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キーワード「遠藤三郎」を含む投稿一覧

  • 東郷部隊又は加茂部隊

    2020/08/06
    11:07

    1932年(昭和7年)4月、

    石井の努力の結果、牛込区戸山町(現新宿区)の

    軍医学校の中に研究施設「防疫研究室」が

    梶塚隆二を仮の主幹として発足し、

    細菌部隊は事実上スタ-トしました。

     

    ●陸軍軍医学校50年史より・・・・

     事変前における世界の情勢と

     本邦医学界における現況に鑑み、

     学校においては戦疫予防に関する

     研究の一日もゆるがせにすべからざるを痛感し・・・・・・

     昭和7年4月防疫部地下室の一部を改造し

     応急的に防疫研究室(主幹二等軍医正梶塚隆二)の

     新設を見るに至れり

     

    そして実際には8月に石井を主幹としてスタ-トしました。

     

    ●同上50年史より

     小泉教官の絶大なる支援の下に

     上司の認むるところとなり、

     軍医学校内に石井軍医正を首班とする

     研究室の新設を見るに至りしものなり。・・・・

     8月・・・・石井軍医正以下5名の軍医を

     新たに配属せられ防疫研究室を開設す

     

    発足当初のメンバ-は下記の通りです。

    ●防疫研究室職員表 昭和8年8月1日現在 

     主幹 教官陸軍一等軍医正 梶塚隆二

     部員 陸軍三等軍医正   石井四郎

     同  陸軍一等軍医    西村英二

     同   同        北川正隆

     同   同        渡辺廉

     同   同        北条円了 

     同   同        白川初太郎

     嘱託           小嘉晴雄

     雇員           菅原敏 石山金三 

                  古本広文 鳥井敏信 川畑豊

     その他(30名傭人、臨時当)

     

    防疫部の地下に間借りしていた防疫研究室は

    早くも翌1933年には2万平方メ-トルの敷地に

    約30棟を持つ巨大研究室になりました。

    防疫研究室が出来る以前から石井は満州に赴き、

    背陰河(ハルビンの南東70キロ)に

    防疫特務機関を作り、

    東京の研究室と満洲を行き来していました。

     

    ●満洲への出張日程表  先前述50年史から

     出張先  出張期間       官      氏名

     満洲  32.8.11~9.19  三等軍医正 石井四郎 

      同  33.9.30~34.3.21  同     同 

      同  32.8.9~9.6     一等軍医  増田知貞  

     以下省略(部員の全メンバ-が交代で行っています)

     

    ● 証言 韓暁 侵華日軍第731部隊罪証陳列館館長 

          「731部隊の犯罪」から

     ・・・・背蔭河駅の東部に20~30戸の民家や商店があった。

     黒田大尉は村長に命じて告示を出させた。

     「店舗と民家は3日以内に明け渡して出て行け。

     従わなければ捕えて家を焼く」というものだった。

     当地の百姓たちはしかたなく引越していった。

     黒田は雑貨店の100余りの部屋を占拠して臨時の事務所として、

     その他の店舗や民家はみな火を放って焼いてしまった・・・・

     当時は1000名近い「労工」と馬車が工場建設に強制連行された・・・・

     工場はあたかも要塞のようだったことから、

     人々は中馬城と呼んだ・・・・

     2棟の監獄は、それぞれ30余りの監房があり・・・・

     500~600人の捕虜が常時収容されていたと思われるが、

     多いときには1000人にも達した。

     

    ●証言 呉沢民

     堀を掘るために、近くの村から

     大勢の中国人が駆り出されました。

     建物の建設にあたった中国人は

     村の者ではなく、どこからか連れてこられた。

     工事が完了すると、全員殺されたようです。

     堀や塀を造る為に、私たちの村からも

     安い賃金で半強制的に徴用されました。

     もちろん私も行きましたよ。

     全部で1000人はいたのではないでしょうか・・・・

     

    1932年末石井四郎が東京の上官に送った

    手紙には次の様に書かれています。

    ◎御尽力のお陰で,我々は細菌研究面です

     でに多大の成果を挙げております。

     そろそろ実験を開始する時期となりました。

     新兵器を開発すべく我々研究者全体を

     満州国に派遣下さいますよう嘆願いたします。

     

    正式に部隊がスタ-トしたのが

    1932年なのか1933年なのか意見が分かれますが、

    1932に準備が完了して

    1933年に正式にスタ-トしたのでしょう。

     

    ●関東軍参謀副長(当時)岡村寧次の回想 岡村大将記録から

     石井機関の創設については、

     本省では、大臣、次官、軍務局長、医務局長ぐらい、

     関東軍では小磯参謀長と

     私だけが知っているという極秘中の極秘事項とし、

     私だけが直接石井と密会して

     中央と連絡するということになっていた・・・・

     ときは昭和8年のある月ある日であったと思う。

     石井研究機関は、ハルビン東南方背陰河に設置された。

     

    この特務機関の名称は背陰河守備隊でしたが、

    通称中馬城(隊長の中馬大尉の名前)と言われ、

    600メートル平方の土塀と高圧電線に囲まれた、

    中国人を使った人体実験場でした。

    この時点ではまだ731部隊とは呼ばれず、

    秘密保持のために偽名を使って

    東郷部隊(尊敬していた東郷元帥)或いは

    加茂部隊(石井の郷里の地名)と呼んでいました。

    また為幹部は偽名で働いていました。

    その後石井が前面に出るようになっても、

    石井四郎が東郷大佐、北条圓了が大山大佐、

    太田澄が大島少佐・・・・等と呼ばれていました。

     

    ●北条円了の手記から 東郷会誌1986年3月刊より

    注:東郷会は731部隊の戦友会

     ・・・・陸軍省や参謀本部の当事者を説得して、

     遂に満洲ハルピンの東方の背陰河に細菌兵器の

     防疫研究所(石井部隊)の設立を見るに至ったのでした。

     背陰河は匪賊の根拠地であったとかで

     ほんとに寂しい所で十数軒の満洲家屋のある小部落でした。

     関東軍司令部の選んでくれたここに

     石井大佐を始め軍医学校防疫研究室附の

     軍医数名、雇員若干名と共に

     満洲出張の形で背陰河に行き

     ここの住民を隣村に立ち退かせ

     部落の中で大きな数軒を選んで家屋を改造し、

     軍医学校の防疫研究室に似た研究室に改造したのでした。

     この当時石井部隊は機密保持上皆氏名を変更して

     石井さんは東郷大佐、私は大山少佐でした。・・・・

     昭和15年夏頃でしたが、

     この研究室は余りにも不便で非常に狭くて

     充分な研究が出来ないので、

     石井部隊長は陸軍省に意見具申して

     もっと大きな研究所に改装することになった。・・・・


    この段階ではすでに細菌の効力試験や

    水だけで(普通の水或いは蒸留水)で

    何日生きられるかなどの実験をしています。

    ここでの実験の成果について、

    遠藤三郎日記(陸軍中将、関東軍参謀)から見てみます。

     

    ●遠藤三郎日記

    1933年11月16日(木)快晴

     ・・・・第2班の担当は毒ガス、毒液の試験、

     第1班、電気の試験等にわかれ各OO匪賊につき実験す。

     ホスゲンによる5分間のガス室試験の者は

     肺炎を起こし重体なるも昨日よりなお、生存しあり。

     青酸15ミリ注射の者は約20分間にて意識を失いたり。

     2万ボルト電流による電圧は

     数回実施せるも死に至らず、

     最後に注射により殺し

     第2人目は5千ボルト電流による

     試験をまた数回に及ぶも死に至らず。

     最後に連続数分間の電流通過により焼け死せしむ・・・・

     夜、塚田大佐と午後11時半まで話し床につきしも安眠し得ず。

    1933年12月8日(金、降雪)

     午前10時15分拉林着。

     石井及び伊達氏に迎えられ、

     背陰河の細菌試験所を視察す。

     600メータ-平方の大兵営にして一見要塞を見るが如し。

     一同の努力の跡歴然たり。

     20数万円の経費亦止むを得ざりしか。

     

    遠藤三郎はこの時の視察の様子を

    40年後に次のように書いています。

     

    ●日中15年戦争と私

     被験者を一人一人厳重な檻に監禁し

     各種病原菌を生体に植えつけて

     病勢の変化を検査しておりました。

     如何に死刑囚とはいえ

     また国防のためとは申せ見

     るに忍びない残酷なものでありました。

     死亡した者は高圧の電気炉で

     痕跡も残さないように焼くとのことでありました。


    背陰河の東郷部隊ではかなりの

    生体実験が行なわれたようです。

    研究者が脳の研究をしたい場合、

    衛兵が監獄から適当の捕虜を選び、

    斧で頭を割り脳は研究者に、

    死体は病理学者に運ばれました。

    用の済んだ死体は証拠が残らないように

    焼却炉で処分されました。

    ここでの研究はかなりの成果を挙げたようです。

     

    ●岡村寧次大将 の回顧録から

     ・・・・着々と成果を挙げたが

     その内容は固より私はよく知らないが、

     終戦後石井の直接漏したところによれば、

     専売特許的の成果件数は200種に上るという・・・・


    一体どの位の捕虜が犠牲になったのかは

    よく分かっていません。

    1000人位の捕虜が収容できる施設に、

    通常500人から600人の捕虜が

    収容されていたと言う証言があります。

    1932年から1934(36年の説もある)まで

    2年から4年背陰河の部隊が存続した事を考えると

    犠牲者は相当の数になると思われます。

    よく731部隊の犠牲者の数が

    3000人とか4000人とか言われますが、

    これはハバロフスクの軍事裁判での

    川島清の証言や中国での吉房虎雄の供述の数字です。

    あくまでも正式に731部隊になってから

    憲兵が特移扱として連行した人数ですから、

    背陰河の東郷部隊の犠牲者数は含まれていません。

    又、他に4つあった細菌部隊の犠牲者の数は含まれていません。

     

    ●栗原義雄の回想から

    1934年5月に研究補助者として背陰河に行った。

    1936年帰国

     ・・・・背陰河の施設は、敷地が300坪程度で、

     荒野の中にありました。

     守備隊の人員は20人で、その他に憲兵が2人いました。

     正面の塀は高く、そこに銃眼がついていました。

     この土塀の上には電線が張ってあり

     電流が流されていました。・・・・

     部隊から200メ-タ-位離れたところに背陰河駅がありました。

     被験者は当時すでに丸太と呼ばれていました。

     彼らは貨車で駅まで連れてこられ、

     その200メ-タ-ほどを車で運ばれました。

     部隊には被験者となる人が常時100人程収容されていました。

     被験者はペスト班では沢山死んでいましたが、

     それ以外ではそう多くなかった。

     コレラ腸・チフス・炭疽班では、細菌をマント-(饅頭))に入れて、

     経口感染の実験をしていましたがあまり感染しませんでした。

     マント-に入れる細菌の数は軍医が決め、

     自分たち傭人は被験者に食べさせるだけでした。

     私は太田さんの下で、

     炭疽菌を入れたマント-を食べさせる仕事をしました。

     堀の中の建物は土で出来ていました。

     大きさは間口約5間から10間程のものでした。・・・・

     自分は軍属の菅原敏さんの下で

     水だけで何日生きられるかという実験をやらされた。

     その実験では、普通の水だと45日、蒸留水だと33日生きました。

     蒸留水を飲まされ続けた人は死が近くなると

     「大人味のある水を飲ませてくれ」と訴えました。

     45日間生きた人は「左光亜」という名前の医者でした。

     彼は本当にインテリで、匪賊ではなかったですね。

     

    1934年9月、部隊員たちが酒宴で

    泥酔したところを見計って捕虜の「李」が扇動して、

    囚人40人が脱走し、大部分は殺害されたものの、

    王子揚ら12人が

    東北抗日連軍(日本の侵略に抵抗した人民軍)

    第3軍第1師に保護され、

    第3軍は東郷部隊を襲撃しました。

    その為ここで行なわれていた事が

    中国人にばれたということで、

    背陰河の施設は閉鎖になり、

    全てを爆破し、捕虜は全員殺害し証拠は消されました。

     

    ● 証言 呉沢民の証言 脱走した人を助けた  

    1993年 山辺悠喜子の取材

     深夜ジャラジャラという重い鉄の触れ合う音がした。

     土匪だとばかり兄と旧式の鉄砲を握り締めた時、

     「自分たちは中馬城から逃げて来た者だ。

     済まないけどわれわれの足かせを外してもらえまいか」と

     押殺したような声がしたので、

     外を覗くと全部で33ほどもいるようだった・・・・

     「われわれは抗日地下工作員だったが、

     何人かの者が捕えられて血液をしぼり取られて死んだ。

     いちかばちか我々は暴動を起こしてやっと逃げてきた」と言う・・・・

     兄と一緒に斧で足かせを叩き壊した。

     全部は取ることができず、何人かは外したが、

     後の人は鎖だけ切って逃した・・・・

     

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  • 石井四郎の経歴

    2020/08/06
    10:05

    この様な秘密部隊は

    全て満州の731部隊から始っていますので、

    731部隊の事を中心に話を進めようと思います。

    その前に731部隊をはじめとする全細菌戦部隊は

    常に最高責任者としての石井四郎と共に語られますので,

    石井の731部隊を作るまでの略歴を書きます。

     

    ●石井四郎の経歴

    1892年6月25日 

     千葉県の千代田村加茂に、

     村一番の大地主の四男として生れる。

     母千代の家は上田藩御殿医の娘なので

     石井は軍医を目指した。

    1916年4月    

     京都帝国大学医学部入学。

     非常に優秀なため教授陣の注目を集める。

    1920年12月          

     卒業後軍医少尉に任官される。
     近衛歩兵第三連隊の見習士官となる。
    1921年4月9日  

     軍医中尉となる。

    1922年8月1日  

     東京第一陸軍病院に転勤。

    1924年      

     京都帝国大学大学院に入り

     細菌学、血清学、病理学、

     予防医学の研究をおこなう。

     京都帝国大学総長荒木寅三郎の娘と結婚、

     医学閥で人脈を持ち出世の道を歩み始める。

    1924年8月     

     軍医大尉になる

    1925年6月    

     ジュネ-ブ軍縮会議出席者、

     陸軍省医務局員の原田二等軍医(軍医中尉)の

     報告書に影響を受け、細菌戦の研究を始めたと言われる。

       注:化学戦、細菌戦を禁止したジュネ-ブ議定書が決まった

         ◎ジュネ-ブ議定書

       正式には「窒息性ガス、毒ガスまたはこれらに類する

       ガスおよび細菌学的手段の戦争における

      使用の禁止に関する議定書」と言う。

    1927年6月    

     微生物学の分野で博士号を取得。

     テーマは「グラム陽性双球菌ニ就ツイテノ研究」

     この頃たびたび東京に来て陸軍省の幹部に細菌戦の支持を訴えた。

    1928年   

     2年間かけて軍事施設の研究の為海外に派遣される。

     20ケ国以上訪問した。

    ◎ 訪問した国

     シンガポ-ル、セイロン、エジプト、ギリシャ、

     トルコ、イタリア、フランス、スイス、ドイツ、 

     オ-ストリア、ハンガリ-、チェコスロバキヤ、

     ベルギ-、オランダ、デンマ-ク、スェ-デン、

     ノルウェ-、フィンランド、ポ-ランド、ソ連、

     エストニア、ラトビア、カナダ、アメリカ・・・・

      石井がこの視察で学んだことは

     ペスト菌の利用だといわれています。

     14世紀にペストで大変な被害を受けたヨ-ロッパは、

     神の怒りに触れるとして、細菌戦の武器として

     ペスト菌を除外していたようです。 

     しかし石井はそのペストの威力に目を付け、

     日本独自の有力武器とすることを決めたと言われているのです。

    1930年    

     帰国

     東京の陸軍軍医学校防疫部教官に任命され、

     軍医少佐になる。

     陸軍上層部をバックに細菌部隊の準備を始める。

    ◎石井の言葉に耳を傾けたと思われる陸軍幹部。

        陸軍大臣    荒木貞夫

        軍務局長    永田鉄山

          (パトロンとして石井を一番応援したとされている)

        作戦課長    鈴木率道

        作戦主任    遠藤三郎

        医務局衛生課長 梶塚隆二

        医務局長    小泉親彦

    1931年    

     石井式濾水機を開発し、

     戦地の汚染された水でも

     安全な飲料水に出来る事から、

     日本陸軍が大量に採用した。

      ◎この濾水機は石井四郎の東京の

       研究所のそばにあった「日本特殊工業㈱」が

       一手に製造販売の権利を与えられ、

       会社は莫大な利益を挙げ、

       石井は高額な顧問料を受取ったといわれています。

       またこの年、細菌の大量生産を可能にする

       「石井式細菌培養缶」を発明した。

    1932年    

     東京の軍医学校内に防疫研究所が設立され

     石井が責任者になる。

     これには軍事医学界の実力者である

     小泉親彦(軍医総監、厚生大臣)の力が

     大きかったと言われています。 

     また各方面にも働きかけたようです。  

     ◎陸軍軍医学校50年史 より 1936年刊

      防疫研究室は国軍防疫上

      作戦業務に関する研究機関として

      陸軍軍医学校内に新設せられたるものなり。

      この新設に関しては昭和3年海外研究員として

      滞欧中なりし陸軍一等軍医石井四郎が、

      各国の情勢を察知し我国に之が対応施設なく、

      国防上一大欠陥ある事を痛感し、

      昭和5年欧州視察を終え帰朝するや、

      前記国防上の欠陥を指摘し

      之が研究整備の急を要する件を

      上司に意見具申せり。

      爾来陸軍軍医学校教官として

      学生指導の傍ら余暇を割き

      日夜実験研究を重ねつつありしが、

      昭和7年小泉教官の絶大なる支援の下に

      上司の認むる処となり、

      軍医学校内に同軍医正を首班とする

      研究室の新設を見るに至りしものなり。

      昭和7年8月陸軍軍医学校に石井軍医正以下

      5名の軍医を新たに配属せられ防疫研究室を開設す。

     ◎遠藤三郎日記(関東軍作戦参謀)1932年1月20日

      石井軍医正来りて細菌戦準備の必要を説明。

      共鳴する点多し。

      速やかに実現すべく処置す

             

    この頃石井四郎はしばしば次のように語っています

    「細菌研究にはAとBの2つがある。

    Aは攻撃の研究であり、Bは防御の研究である。

    ワクチンの製造のようなBは日本国内で出来る。

    しかしAは国外でしか行なえない」

     

    1932年8月11日  

     石井四郎と増田知貞は満州に派遣されました。

     この派遣は目的がはっきりしない派遣で、

     前記軍医学校50年史には

     「・・・・はっきりしない目的の為に

     陸軍軍医学校が石井と他の4名の科学者に助手を派遣した・・・・」

     とあります。

     目的のはっきりしない・・・・とは

     秘密で細菌部隊の準備を始めたと思われます。

    1933年      

     石井の為に満州のハルビンに土地と建物が与えられ、

     数百人の規模で細菌戦研究がスタ-トした。

     ハルビンの約70km南方の背蔭河に部隊が建設される。   

     これが731部隊への実質的スタ-トです。

    1945年      

     帰国、中将で敗戦

    1959年10月9日  

     新宿区若松町の自宅で喉頭がんで死亡

     

    石井とは一体どんな人物だったのでしょうか?

    ●松村知勝関東軍参謀副長(終戦時)の回想録

        「関東軍参謀副長の手記」から

     かって「陸軍には石井という気狂い軍医がいる」といわれた

     豪毅果断で宣伝上手な実行力のある軍医であった。

     彼は若い頃から奇行に富み、軍医学校教官時代、

     筆者が参謀本部編成班に勤務中の

     昭和12年頃もおしかけてきて、

     防疫給水関係の予算とか編成とかに

     強力な要求をしたものである。

     そのためには例えば、

     人間の小便から作った塩だといってなめてみせたり、

     汚水からとったという清水を

     飲んでみせたりして参謀本部のおえら方を驚かせて、

     防疫給水部の編成の拡大強化をはかった。

     全国の医科大学を巡礼して、

     優秀な医者の卵を軍医として獲得するのに奔走したり、

     とにかく大変に企画力に富み実行力豊かな人であり、

     その意志の強さは正に辻参謀に匹敵すると評判であった。

     

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