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キーワード「丸太」を含む投稿一覧

  • 敗戦時の731部隊の処理

    2020/08/12
    16:02

    1945年8月15日敗戦の日、

    昭和天皇の玉音放送が行われた日ですが、

    その日の午前中に軍の秘密部分の

    証拠隠滅する処置がとられました。

    陸軍省軍務局軍事課の新妻清一中佐は

    朝から国内外の関係部署に電話をかけ始めました。

        注:新妻清一1932年7月陸軍士官学校本科卒業、

          東京帝国大学理学部物理学科卒業。

          技術畑を歩き1944年には

          多摩陸軍技術研究所で電波誘導兵器の研究をする。

          敗戦時は、大本営陸軍参謀、多摩陸軍技術研究所研究員。

    ●新妻清一中佐の電話の内容

     まずは登戸の陸軍第九技術研究所です。

     これは「ふ」号(風船爆弾)を中心とした

     秘密戦・謀略戦をこの研究所がしていたからです。

     次に関東軍に連絡し第731と第100部隊の処理を命じました。

     最後に陸軍省糧秣本廠へ連絡し、

     「糧秣本廠1号」という暗号で呼ばれた

     特殊兵器の証拠処分を命じました。

     

    ●新妻清一のメモ (原文カナ)

     特殊研究処理要領 20.8.15 軍事課

     一. 方針

        敵に証拠を得らるる事を不利とする

        特殊研究は全て証拠を隠滅する如く至急処置す

     二.実施要領

      1.ふ号、及び登戸関係は

        兵本草刈中佐に要旨を伝達後直ちに処置す

    (15日8時30分)

      2.関東軍、731部隊及び100部隊の件

        関東軍藤井参謀に電話にて連絡処置す

            (本川参謀不在)

      以下省略

     

    しかし731部隊では、日本の敗戦が明らかになり、

    またソ連が「日ソ中立条約」を

    延長しないと通告してきたことから、

    1945年の3月頃から部隊を縮小し、

    いち早く部隊員たちは日本への帰国をし始めました。

    日本の敗戦が確定してきたため

    軍の参謀本部は終戦工作を急ぐようになります。

    軍を温存し日本再建を目指すため

    大陸命(大本営陸軍部から出る天皇の命令)1378号

    及び大陸指(参謀総長命令)が出ました。

    この命令書の現物は敗戦時の焼却処理で残っていません。

    大本営作戦参謀朝枝繁春中佐の手記(回想録)から

    記憶で大陸指の要旨を引用します。

     

    ●朝枝繁春手記「追憶」から

     大陸命1374号に基づき、

     関東軍総指令官に対し、

     その作戦遂行上指示するところ左の如し、

     1.  関東軍総指令官は、

      米ソ対立抗争の国際情勢を作為するため、

      なるべくソ連をして、速やかに、

      朝鮮海峡まで進出せしむる如く作戦を指導すべし。

     2. 戦後将来の、帝国の復興再建を考慮して、

      関東軍総司令官はなるべく

      多くの日本人を、大陸の一角に残置すること。

      日本人の国籍は、いかようにも変更するも可なり。

    注:ソ連の進攻に対して関東軍は逃げ出し、

      民間人を置き去りにしたことは

      日本の国策だったことが分かります。


    そして生物兵器や生体実験など

    ジュネ-ブ条約に違反した行為を

    完全に世界の目から隠す必要がありました。

    8月9日のソ連参戦で

    関東軍参謀部が命令を出し山田司令官が署名をして、

    部隊破壊と撤退命令が各部隊に出され

    徹底した証拠隠滅が図られました。

    さらに10日には朝枝中佐は満州国の首都新京に飛び、

    新京軍用飛行場に石井四郎を呼び参謀総長命令を伝えました。

     

    ●朝枝繁春破手記「追憶」から

     1. 貴部隊は速やかに全面的に壊し、

      職員は一刻も早く日本本土に帰国させて

      一切の証拠物件は、永久に

      この地球上より雲散霧消すること

     2. このためハルピンの工兵一個中隊と」爆薬5トンを

      貴部隊に配属するようすでに手配済みにつき、

      貴部隊の諸設備を爆破してください。

     3. 建物の丸太(捕虜のこと)、之また、

      処理した上、貴部隊のボイラ-で焼いた上、

      灰はすべて松花江に流し捨てること。

     4. 貴部隊の細菌学の博士号をもった医官53名は、

      貴部隊の軍用機で直路日本へ送還すること。

      その他の職員は、婦女子、子供達に至るまで、

      南満洲鉄道で大連にまず輸送の上、内地に送還すること。

      このため、大連所在の満鉄本社に対しては

      関東軍交通課長より指令の打電済みであり、

      平房店駅には大連直通の

      特急(2500輸送可能)が待機させられています。

     

    敗戦直前に、独立混成第131旅団の工兵隊長だった「I」氏は、

    ソ連参戦の翌日8月10日の昼過ぎに第4軍司令部の命令を受け、

    731部隊破壊作業のため、2個小隊を率いて平房に向かいました。

     

    ●I氏の証言 (西野留美子氏論文から 1994.11.4 週間金曜日)

     40トンの黄色爆弾を持っていきました。

     部隊に着くと石井隊長から、

     まず監獄の7、8棟から形跡が残らないように

     壊すように命令されました。

     続いて実験棟や倉庫なども壊し、

     最後には細菌の入ったボンベを何十本と爆破しました。

     なかなか壊れず、2日2晩かかったように記憶しています

     破壊作業は数日かかり、

     最後に実験用の捕虜(マルタ)404人が殺害焼却されました。

     

    ●溝淵俊美伍長の回想

     彼(焼却担当伍長)はマスクをせずに

     素面で入っていったから、

     青酸ガスではないだろう。

     メタンガスの放射だと思う。

     

    ●同上 溝淵伍長が焼却担当の西山整爾伍長から聞いた話

     私らは「丸太小屋」といっとりましたがね、

     ロ号棟にはパイプで空気を送っていたわけですが、

     そのパイプからガスを送って、

     密閉されていますから、すぐにガスは満杯になります。

     それでみんな殺した。

     死体は2階の窓から放り出して、

     ガソリンをかけて焼いた。

     兵隊は4個分隊ですからだいたい100入っていますからね。

     それに少年隊がだいたい100人、

     それに佐官級から上の将校はみんな

     ロ号棟に集合したんですね。

     

    ● 篠原 鶴男731部隊教育部 1926年生れ

    (1994年の731部隊展報告書)

     8月9日早朝、点呼をしていたときです。

     白馬に乗った野口少佐が部隊の中を走り回って、

     「本日午前零時に、ソ連が進攻した。

     これから指揮に従って行動せよ」と指示していました。

     まず私たちは、731部隊員であるという身分が

     わからないように、身のまわりの物を処分しました。

     10日、7、8棟の2階の12号室に

     私は他の2人と一緒に入っていきました。

     今までは絶対に入れない場所へ入ったのです。

     廊下には3名程の“マルタ”の死体が転がっておりましたが、

     もうほとんどのマルタの死体は

     ロ号棟の外に運び出されておりました。

     外には穴が掘られており、

     穴の中に薪とマルタが交互に積み上げられ、

     あとは火をつけるだけになっていました。

     上層の幹部たちは、

     飛行場から重要書類などを持って撤退していました。

     私たちは監獄を破壊せよと命令されました。

     監獄は1号から12号まであり、

     私は12号室に爆薬を仕掛けました。

     「14日の18時に731部隊を爆破する」という命令が

     下りまして、マルタを処分し、

     13日の夜から14日の朝方にかけて、

     研究器材や薬品、標本を入れてあった容器などを

     松花江という川へ何度もトラックで運んで捨てました。

     18時爆破のスイッチを入れ、

     爆破音の中、私たちは汽車に乗込みました。

     釜山に到着したのは20日のことでした。

     

    部隊で最大の懸案事項だった

    マルタの処理が終わった後

    大田澄大佐は次のように語ったと言われている。

     ◎ほぼ処理の目的が達成された。

      これで天皇は縛り首にならずにすむ。ありがとう

     

    平房で家族脱出の列車が出るときの

    石井四郎の最後の命令と演説が越定男の回想にあります。

     

    ●「日の丸は紅い泪に」 731部隊運輸班  越定男

     三つの命令(石井四郎の最後の命令)

    1. 郷里に帰ったのちも、

     731に在籍していた事実を秘匿し、

     軍歴をかくすこと。

    2. あらゆる公職には就かぬこと。
    3. 隊員相互の連絡は厳禁する。

     演説

      第731部隊の秘密はどこまでも

      守り通してもらいたい。

      もし軍事機密を漏らした者がいれば、

      この石井がどこまでもしゃべった人間をおいかけるぞ

    注:越はこの言葉が戦後長い間耳から消えることがなかったといいます


    そのせいもあって戦後秘密が保たれた面もあります。

    また石井は「秘密がばれては困るから

    家族を殺せ」と主張しましたが、

    第一部隊長の菊池少将に説得されて

    家族を特別仕立ての汽車で

    避難させたと言われています。

    中国の戦犯収容所での証言を見てみます。

     

    ●榊原秀夫 (731部隊林口支部長)

     私は8月9日軍属兵5名に命じ

     部隊で飼育しておりました白鼠5,000匹、

     捕えた鼠1,000匹、蚤約1.3キロを

     細菌戦証拠隠滅と第731部隊の

     ペスト細菌戦に対する材料補給の目的をもって

     第731部隊に送附せしめ翌日、

     本部機密書類係り奥村軍属に兵2名を附し

     第731部隊に派遣、機秘密書類を処置せしめました。

     機秘密書類は暗号解説書、関東軍動員計画、

     林口東案方面の兵要衛星地誌、

     関東軍防疫給水部支部勤務規定、

     及び1943年7月第731部隊の

     支部長、師団防疫給水部長に対する

     「殊防疫」教育時の配布書類「細菌戦の概念」、

     人事書類であります。

     8月10日ソ連軍戦車部隊が

     八面通に迫ったとの駐屯地司令部の通報により

     部隊建物に藁を積み石油を準備し

     建物の焼却準備を実施し、

     更に部隊専用の水源地の

     給水ポンプの破壊を命じました。

     間所少尉以下25名(自動車5車両)を後発隊とし、

     私は人員200名、

     自動車50車両(濾水車1、消毒車1を含みます)をもって

     8月10日牡丹江に出発いたしました。

     

    ●秦正氏 (731部隊総務部翻訳課勤務) 1954年9月7日

     翻訳班の中に短波無線ラジオを設置し、

     海外情報を聞いた。

     また、米軍の日本語による

     日本向け放送も聞いた。

     その内容は沖縄島の戦況や、

     日本海軍の敗戦状況、

     日本兵への降伏勧告などであった。

     このほか、特務機関から海外情報やソ連の

     国内・国境情報を写してきて、課長に伝えた。

     1945年8月9日から13日までの5日間、

     企画課長である二木技師の命令により、

     ソ連の進軍状況、日本の無条件降伏の

     海外ニュ-スを課長に伝えた。

     こうした情況によって、

     石井四郎は事前に逃亡の準備を整えていた。

      1. ソ連軍との開戦のさい、

       石井は部隊に指示して吉林省の山の中に

       退却させ、抵抗の計画を策定した。

       重要機材を梱包させ、

       さらに第1部の吉村班に山地で

       抗戦する場合の栄養問題を検討させた。

      2. ペスト菌兵器の大規模生産を命じた。

       このため石井は部隊員に鼠の捕獲と飼育を命じた。  

       7月下旬には、部隊内で飼育されている

       鼠が数千匹に達していた。

     3. 1945年6月下旬、まず部隊員の家族の中の

      老人と子供約200名を日本に逃がした。

     4. 日本降伏の5日前、

      私は「日本の無条件降伏はすでに定まった」との情報を示して、

      部隊が事前に証拠隠滅して逃亡するのを促した。

      警備班が部隊内において

      監禁中のソ連と中国の愛国者30名を

      ピストルで射殺し、

      工兵部隊が建築物をすべて爆破した。

     5. 書類を焼却し、鼠を始末し、

      ハルピン市南崗廟街の

      石井式濾水器製造工場を爆破した。

     6. 石井四郎は8月13日、部隊員2500名を

      部隊の引込み線から汽車に乗せて逃走させた。  

      石井本人は飛行機で逃走した。

     

    ●千田謙三  1954年10月9日

     1945年8月13日、私は独立混成131旅団

     79大隊中尉大隊長であったが、

     ハルピンの大直街に集まり、

     旅団参謀、高級副官、各大隊長とともに、

     旅団長宇部少将の招集した会議に出席して、

     平房の細菌工場を爆破する問題について検討した。..

     口頭で伝達された命令の要点はつぎのとおりであった。

      ◎情報によれば、ソ連軍はすでに牡丹江を突破し、

       阿城付近では落下傘兵が降下している。

       旅団ではハルピン市内での市街戦を準備しているので、

       各大隊とも配置につくべし、

       工兵部隊はただちに石井部隊の

       平房における建物を全て爆破すべし。

     会議後、石原工兵大隊長が直接部下を指揮し、

     13、14の両日、平房の建物をすべて爆破した。

     これはすべて細菌部隊の罪状の

     証拠を隠滅するためにやったことである。

     731部隊の破壊の影響で、

     ペストに感染した鼠が逃げ出し

     周辺ではその後ペストが流行していました。

     

    ●ハルピン市人民政府公安局の

        第731部隊の状況に関する調査資料

    1954年3月15日

     1945年の降伏のさい、

     日本軍(原文では日冠)が細菌工場を爆破したため、

     大量の保菌鼠が逃げ出して付近の村に散らばった。

     このために、1946年6月から10月まで、

     平房地区ではあいついでペストが発生し、

     市内まで侵入した。

     大東井子屯で38人、後に道溝屯で42人、

     義発源屯で38人が死亡した。

     市内でも14人が発病し、

     死亡及び発病を合わせると132人であった。


    ●ハルピン市香坊区平房村義発源屯

        被害者告発書  1950年3月18日

     日本降伏のさい、

     日本軍が平房の細菌工場を爆破したため、

     菌を持った鼠が飛び出した。

     1946年の夏になると、

     日本軍の放ったペスト菌が、

     わたしたちの村に伝染してきて、

     沢山の人が病気になった。

     病状は特別重く、

     吐血や下痢がつづいて、

     3日もしないうちに亡くなる人もあり、

     そのありさまはまったく恐るべきものであった。

     私たちの屯だけでもいく人もの人が死んだ。

     日本軍は、こうした悪らつな手段で

     わが国の人民を虐殺したのである。

     思い出すと痛憤に耐えない。

     これらの犯罪を犯した者を厳罰に処すべきである。

     

    敗戦時の部隊の処理を731部隊で見てきましたが、

    他の部隊ではどうだったのでしょうか?

    南京の栄1644部隊の敗戦時の状況を

    石田甚太郎氏の手記から見てみます。


    ●石田甚太郎手記 1911年生まれ

    絵描きだったため軍画兵として

    南京の栄1644部隊第1科に勤務。

    生体実験を絵として記録した。

     8月15日緊急サイレンが鳴り、

     営庭に部隊全員が集合したが、

     私は一人、1科事務所から玄関まで出て、

     終戦の玉音放送を聞いた。

     それから機密書類の管理を木村准尉から任されて、

     鍵も保管していた私に、極秘書類の抹消は、

     石田の全責任によって行うこと、

     との命令が下ったのである。

     1科の北出口事務所のすぐ窓外に

     防空壕が造られていた。

     私はその壕の中で焼却する事にして、

     まず壕の奥の天井の縦穴をあけ、

     書庫の書類を全部持ち出して、紙に点火した。

     焼却に当たっては一紙片の散逸や不燃も許されなかった。

     3年の間、描いて整理整頓した書類、

     日本軍の恐るべき生物化学兵器其の物の記録を、

     日本軍人として只一人この手によって

     火炎の中に壊滅させたのである。

     地底の作業は真夏の暑さに加えて

     炎の火熱で、自然地獄に置かれ、

     40余時間計3日間も続いた。

     ・・・18日の朝に焼却は終わり

     防空壕の天井を地に落し土埋した。

     重慶(注:国民政府)から1週間後に、

     部隊受領の将官が来る、と報告があってから、

     部隊は騒然となった。・・・・

     1科の者は全員早急に建物及び部内

     その他一切を処置せよ、との命令である。

     それは極秘作戦、細菌生物兵器、

     生体実験の証拠抹消であった。

     細菌を持つものは、

     蚤や鼠などの小動物からマルタまで、

     すべて人体焼却場で焼却処分した。

     それはそれは凄い光景だった。

     私が書類焼却している間、

     3階のロツはバ-ナ-で切断され、

     部屋の周囲にあった蚤防止用の溝も

     きれいに取り除かれていた。

     室内は解体して娯楽室に見せた。

     マルタは青酸カリで殺してから焼いたという。

     それよりも驚いた事に、1科の敷地内を、

     兵隊たちが彼処も此処も土を掘り返していて、

     其処から異様な臭いが起こって来るではないか。

     兵隊が3、4名で臭いの物をリヤカ-に積んで運んでくる。

     飛行場の一部分に、1科で薬草栽培の農地を管理していた。

     そこをも掘り返して、死体を処理すべく

     1科の中庭まで運んできた。

     山積にされた数は数10体に及んでいる。

     綿製の支那服と頭髪はまだそのままであるが、

     体骸はほとんどが白骨になってはいるものの、

     肉体は腐敗し水溶化して着衣に吸収し、

     真夏の太陽熱にあたり異様な悪臭を発散し、

     蝿の群衆の襲来で真っ黒となってる。

     これを何日もかけて焼いて、

     そのあとで揚子江に遺棄したという。

     今日でもあの臭いだけは思い出したくないのである。


    日本国内、新潟や山形に隠してあった重要文書も

    若松陸軍次官の命令で焼却されました。

    東京の陸軍軍医学校は空襲で炎上し、

    残された資料は焼かれたり埋められたりしました。

    1989年に発掘された多数の人骨は

    その時埋められたものだと思われます。

     

    新潟や山形と書きましたが、

    新潟には

    陸軍軍医学校防疫研究室の新潟出張所がありました。

    (新潟日報 1986年の連載から)

    敗戦が近くなり空襲が激しくなってきたため

    防疫研究室の設備や資料を地方に疎開させたのです。

    シンガポ-ルの岡9420部隊の

    総務部長だった内藤良一は、

    この新潟出張所の1945年3代目に所長に就任しました。

    そして8月15日を過ぎてから

    多くの細菌爆弾を含む証拠品が海に投下されました。

     

     このようにして731部隊の証拠書類は

    すべて処分されたはずでした。

    しかし実際には主要幹部の研究デ-タ-は

    処分されずに日本に持ち込まれていました。

    国内では一旦金沢陸軍病院の倉庫に隠され、

    その後東京に運ばれました。

    運んだのは菊池斉少将、増田知貞少将、太田澄大佐です。

    東京では杉並のオリエンタル写真工業、

    新宿の石井四郎の自宅、

    千葉の増田少将の自宅と言われています。

     

    つづきを読む

  • 細菌戦の目的と手段

    2020/08/07
    15:45

    [ 731部隊の目的 ]
    731部隊は世界に類のないほど

    残酷な生体実験を繰り返しました。

    しかし実験そのものは目的ではなく単なる手段でした。

    目的は   

     1.細菌兵器の細菌培養や用剤の研究   

     2.使用方法の研究   

     3.細菌からの防衛研究

     

    これらの目的のために

    人体実験を必要としたのです。

    その結果細菌戦に使用する微生物は12種類となり、

    18種類のワクチンを開発したと言われています。

     

    [ 細菌攻撃の手段 ]
    細菌を使って敵を攻撃する手段は

    色々と考えられました。

    実験を繰り返し、成功したり失敗したりで、

    そのつど罪もない中国人が犠牲になりました。

    1.砲弾の研究  

     先端に細菌の液が詰まった75ミリの砲弾を

     開発したが実用性がなく、用されなかった

    2.爆弾

     イ型 鉄製

     ロ型 鉄製

     ハ弾 

      外側が薄い鋼性の爆弾で、

      中に1500の小片が炭疽菌液に浸されていた。

      爆弾が破裂して1500の小片が

      人を傷つけて炭疽病を感染させる目的で開発された。

     ニ型

     ウ型

     宇治型爆弾 

      鋼の外膜の爆弾で中に細菌を詰め込んだが、

      落下と爆発時の発熱で

      細菌が死んでしまうためうまくいかず、

      改良を重ね陶磁器を使った宇治型爆弾となった。   

      長さ70センチ、直径18センチで

      約10リットルの菌液を内蔵できた。     

      旧式宇治型、宇治50型、宇治70型、

      宇治100型と改良されていった

     RO爆弾  

      高度投下用爆弾だがうまく出来なくて中止

     母と娘達爆弾 

      落下中の発熱を防ぐため、

      地面すれすれで爆発するように開発された。    

      母爆弾を先に落とし

      細菌液を抱えた娘爆弾が後から落とされ、    

      母爆弾の爆発の信号で娘達爆弾が爆発する仕組みだった。    

      コストがかかりすぎて実用化されなかった。

    3.スプレ-   

      細菌を霧状にしてスプレ-する方法。   

      農薬の空中散布と同じ万年筆や

      杖の形をしたものまで暗殺用に開発した。

    4.人力で撒く  

      川や井戸に入れたり、汚染された食料を配る

    5.風船爆弾    

      今でも名前が残っているくらい有名です。    

      かなり高度を飛ぶため細菌が死んでしまい、

      改良が重ねられました。


    細菌戦や生体実験について

    軍の参謀本部はかなり細かく把握していました。

     

    ●医事課長大塚文郎大佐備忘禄第6巻から

      1944年5月23日、満洲に出張した小出中佐の報告

      (原文カナ、不明な字は?)

    チフス保菌者治療

    胆嚢部超短波 サルバルサン注射が効果あり

    サルバルサン、注射ワクチン-着手せんとす、

    手術的治療-マルタ実験 胆嚢?-縮、膿菌を入れる、

    効果あり(中略)

    ウジ弾(注:陶磁器製爆弾)-製作の希望あり、

    宮田参謀に申せり、予算を申出よとの事なり

    ホ号(注:細菌戦)高々度よりする集中攻撃 

    命中及濃度構成ありしが、

    現在効果をあげる見込みなき如し

    Px(注:ペストノミ)生産 田中少佐の研究  

    餅(注:ネズミ)の使用1/12となる  

    丸太(注:中国人)500名

    局長、餅を犬にしては如何 犬を使用し実施し在り

    今冬より春にかけ演習成果

    ペストの液菌は弾でやる(破片より入る)

    傷者の10-30%発症、

    弾子につれていくウジ弾 弾子20の中1割発症

    乾燥ペスト菌成功せず、

    1立米4ミリの濃度を必要とするとの見込

    混菌 寒い所で凍って発症せず

    将来関東軍は面に乾燥菌で

    耐寒耐熱膠着性を考えいかんとす

    脾脱疽 

    食道感染は疑問なりしが効果あり、

    ウジ弾で行かんとす

    局長-消化器からは入りしならん

    辰見大尉及部下2名感染す、

    皮膚より入る、生命はとりとめた、

    第2攻撃に参加する若い将校は良くやって居る

    脾脱疽 消毒薬はない、之が製造も研究の要あり(中略)

    ◎丸太使用実験は中央として

     多いに全軍的に重要な事を解決せしむる為也

     Pxは弾丸の有効性の問題 

     草知参謀 秘密事項今発表せんで可ならん 

     高山参謀 有功章をやる如く連絡す、発表の方法を考慮しようと
      (中略)
    発疹チフス予防施療液

    5万人分を有す 

    関東軍は労務者に使用し在り、

    効果ある如し

    ワクチンを作る時の残滓は

    ワイルフェリックス反応のみ明瞭に反応するとの事、

    軍隊にも使用して可ならん

    大連衛研 第4性病の診断液良好なる?たり

     

     

     

     

     

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  • 東郷部隊又は加茂部隊

    2020/08/06
    11:07

    1932年(昭和7年)4月、

    石井の努力の結果、牛込区戸山町(現新宿区)の

    軍医学校の中に研究施設「防疫研究室」が

    梶塚隆二を仮の主幹として発足し、

    細菌部隊は事実上スタ-トしました。

     

    ●陸軍軍医学校50年史より・・・・

     事変前における世界の情勢と

     本邦医学界における現況に鑑み、

     学校においては戦疫予防に関する

     研究の一日もゆるがせにすべからざるを痛感し・・・・・・

     昭和7年4月防疫部地下室の一部を改造し

     応急的に防疫研究室(主幹二等軍医正梶塚隆二)の

     新設を見るに至れり

     

    そして実際には8月に石井を主幹としてスタ-トしました。

     

    ●同上50年史より

     小泉教官の絶大なる支援の下に

     上司の認むるところとなり、

     軍医学校内に石井軍医正を首班とする

     研究室の新設を見るに至りしものなり。・・・・

     8月・・・・石井軍医正以下5名の軍医を

     新たに配属せられ防疫研究室を開設す

     

    発足当初のメンバ-は下記の通りです。

    ●防疫研究室職員表 昭和8年8月1日現在 

     主幹 教官陸軍一等軍医正 梶塚隆二

     部員 陸軍三等軍医正   石井四郎

     同  陸軍一等軍医    西村英二

     同   同        北川正隆

     同   同        渡辺廉

     同   同        北条円了 

     同   同        白川初太郎

     嘱託           小嘉晴雄

     雇員           菅原敏 石山金三 

                  古本広文 鳥井敏信 川畑豊

     その他(30名傭人、臨時当)

     

    防疫部の地下に間借りしていた防疫研究室は

    早くも翌1933年には2万平方メ-トルの敷地に

    約30棟を持つ巨大研究室になりました。

    防疫研究室が出来る以前から石井は満州に赴き、

    背陰河(ハルビンの南東70キロ)に

    防疫特務機関を作り、

    東京の研究室と満洲を行き来していました。

     

    ●満洲への出張日程表  先前述50年史から

     出張先  出張期間       官      氏名

     満洲  32.8.11~9.19  三等軍医正 石井四郎 

      同  33.9.30~34.3.21  同     同 

      同  32.8.9~9.6     一等軍医  増田知貞  

     以下省略(部員の全メンバ-が交代で行っています)

     

    ● 証言 韓暁 侵華日軍第731部隊罪証陳列館館長 

          「731部隊の犯罪」から

     ・・・・背蔭河駅の東部に20~30戸の民家や商店があった。

     黒田大尉は村長に命じて告示を出させた。

     「店舗と民家は3日以内に明け渡して出て行け。

     従わなければ捕えて家を焼く」というものだった。

     当地の百姓たちはしかたなく引越していった。

     黒田は雑貨店の100余りの部屋を占拠して臨時の事務所として、

     その他の店舗や民家はみな火を放って焼いてしまった・・・・

     当時は1000名近い「労工」と馬車が工場建設に強制連行された・・・・

     工場はあたかも要塞のようだったことから、

     人々は中馬城と呼んだ・・・・

     2棟の監獄は、それぞれ30余りの監房があり・・・・

     500~600人の捕虜が常時収容されていたと思われるが、

     多いときには1000人にも達した。

     

    ●証言 呉沢民

     堀を掘るために、近くの村から

     大勢の中国人が駆り出されました。

     建物の建設にあたった中国人は

     村の者ではなく、どこからか連れてこられた。

     工事が完了すると、全員殺されたようです。

     堀や塀を造る為に、私たちの村からも

     安い賃金で半強制的に徴用されました。

     もちろん私も行きましたよ。

     全部で1000人はいたのではないでしょうか・・・・

     

    1932年末石井四郎が東京の上官に送った

    手紙には次の様に書かれています。

    ◎御尽力のお陰で,我々は細菌研究面です

     でに多大の成果を挙げております。

     そろそろ実験を開始する時期となりました。

     新兵器を開発すべく我々研究者全体を

     満州国に派遣下さいますよう嘆願いたします。

     

    正式に部隊がスタ-トしたのが

    1932年なのか1933年なのか意見が分かれますが、

    1932に準備が完了して

    1933年に正式にスタ-トしたのでしょう。

     

    ●関東軍参謀副長(当時)岡村寧次の回想 岡村大将記録から

     石井機関の創設については、

     本省では、大臣、次官、軍務局長、医務局長ぐらい、

     関東軍では小磯参謀長と

     私だけが知っているという極秘中の極秘事項とし、

     私だけが直接石井と密会して

     中央と連絡するということになっていた・・・・

     ときは昭和8年のある月ある日であったと思う。

     石井研究機関は、ハルビン東南方背陰河に設置された。

     

    この特務機関の名称は背陰河守備隊でしたが、

    通称中馬城(隊長の中馬大尉の名前)と言われ、

    600メートル平方の土塀と高圧電線に囲まれた、

    中国人を使った人体実験場でした。

    この時点ではまだ731部隊とは呼ばれず、

    秘密保持のために偽名を使って

    東郷部隊(尊敬していた東郷元帥)或いは

    加茂部隊(石井の郷里の地名)と呼んでいました。

    また為幹部は偽名で働いていました。

    その後石井が前面に出るようになっても、

    石井四郎が東郷大佐、北条圓了が大山大佐、

    太田澄が大島少佐・・・・等と呼ばれていました。

     

    ●北条円了の手記から 東郷会誌1986年3月刊より

    注:東郷会は731部隊の戦友会

     ・・・・陸軍省や参謀本部の当事者を説得して、

     遂に満洲ハルピンの東方の背陰河に細菌兵器の

     防疫研究所(石井部隊)の設立を見るに至ったのでした。

     背陰河は匪賊の根拠地であったとかで

     ほんとに寂しい所で十数軒の満洲家屋のある小部落でした。

     関東軍司令部の選んでくれたここに

     石井大佐を始め軍医学校防疫研究室附の

     軍医数名、雇員若干名と共に

     満洲出張の形で背陰河に行き

     ここの住民を隣村に立ち退かせ

     部落の中で大きな数軒を選んで家屋を改造し、

     軍医学校の防疫研究室に似た研究室に改造したのでした。

     この当時石井部隊は機密保持上皆氏名を変更して

     石井さんは東郷大佐、私は大山少佐でした。・・・・

     昭和15年夏頃でしたが、

     この研究室は余りにも不便で非常に狭くて

     充分な研究が出来ないので、

     石井部隊長は陸軍省に意見具申して

     もっと大きな研究所に改装することになった。・・・・


    この段階ではすでに細菌の効力試験や

    水だけで(普通の水或いは蒸留水)で

    何日生きられるかなどの実験をしています。

    ここでの実験の成果について、

    遠藤三郎日記(陸軍中将、関東軍参謀)から見てみます。

     

    ●遠藤三郎日記

    1933年11月16日(木)快晴

     ・・・・第2班の担当は毒ガス、毒液の試験、

     第1班、電気の試験等にわかれ各OO匪賊につき実験す。

     ホスゲンによる5分間のガス室試験の者は

     肺炎を起こし重体なるも昨日よりなお、生存しあり。

     青酸15ミリ注射の者は約20分間にて意識を失いたり。

     2万ボルト電流による電圧は

     数回実施せるも死に至らず、

     最後に注射により殺し

     第2人目は5千ボルト電流による

     試験をまた数回に及ぶも死に至らず。

     最後に連続数分間の電流通過により焼け死せしむ・・・・

     夜、塚田大佐と午後11時半まで話し床につきしも安眠し得ず。

    1933年12月8日(金、降雪)

     午前10時15分拉林着。

     石井及び伊達氏に迎えられ、

     背陰河の細菌試験所を視察す。

     600メータ-平方の大兵営にして一見要塞を見るが如し。

     一同の努力の跡歴然たり。

     20数万円の経費亦止むを得ざりしか。

     

    遠藤三郎はこの時の視察の様子を

    40年後に次のように書いています。

     

    ●日中15年戦争と私

     被験者を一人一人厳重な檻に監禁し

     各種病原菌を生体に植えつけて

     病勢の変化を検査しておりました。

     如何に死刑囚とはいえ

     また国防のためとは申せ見

     るに忍びない残酷なものでありました。

     死亡した者は高圧の電気炉で

     痕跡も残さないように焼くとのことでありました。


    背陰河の東郷部隊ではかなりの

    生体実験が行なわれたようです。

    研究者が脳の研究をしたい場合、

    衛兵が監獄から適当の捕虜を選び、

    斧で頭を割り脳は研究者に、

    死体は病理学者に運ばれました。

    用の済んだ死体は証拠が残らないように

    焼却炉で処分されました。

    ここでの研究はかなりの成果を挙げたようです。

     

    ●岡村寧次大将 の回顧録から

     ・・・・着々と成果を挙げたが

     その内容は固より私はよく知らないが、

     終戦後石井の直接漏したところによれば、

     専売特許的の成果件数は200種に上るという・・・・


    一体どの位の捕虜が犠牲になったのかは

    よく分かっていません。

    1000人位の捕虜が収容できる施設に、

    通常500人から600人の捕虜が

    収容されていたと言う証言があります。

    1932年から1934(36年の説もある)まで

    2年から4年背陰河の部隊が存続した事を考えると

    犠牲者は相当の数になると思われます。

    よく731部隊の犠牲者の数が

    3000人とか4000人とか言われますが、

    これはハバロフスクの軍事裁判での

    川島清の証言や中国での吉房虎雄の供述の数字です。

    あくまでも正式に731部隊になってから

    憲兵が特移扱として連行した人数ですから、

    背陰河の東郷部隊の犠牲者数は含まれていません。

    又、他に4つあった細菌部隊の犠牲者の数は含まれていません。

     

    ●栗原義雄の回想から

    1934年5月に研究補助者として背陰河に行った。

    1936年帰国

     ・・・・背陰河の施設は、敷地が300坪程度で、

     荒野の中にありました。

     守備隊の人員は20人で、その他に憲兵が2人いました。

     正面の塀は高く、そこに銃眼がついていました。

     この土塀の上には電線が張ってあり

     電流が流されていました。・・・・

     部隊から200メ-タ-位離れたところに背陰河駅がありました。

     被験者は当時すでに丸太と呼ばれていました。

     彼らは貨車で駅まで連れてこられ、

     その200メ-タ-ほどを車で運ばれました。

     部隊には被験者となる人が常時100人程収容されていました。

     被験者はペスト班では沢山死んでいましたが、

     それ以外ではそう多くなかった。

     コレラ腸・チフス・炭疽班では、細菌をマント-(饅頭))に入れて、

     経口感染の実験をしていましたがあまり感染しませんでした。

     マント-に入れる細菌の数は軍医が決め、

     自分たち傭人は被験者に食べさせるだけでした。

     私は太田さんの下で、

     炭疽菌を入れたマント-を食べさせる仕事をしました。

     堀の中の建物は土で出来ていました。

     大きさは間口約5間から10間程のものでした。・・・・

     自分は軍属の菅原敏さんの下で

     水だけで何日生きられるかという実験をやらされた。

     その実験では、普通の水だと45日、蒸留水だと33日生きました。

     蒸留水を飲まされ続けた人は死が近くなると

     「大人味のある水を飲ませてくれ」と訴えました。

     45日間生きた人は「左光亜」という名前の医者でした。

     彼は本当にインテリで、匪賊ではなかったですね。

     

    1934年9月、部隊員たちが酒宴で

    泥酔したところを見計って捕虜の「李」が扇動して、

    囚人40人が脱走し、大部分は殺害されたものの、

    王子揚ら12人が

    東北抗日連軍(日本の侵略に抵抗した人民軍)

    第3軍第1師に保護され、

    第3軍は東郷部隊を襲撃しました。

    その為ここで行なわれていた事が

    中国人にばれたということで、

    背陰河の施設は閉鎖になり、

    全てを爆破し、捕虜は全員殺害し証拠は消されました。

     

    ● 証言 呉沢民の証言 脱走した人を助けた  

    1993年 山辺悠喜子の取材

     深夜ジャラジャラという重い鉄の触れ合う音がした。

     土匪だとばかり兄と旧式の鉄砲を握り締めた時、

     「自分たちは中馬城から逃げて来た者だ。

     済まないけどわれわれの足かせを外してもらえまいか」と

     押殺したような声がしたので、

     外を覗くと全部で33ほどもいるようだった・・・・

     「われわれは抗日地下工作員だったが、

     何人かの者が捕えられて血液をしぼり取られて死んだ。

     いちかばちか我々は暴動を起こしてやっと逃げてきた」と言う・・・・

     兄と一緒に斧で足かせを叩き壊した。

     全部は取ることができず、何人かは外したが、

     後の人は鎖だけ切って逃した・・・・

     

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