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キーワード「強制労働」を含む投稿一覧

  • 移入の具体的実施に向けて

    2020/07/29
    10:15

    移入の手続きを大まかに言えば

    1 企業は労働者の希望人数を厚生省に申し込む

    2 厚生省は大東亜省に通知する

    3 大東亜省は北京日本大使館に指示する

    4 大使館は供出機関や日本軍に依頼し、

       集める(強制連行)

    5 企業は募集金を支払い労務者を受け取り、

       各事業所で働かせる(強制労働)

    6 金は現地日本軍に入る

       注:まるで奴隷の売買と同じ仕組みです。

     

    昭和17年11月、閣議決定の後に

    企画院第三部は「華北労働事情調査団」を組織します。

    その時に希望者リストが準備されたました。

     

    ●調査団の人員

     12月11日の極秘文書「華人労務者移入に関する件」より

     ☆関係諸官庁   

       大東亜省・企画院・厚生省・内務省・商工省・・・・

       7官庁から各1名

     ☆民間側統制会  

       石炭・鉱山・鉄鋼・土木等

     ☆企業(20名)   

       鉱山-三井、三菱、他

       炭鉱-北海道、他

       港湾-新潟、伏木、他

     

    視察団は12月19日に北京に向かいました。

     

    中国側(現地の日本組織)担当者は

    華北労工協会、新民会、日本大使館労務課、

    華北運輸等、30名でした。

      注:新民会は1937年に出来た啓蒙思想団体、

        1940年には北支那方面軍の宣撫班と統合

     

    視察の結果、移入は困難な見通しとなりました。

    ☆華北の労働力不足に加え、

     食糧難と物価高騰で日本への移入困難

    ☆同一資本系統の炭鉱より熟練工を出す事は、

     現地炭鉱側で難色、

     特に三井系の炭鉱では反対

     

    しかし、それでは困るということで次のようになりました。

    ☆俘虜は作戦行動でいくらでもあつめられる。

     収容設備等にもよるが内地移入なら喜んで供出する。

     

    その結果、まずは少人数を1年間移入してみて、

    その結果で本格移入するという事に決まりました。

    そして1年後の次官会議決定になるのです。

     

    この視察の結果を受けて、

    まともな手段では労務者を集められないとし、

    強制連行が始まったのです。

     

    また、俘虜(捕虜)に付いては

    「ジュネ-ブ条約」加盟していたため、

    元俘虜、元帰順兵という名称にして

    「元は捕虜や兵士だったが、

    改心して良民になった」としたのです。

     

    改心する場所として

    「俘虜収容所」「労工訓練所」が作られました。

    注:ジュネ-ブ条約 

      捕虜の人道的取扱、捕虜酷使の禁止等の条約。

    日本は調印はしたが、

    軍部の反対で批准できなかった。

    第二次世界大戦が始まってから、

    連合国は日本人捕虜と抑留者には

    ジュネ-ブ条約を守るので、

    日本にも守るよう求めてきた。

    1942年1月陸軍省が了解したので

    日本もジュネ-ブ条約を守ることを発表した。

     

     

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  • 始めに

    2020/07/28
    10:56

    世界中どの戦争でも

    似たり寄ったりかも知れませんが

    強制連行や強制労働が行なわれます。

    日本でも戦争中は

    中国・朝鮮・東南アジアで

    強制連行、強制労働が行なわれました。

    特に侵略地中国では当然の事ながら

    激しい強制連行が行なわれました。

    連行して強制労働をさせた先は

    地元中国、満州国、日本でした。

    ここでは中国人の日本への強制連行を取り上げます。

    戦後長いこと、日本政府は

    「強制連行や強制労働に関しては、

    はっきりとした証拠や資料が残っていないので

    補償等は出来ない」とする立場を取ってきました。

     

    ●1960年5月3日、

        日米安全保障条約等特別委員会での 

        伊関アジア局長答弁

    昭和21年の3月に、

    外務省管理局において、

    そういう調書の作成をいたしたそうでございますが、

    そういう調書がございますと、

    戦犯裁判の資料に使われて、

    非常に多数の人に迷惑をかけるのではないかということで、

    全部焼却いたしたそうでありまして、

    現在外務省としては、

    そうした資料を一部も持っておらない次第でございます・・・・

     

    ●1960年5月6日 岸信介首相の答弁

    戦争中わが国に渡来した中国人労務者が

    国際法上の捕虜に該当するか否かについては、

    当時の詳細な事情が必ずしも判明しないので、

    いずれとも断定し得ない

     

    伊関アジア局長の答弁で黄色線を引いた

    「外務省の調書・資料」というものがあります。

    日本の外務省が自ら調査した

    中国人強制連行の資料があったのです。

    そして戦犯問題の資料に使われる事を懸念して

    せっかく作った資料を焼却処分にしてしまったのです。

    つまり証拠隠滅です。

    実はこの「外務省報告書」の

    焼却し損なった1部が

    東京華僑総会に持ち込まれていました。

    華僑総会でこの資料をもとに

    遺骨の発掘や労働者の中国への送還運動をしていました。

    この報告書は「外務省管理局」と

    印刷されているにもかかわらず、

    日本政府は本物と認めませんでした。

    そのため前記の答弁になったのです。

     

    その後30年以上経った1992年、

    アメリカ国立公文書館で戦争中の日本軍資料が色々発見され、

    その中に「外務省報告書」が1部含まれていたのです。

    その結果1994年6月、

    日本政府はそれらの報告書を本物と確認し、

    中国人強制連行の事実をやっと承認したのです。

    戦争が終わって50年近く政府は隠し続けたのです。

    一般国民が知らなかったのは当然でしょう。

     

     

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  • 泰緬鉄道とマレ-半島

    2020/07/18
    11:38

    「泰緬鉄道」

    映画「戦場にかける橋」で有名な

    泰緬鉄道は、タイ(泰)のノンブラドッグから

    ビルマ(緬甸)タンビュザワまでの415キロメ-トルの鉄道です。

    タイ側304キロメ-トル、ビルマ側111キロメ-トルです。

    415キロといえば、ほぼ東京から東海道線の大垣までの距離です。

    その鉄道を1年ちょっとで完成させてしまいました。

     

    ●1942年6月大本営決定、工事開始命令10月、翌年10月完成

     人跡未踏のジャングルを切り開き、

     山岳地帯に橋を架け、岩盤に穴をあけ、

     雨期にはバケツをひっくり返したような雨が

     何日も続き増水や洪水を起こす。

     そんなところに415キロの鉄道をたった1年とは、

     神技の様な仕事です。

     しかしそれを実行したのです。

     地獄のような想像を絶する

     強制労働が行なわれたものと思われます。

     何故そのような無茶な工事が行なわれたのでしょうか?

     中国での苦戦を打破するために、

     ビルマからの援蒋ルート(連合国から中国への支援ル-ト)を

     遮断しようとした軍部はビルマに進攻しましたが、

     あまりに早い進撃をしたために

     補給が追いつきませんでした。

     通常ビルマへは海路で行くしかなかったのですが、

     それでは時間がかかりすぎることと、

     連合国の攻撃にさらされ危ないので鉄道建設を計画したのです。

     もともと無理な計画でしたが、

     戦況が悪化したため、あせって死に物狂いの工事が行なわれ、

     労務者、捕虜・・・日本軍の兵士さえも

     虫けら同然に使い捨てにされたのです。

     

    「鉄道建設部隊」

    鉄道建設のために鉄道建設部隊が作られました。

    この部隊は勿論日本人の部隊です。

    そして近くに作られた捕虜収容所とタイアップしました。

    捕虜は収容所長からの「今日は○○人出せ」と言う命令を受けて、

    建設現場へ働きに出たのです。

    捕虜ではない現地やインドネシアからの労務者は

    現地の小屋に住んでいました。

     

    ●鉄道建設部隊の組織

    大本営

     南方軍野戦鉄道隊司令部 日本人が約10,000人従事

      第2鉄道部 近衛工兵連隊、第2師団工兵連隊、

             手押し軽便鉄道隊、第4特設鉄道隊、他

             アジア人労務者約70,000人が従事していた

       鉄道第5連隊 連隊長 佐々木大佐   

               捕虜約18,000人を強制労働させた

       鉄道第9連隊 連隊長 今井??    

               捕虜約37,000人を強制労働させた

     

    「捕虜収容所」

    マレ-を制圧した時、連合軍の捕虜が予想した以上に多かったため、

    日本軍はマレ-半島に捕虜収容所を沢山作りました。

    そのうち泰緬鉄道に関係した収容所の一覧です。

    収容所の本所はバンコックにありました。

    地区

    収容所名

    捕虜数

    朝鮮人軍属

    責任者

    タイ側

    第1分所

    7,200人

    130人

    知田少佐、石井中佐

    第2分所

    9,600人

    130人

    柳田中佐

    第4分所

    11,000人

    130人

    知田少佐、石井中佐

    第6分所

    6,000人

    130人

    姥子少佐

    蜂須賀分所

    3,000人

    130人

    蜂須賀少佐

    ビルマ側

    第3分所

    9,000人

    120人

    永友中佐

    第5分所

    2,000人

    約100人

    水谷大尉

    坂野分所

    7,000人

    130人

    坂野中佐

      注:1 この数字は連合軍捕虜と働く朝鮮人軍属の数です。

         一般労務者は含みません。

        2 朝鮮人軍属は捕虜監視員として働かせられました。

           その為戦後のB・C級裁判で多くの朝鮮人軍属が

           捕虜虐待の実行者として 裁かれました。

     

    連合軍の捕虜の中でもオ-ストラリア捕虜は、

    自分たちでグル-プを作り、

    名前をアルファベットにしたり、

    フォ-スという呼び方をしました。

    ●オーストラリア捕虜が作ったグル-プ

    タイ側

     

     

    ダンロップ・フォ-ス

    1,786人

    Dフォース

    2,200人

    Fフォ-ス

    3,660人

    Hフォ-ス

    705人

    Kフォ-ス

    55人

    Lフォ-ス

    73人

    ビルマ側

     

    Aフォ-ス

    3,000人

    ウイリアム・フォ-ス

    873人

    ブラック・フォ-ス

    593人

    第5グル-プ

    385人

    注:これはオ-ストラリア兵の捕虜だけの人数です。

          合計は13,300人です。

     

    「強制労働で高い死亡率 」

    捕虜や労務者の内、

    日本軍人指揮のもと強制労働に投入された者の人数は・・

    1 イギリス、オ-ストラリア、オランダ等の戦争捕虜   

       約55,000人(62,000人の説もあります)

      ☆犠牲者(死亡者)       

      12,000人~13,000人  死亡率 21~23%

     ☆特に奥地のFフォ-スの工区では   

      7,062人中 3,096人が死亡 死亡率43.8%

     内訳 オ-ストラリア兵    

         3,662人中 1,060人が死亡 死亡率28.9%

          イギリス兵         

        3,400人中 2,036人が死亡 死亡率59.9%

      あまりの病人の多さに捕虜で組織した衛

      生隊はシンガポ-ルからの衛生隊の派遣を要請しましたが、

      実現せず、南方軍総司令部への薬の要求も

      1/10から1/20しか実現しませんでした。

    2 現地労務者

     ビルマ、タイ、マレ-半島、ジャワ(インドネシア)、

     シンガポ-ル、中国、インド等から

     約250,000人の労働者が強制労働に狩り出されました。

     その為、現在でも「ロ-ムシャ」と言う日本語が、

     東南アジア各地に現地語として残っているそうです。

     犠牲者は少なくとも42,000人以上です。 死亡率21%

     ☆イギリス政府の資料では、英領マラヤからの労務者は78,204人、

       死亡者は40,000人となっています。

     ☆ビルマ政府によれば、

      ビルマ人だけで80,000人が犠牲になったと推定しています。

     ☆日本の資料では、

      日本軍のビルマ軍政監部は1943年、

      ビルマ民政府に労務者の提供を命じ、  

      85,000人の労務者が 動員されたとなっています。

    実際の犠牲者がどの位だったのかは現在でも分かっていません。

    オーストラリアの戦争捕虜の1/3は泰緬鉄道に従事したといわれています。

     

    「 JEATH-戦争博物館」

    泰緬鉄道はまさに枕木1本に1人の

    死者といわれた位「死の鉄道」呼ばれたのは事実です。

    クワイ川鉄橋のそばに泰緬鉄道に関する博物館があります。

    JEATH-戦争博物館といいます。

    ●J(日本)、E(イギリス)、A(オーストラリアとアメリカ)

     T(タイ)、H(オランダ)の 頭文字を並べた名前です。

     それにDEATH(死)をもじって JEATHとしたそうです。

     博物館の表札には

     「許そう、しかし忘れない(FORGIVE BUT NOT FORGET)」と書かれています。

     戦後アジアの人々は日本とどう向き合ってきたのか。

     恐らく心の中は「許そう、しかし忘れない」だったのでしょう。

     心に深く留めるべき言葉です。

     泰緬鉄道は今でも一部の約20キロは使われています。

     戦争の最後の年に走った蒸気機関車のC-56は、

     1979年にタイ政府から返還されて靖国神社に飾られています。

     旧日本軍人は懐かしがっていますが、

     犠牲者に対する処置はされていません。

     数万人とも言われる遺体はまだジャングルの中に眠っています。

     

    「鉄道の開通と敗戦」

    泰緬鉄道は1943年10月25日に開通式が行われました。

    しかしこの頃の日本は戦争に負け始めていましたので、

    この鉄道は連合軍の爆撃を浴びる事になりました。

    また本来の目的であった、

    ビルマ方面への兵員や物資の輸送には役に立たず、

    逆にビルマから敗走する

    日本兵の輸送に使われたことは皮肉です。

    撤退は惨めでした。

     

    ●捕虜ア-ネスト・ゴ-ドンの手記

     負傷兵はなんの手当てを受けることもなく、

     全身を膿でおおわれ、

     そこから無数の蛆がわき出ている。

     糞尿と泥と血にまみれた姿で次々と後退してくる日本兵。

     しかし後退出来なかった兵は、ビルマの地に白骨をさらした。・・・・

     あれほど汚い人間の姿を見た事がない

     

    「記録や証言」

    ●Fフォ-ス捕虜の日記

     5月25日 中隊からコレラ発生、作業中止、

           種痘とコレラ予防注射の実施

     5月30日 食糧は定量の1/5、捕虜はほとんどが下痢をしている

     6月 4日  作業開始、捕虜の就労率35%、1日2食

     6月11日 病人47%

     6月14日 朝、お粥と薄いス-プ、昼お粥とコーヒ-半杯、夜お粥。

           捕虜が「身の置き所がないくらい空腹だ」と言う。

           増水、膝まで泥。

     6月17日~24日 どしゃ降りのなか、宿舎移転

     6月24日 捕虜はほとんどが病人、

           重患39%、軽患61%、要するに全員が患者ということだ。

           この日、終日作業。捕虜の1/4は靴がない。

     7月20日 捕虜560人中、作業に出られる者60人、

            「骸骨が靴をはいている」

           この日、死者50人

    ●労務者 マレ-系中国人・宋日開さんの聞き取り

     一行780人は1942年8月4日、

     セレンバンから連れて行かれた。

     帰還出来たのは49人・・・・

     一人ひとり、背番号を付けられた一団は、

     インド系、中国系がほぼ半々、

     マレ-人が2~3%という編成だった。

     宋さんは[669番]だった。

     カンチャンブリまでは汽車やトラックで、

     そのあとは16日間も歩いてビルマ国境のテ-モンタ-へ、

     雨期で豪雨の中を歩き続けた。

     途中で、道端にころがっている死体や、

     半ズボンで皮膚病だらけのやせ細った捕虜たちを見て怖くなった。

     集められたアジア人労働者は2~3千人はいた。

     毎日乾燥芋ばかりで、材木を切り、土を掘り、レ-ルを運ぶ。

     昼夜兼行の重労働は雨の日も続いた。

     休めばムチがうなった。

     下痢やマラリアで倒れる者が続出した、自殺した人も。

     捕虜が墓を堀りに来て死体を埋めた。

     連合軍の空襲もひっきりなしだった。

     戦争が終わった翌年、

     生き延びた約300人とやっとマレ-半島に帰った。

     日本軍は3ケ月働けば帰れると言ったのに。

     3年8ケ月も苦しめて、その上給料も払わなかった。

     それを支払えと日本政府に要求しているのです。

    ●E・I・Hコ-ナ- 捕虜としてシンガポ-ルの博物館に勤務

     ・・・・航海中に死んだ者も少なくなかった。

     そういう時には、死体を米袋に入れ、

     生き残った仲間が海に捨てた。

     米袋は穴だらけであったから、

     穴から手足が突き出ていた。

     バラックの中でも沢山死んだが、

     やはり死体を米袋に入れて海に投げ捨てた・・・・

     人夫が女であり、若くてきれいだと、

     カタン近くの兵舎に送られ、兵士の慰みものになった。

     通行人は、彼女等がジャワ語で「助けて」と

     悲鳴を上げるのを耳にし、胸を締め付けられた。

     真昼間に堂々と市民の目の前で繰り広げられたこの惨事は、

     占領直後の華僑大虐殺と並んで

     永遠に歴史上に残る日本軍の汚点となった。・・・・

     バラックは体を動かせないほど弱った人夫(ロームシャ)で一杯だった。

     中に入る事も出来なかった。

     誰かが体を動かしたすきに、

     私とバ-トは少しずつ中へ入っていった。

     腐臭のする死体のほかに、死にかけた人間が

     そこらじゅうに座ったり横たわったりしていた。

     私たちは死体が13あることを確認し報告した。

     市のトラックが来て死体を積み込み始めた時、

     13番目の死体がよろよろ立ち上がった。

     だが報告が13とある以上13集めなければならない・・・・

     

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  • 三光作戦の特徴

    2020/07/14
    13:00

    どのような手段で未治安地区を

    治安地区に したのか?

    かなり強引な手段を行使しましたが、

    その三光作戦の特徴を整理します。

     

    1 強制的に多くの無住地帯を作った。

      全てを焼き払って荒野にしてしまう作戦です。

      このために多くの住民が追払われた村は焼かれ、

      作物、家畜、食料は全て強奪されました。

      抵抗する者は殺されました。

      無住地帯の面積は5千平方キロメ-トル以上。

      (四国、九州、沖縄をあわせた位)と言われています。

    1 遮断壕を作る

      ゲリラの侵入と活動を防ぐために地図の上に封鎖線を書いて各兵団が分担して、

      幅4~6メ-トル、深さ2~3メ-トルの

      壕を何百キロメ-トルも作った。

      万里の長城にも匹敵する大工事です。

      このために延べ何百万人もの住民を強制労働させた。

    1 捕虜の殺害をした

      日本の中国侵略は戦争ではなく

      事変と呼び戦時国際法を適用しませんでした。

      その為国際法上の捕虜はいなかったことになります。

      (日本軍では俘虜という言い方をしました)

      捕虜は保護しなければならないが、

      捕虜はいないのだから殺してもよいという

      変な理屈が成り立ちます。

      また、特にゲリラは正規兵ではなく

      便衣兵(普段着の兵隊)といわれました。

      便衣兵は正規兵ではないので捕虜ではない。

      だから殺害してもよいと主張したのです。

     ●陸支密第198号支那駐屯軍参謀長宛 

        陸軍次官通牒「交戦法規の適用に関する件」  

        1937年8月5日

      現下の情勢において帝国は

      対支全面戦争を為しあらざるをもって

      「陸戦の法規慣例に関する条約

      その他交戦法規に関する諸条約」の

      具体的事項を悉く適用して

      行動することは適当ならず(原文カナ)

     

     また中国人に対する差別意識もかなりありました

     ●陸軍歩兵学校「対支那軍戦闘法の研究」の項目「捕虜の処置」    

          1933年(原文カナ)

      支那人は戸籍法完全ならざるのみならず、

      特に兵員は浮浪者多く

      その存在の確認せられあるものは少なきをもって、

      仮にこれを殺害又は他の地方に放つも世間的に問題になること無し

    1 簡単に毒ガスを使用した (別の原稿に詳しく書きました)

    1    報復や見せしめのために住民虐殺や部落の焼き討ちを日常的に行なった

    1    強姦や慰安婦の強制連行が行なわれた

     

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