

    SCN_0091屈斜路湖

     

     

    SCN_0090 毒ガス弾

     

     

    又これとは別に

    曽根の充填工場の数万発の毒ガス弾は

    山口県沖周防灘周辺に海中投棄した報告もあります。

     (福岡県曽根の充填工場の元行員の証言 1993年共同通信)

     

    その他、陸奥湾、銚子沖、相模沖、遠州灘、

    大久野島周辺等に投棄された事が明らかになっています。

    これからそれ以外の場所も徐々に明らかになるかもしれません。

     

     

     

     

     

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  • 中国においてある毒ガス弾

    2020/08/04
    13:03

    1945年8月15日の敗戦時に、

    軍は全ての機密書類を焼却しました。

    当然のことながら毒ガスに関しても

    証拠を残さないように処分しました。

    その処分ですが、全て埋めたり川や湖に沈めたのです。

    証拠書類はないし、又あっても日

    本政府は今にいたるまで一切情報を提供していません。

    どこに毒ガス弾が捨てられているのか一切分からないのです。

     

    戦後、中国の各地で道路工事や建築現場や川の中から

    ボロボロになった毒ガス弾が発見されました。

    中国政府の調査では何も知らない一般の人が

    2000人以上被害にあっています。

    戦争が終わってもまだ毒ガスの被害が続いているのです。

    日本政府は毒ガスを使用したことを認めない、

    認めないから情報を提供しない、

    そのために広がっている被害です。

    中国政府は各地で発見された毒ガス弾を、

    危険なため自国の費用で1ケ所に集めました。

    それがマスコミを騒がしている

    「旧日本軍が置いて来た200万発の毒ガス弾」です。

     

    1992年2月、ジュネ-ブ化学兵器禁止条約の

    多国間協議の場で、

    中国政府は「中国における200万発の毒ガス弾の

    発見状況及び現状」という文書を提出しました。

    このことでこれまで秘密のベ-ルに包まれていた

    毒ガス弾の遺棄が一気に明るみに出たのです。

     

    ●中国における日本遺棄化学兵器の発見状況及び現状 概略

    化学兵器の数量 

     1 現在までに発見されていて

        処理されていない化学砲弾は約200万発で

      大部分は地下に埋蔵されており、

      確認のためには発掘が必要

     2 現在までに中国側で廃棄、処理したものは30万発

     3 廃棄及び処理されていない化学剤は約100トン

     4 現在までに中国側で処理されたものは20トン

    化学剤の種類  

     1 イペリット

     2 ルイサイト

     3 ジフェニ-ルシアンアルシン

     4    ホスゲン

     5    青酸

     6 塩化アセトフェノン

     

    日本軍は中国でかなりの量の

    毒ガスを使用しましたが、

    この200万発はその残りだけではないようです。

    実はソ連との戦争に備えて

    備蓄してあった毒ガスもあるようです。

     

    日本政府は1991年から現地での処理のため

    下調べを何度か行なっています。

    1993年2月、衆議院で「我が国が残してきた

    可能性は大きいとの認識だ。

    誠実に調査し、結果を踏まえて

    処理する事を考えたい」と河野洋平官房長官は答弁しています。

     

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